第9話「初めて買ったもの」
「おーい! ギルドのおっさーん!」
馬車から降り立ったばかりの、立派な髭を蓄えた初老の男性――『旧ギルド長』に向かって、俺が泥だらけの手を振りながら突撃しようとした、その時だった。
グエッ。
首根っこを後ろから強烈な力で掴まれ、俺の足が宙に浮いた。
「馬鹿カイ! 街の重鎮に向かって何て口の利き方してんのよ!」
「放せミナ! あのおっさんに地図のこと聞かないと、第一葉の手紙が読めないだろ!」
「今は駄目だ、新入り」
ミナだけでなく、ダインまでが俺の肩をガッチリと押さえ込んでいた。
「旧ギルド長は、地下の魔獣討伐の最終確認と、被害状況の報告を受けるために王都から急ぎ戻られたのだ。私用で引き止めていいタイミングではない。面会は後回しだ」
「ええーっ。目の前にいるのにか?」
ダインの言う通り、旧ギルド長は周囲の職員から次々と書類を渡され、険しい顔で指示を出しながら、足早に臨時本部用のテントへと消えていってしまった。
「……はぁ。あんたのペースに巻き込まれると、こっちまで寿命が縮むわ」
ミナがどっと疲れた顔で俺を解放した。
結局、旧ギルド長との面会はお預けとなり、俺たちは臨時野営地の撤収作業を手伝うことになった。
それから数時間後。
すっかり日が暮れた頃、野営地の入り口でギルドの職員から名前を呼ばれた。
「Fランクのカイ。それにミナだな」
職員の男は、ずっしりと重い革袋を二つ、俺たちの前に差し出した。
「谷崩れの際、負傷者と炊事班を守ってくれたそうだな。ダイン殿から強い推薦があった。規定外の行動ではあったが、多くの命を救った功績として、ギルドから特別報酬が出る」
「特別報酬……!」
ミナが革袋を受け取り、中身を覗き込んで息を呑んだ。
「銀貨三十枚!? Fランクの報酬じゃないわよ、これ!」
「それだけ大きな働きだったということだ。ゆっくり休んでくれ」
職員が去った後、俺たちは宿屋『踊る木馬亭』への帰り道を歩きながら、革袋の重みを確かめ合っていた。
「すごいぞミナ! これで当分、美味い飯が食えるし、屋根の下で寝られるな!」
「何言ってんの。こんな大金、無駄遣いしちゃ駄目よ」
ミナは帳簿を取り出し、歩きながら素早く計算を始めた。
「いい、カイ。あんたの目的は『七つの葉印』を巡ることなんでしょ? それなら、これからもっと遠くの街へ旅をすることになるわ。旅費、食費、不測の事態のための予備費……お金はいくらあっても足りないの。だから、この銀貨は全額、あたしが共同財布として管理・貯金しておくからね」
「えっ、全額!? 一個くらい塩とか……」
「駄目。必要な経費はちゃんと出すから、無駄なものは買わないこと。わかった?」
ピシャリと言われ、俺はしょんぼりと頷くしかなかった。確かに、ミナの方が街の金銭感覚には詳しい。
大通りを歩きながら、俺は並ぶ店先を眺めていた。
武器屋の店先にはピカピカに磨かれた剣が並んでいるが、俺は魔法使いでも剣士でもないから惹かれない。服屋の鮮やかな布地も、動きにくそうに見える。
だが、金物屋の前を通りかかった時だった。
俺の足が、ピタリと止まった。
「……おい、ミナ」
「なに? 早く帰って寝るわよ」
「あれ……ちょっと見ていいか」
俺が指差したのは、店の軒先に吊るされていた、黒光りする分厚い『鉄鍋』だった。
野営地で見た巨大なスープ鍋ほどではないが、それでも四、五人分の煮込み料理が余裕で作れそうな、どっしりとした深い造り。持ち手には頑丈な木のカバーが巻かれ、熱を逃がさない重い蓋もセットになっている。
ドクン、と胸が鳴った。
「あの鍋……すげえ。山で師匠が使ってた焦げやすい薄い鍋とは全然違う。あんなに分厚い鉄なら、肉をじっくり煮込んでも絶対に焦げ付かないぞ。焚き火の強い熱も、均等に中に通す構造だ……」
「カイ? あんた、鍋なんかに見惚れてどうしたのよ」
「ミナ……俺、これが欲しい」
俺は自分でも驚くほど、真剣な声で言っていた。
今まで、山で暮らしていた俺は『物が欲しい』と強く願ったことがなかった。
寝る場所は地面で十分。食べるものは森で採れる。服は寒さをしのげればいい。
だが、この鉄鍋は違う。これがあれば、どこを旅していても、俺の手で一番美味い飯を作ることができる。野宿だろうが街だろうが、これ一つで温かい時間を生み出せる。
生まれて初めて、自分の金で『これを自分の所有物にしたい』という強烈な欲求が湧き上がっていた。
「本気? でもこれ、ドワーフの工房の特製品よ。値段、見てみなさいよ」
ミナに言われて値札の木札を見る。
