第8話「師匠はただの爺さんです」
「お前さん……その技、どこで覚えた。もしかして、『ベレン』という男に教わらなかったか?」
水路を塞いでいた岩をどかし終え、泥だらけになっていた俺の背中に、白髪の古老が震える声を投げかけた。
討伐本隊に混ざっていたその老冒険者は、顔の深い皺に緊張を走らせ、俺の手の動きを射抜くように見つめている。
「ん? なんだ、あんた、うちの爺さんのこと知ってるのか?」
俺が汗を拭いながら無邪気に振り返ると、古老は「ヒッ」と短く息を呑み、よろめくように数歩後ずさった。
「や、やはり……! あんな、魔力を貯め込まずに自然の理を強引に捻じ曲げるような真似、あの男以外にできるはずがない! 四十年前、この国の……いや、世界の一部を切り捨てたと言われる、あの……!」
古老のただならぬ様子に、野営地の空気がスッと冷えた。
近くにいたダインが、鋭い視線で古老に歩み寄る。
「待て、老兵。そのベレンという名は、私も王都の士官学校で聞いたことがある。だが、詳しい記録はどこにも残っていなかったはずだ。歴史から意図的に削られた、おぞましい魔術師だと……」
「そうだ。その名は禁忌に近い。空すらも断ち切るほどの恐ろしい力を持ち、多くの命を……」
「あははははっ!」
緊迫した空気を、俺の大笑いが切り裂いた。
古老もダインも、ぽかんとして俺を見た。ミナだけが「また空気を読まないで……」と頭を抱えている。
「空を断ち切る? おぞましい魔術師? なんだそれ、全然違うぞ! 人違いじゃないか?」
「な、なにがおかしい! 現にお前はあの規格外の技を……」
「いやいや、だってあいつ、ただの偏屈な爺さんだぞ?」
俺は泥だらけの手に腰を当て、胸を張って言った。
「空なんて操れないさ。天気がいい日は、小屋の前の切り株で昼寝しながら空を見て、大口開けて欠伸してるだけだ。たまに鳥のフンが顔に落ちてきて大騒ぎしてたしな!」
「は……?」
古老の顔から、悲壮感がスッと抜け落ちた。
「おぞましいってのも違うな。この前なんて、夕飯の猪肉を煮込んでる最中に居眠りして、大事な鉄鍋を真っ黒に焦がしちまったんだ。そしたら『わしの人生は終わりじゃ……』とか言って、丸一日小屋の隅で膝を抱えて落ち込んでたぞ。仕方ないから俺が川で砂利を使って鍋を磨いてやったんだ」
「な、鍋を焦がして落ち込む……?」
「そうそう。あと、すっげえケチなんだよ。山で採れた保存用の葉っぱを大事にしすぎて、しまい込んでるうちにカビを生やしちゃってさ。『わしの宝が……』って泣きそうな顔で天日干ししてたのは傑作だったな!」
「…………」
静寂。
野営地にいた討伐隊の冒険者たちも、炊事班のおばちゃんたちも、誰も言葉を発しない。
古老が数十年かけて熟成させていた『伝説の恐ろしい魔術師・ベレン』のイメージが、焦げた鍋とカビた葉っぱと共に、音を立てて崩れ去っていく音が聞こえるようだった。
「おい、カイ。いくらなんでも、師匠をそんな風に言うもんじゃないぞ」
見かねたダインがたしなめるように言ったが、俺は笑うのをやめなかった。
「いいんだよ、本当のことだからな。でもさ……」
俺は少しだけ声のトーンを落とし、空を見上げた。
「あいつ、変なところばかりだけど、俺にとっては大事な爺さんなんだ」
ダインが少しだけ目を細める。
「俺、赤ん坊の頃に山に捨てられてたらしいんだ。でも爺さんは、血も繋がってない俺を拾って、俺が拾われた日を『誕生日』にしてくれた」
俺は泥を払った手で、自分の鼻の頭を掻いた。
「山じゃ、冬は死ぬほど寒い。俺が五歳の頃かな、ひどい熱を出してぶっ倒れた夜があったんだ。そしたら爺さん、普段は山を降りるのをあんなに嫌がってたのに、吹雪の中を夜通し走って、街まで薬を買いに行ってくれたんだよ。次の日の朝、薬を握りしめて帰ってきた爺さんの方が、雪ダルマみたいに真っ白で凍え死にそうになっててさ。俺の熱が下がった後、二人で囲炉裏に当たりながら大笑いしたっけな」
俺にとっては、いつ思い出しても笑える、温かい記憶だった。
ミナが、ほんの少しだけ優しい顔をして、俺の横顔を見ていた。
「それからさ、爺さんは毎晩、俺に『今日の良かったものを三つ数えろ』って言うんだ」
俺は指を三本立てた。
「俺は毎日、飯がうまかったとか、天気が良かったとか適当に言うんだけど、爺さんは一つ目と二つ目は普通に言うくせに、三つ目になるといっつも顔を背けて『もごもご……』って言葉を濁すんだよ」
「言葉を濁す?」