『銀貨十五枚』
「ぎんかっ、じゅう、ご……!」
俺は青ざめ、三歩後ずさった。
今日命がけで手に入れた特別報酬の、なんと半分だ。
「た、高すぎる……! ただの鉄の塊だぞ!? 一晩で屋根の下に何回泊まれる金額だ!」
「だから言ったじゃない。諦めて貯金……」
「いや、買う!!」
俺は血走った目で金物屋の親父に向かって叫んだ。
「おやじさん! これ、この鍋をくれ! 今すぐだ!」
震える手で革袋から銀貨を十五枚数え出し、親父の手に押し付けるようにして渡した。
「まいどあり! いい買い物したな、坊主。こいつは一生モノだぜ!」
親父から鉄鍋を受け取った瞬間、そのズッシリとした重みが両腕に伝わってきた。
「重い……これが、俺の鍋……」
ただの道具のはずなのに、不思議と心が満たされていくのを感じた。
「あんたって本当に変な奴ね。剣でも防具でもなく、最初に買うのが鍋だなんて」
ミナは呆れ顔だったが、その目は少しだけ笑っていた。
「残りの十五枚は、約束通りあたしが管理するからね。さあ、宿に帰るわよ」
帰り道、香辛料屋の軒先に白い小袋が並んでいた。俺は足を止める。
「ミナ、塩は旅の食料だよな?」
「……経費として必要。銅貨は最初の財布に残ってる?」
「ある!」
俺は山ではひとかけずつ削っていた塩を、一袋だけ自分の銅貨で買った。指先につけて舐める。細かい粒が舌の上でほどけ、汗をかいた体に染みた。
「うまい。これで鍋を作るぞ」
「塩をそのまま舐めて『うまい』って言う人、初めて見たわ」
その日の夜。
宿の二階の俺の部屋の扉が、またしてもバンッと開け放たれた。
「ちょっとカイ! 明日の予定の確認……って、あんた何やってんのよ!」
部屋に入ってきたミナが、目を丸くして硬直した。
俺は、ふかふかのベッドの上で、毛布にくるまりながら、今日買ったばかりの黒い鉄鍋を大事そうに腕の中に抱きしめていた。
「おう、ミナか。なんだ、この鍋、鉄の匂いがして落ち着くんだぞ」
「鍋を抱いて寝る馬鹿がどこにいるのよ! ベッドが油で汚れるでしょ! 早く床に置きなさい!」
「嫌だ! 初めて自分で選んで買った物だぞ。誰かに盗まれたらどうするんだ!」
「こんな街中の宿屋で鍋だけ盗む泥棒なんていないわよ!」
ミナにこっぴどく怒られ、俺はしぶしぶ鍋をベッドから下ろした。
だが、ただ置いておくのもつまらない。
俺は腰の小刀を抜き、床に置いた鉄鍋の縁の厚い部分に、ガリガリと傷をつけ始めた。
「今度は何してるのよ……」
「印をつけてるんだ」
俺は小刀の刃先で、不格好な葉っぱの形を七つ、円を描くように削り込んだ。
師匠が持たせてくれた『押し葉』に刻まれているのと同じ、古い刻印のマークだ。
「これでよし。これでもう、世界中どこを探しても、この鍋は俺だけのものだ」
鍋に刻まれた不格好な葉っぱの印を見て、俺は満足げに笑った。
ミナは呆れたように息を吐いた後、ふと真面目な顔になって言った。
「……そういえば、旧ギルド長のことだけど」
「ああ、おっさんか。明日こそ話を聞きに行くぞ」
「ギルドに使いを出して確認したわ。明日の昼前なら、ギルドの応接室で面会時間を取ってくれるそうよ」
「本当か! よし、明日こそ手紙の場所を聞き出してやる!」
翌日。
俺とミナは、冒険者ギルドの奥にある立派な応接室のソファに座っていた。
目の前のふかふかの椅子には、昨日馬車で到着した旧ギルド長が、疲れた顔で深々と腰を下ろしている。
「さて。昨日は谷崩れの救助、見事だったそうだな。それで、私に直接聞きたいこととは何だ?」
旧ギルド長は、温かいお茶をすすりながら鷹揚に頷いた。
「俺、この街の『第一葉』って場所を探してるんだ。地図には旧ギルド倉庫って書いてあるんだけど……そこに入るための鍵がこれなんだ」
俺は首から下げた紐を引っ張り、樹脂で封じられた『押し葉』を取り出した。
「ただの葉っぱに見えるが、何か特殊な魔道具……」
旧ギルド長が、何気なくその押し葉を受け取り、表面を覗き込んだ。
次の瞬間。
ガタンッ!!
旧ギルド長が椅子を蹴り倒すほどの勢いで立ち上がり、持っていたティーカップが床に落ちて粉々に砕け散った。
「お、おい!?」
俺が驚いて声を上げると、旧ギルド長は顔面を蒼白にし、押し葉に刻まれた『七つの葉っぱのマーク』――古い刻印を震える指でなぞった。
「ば、馬鹿な……この刻印……! いや、それよりもこの術式、この魔力波長は……!」
旧ギルド長の目が、信じられないものを見るように俺を射抜いた。
「貴様……この葉を、誰から受け取った!!」




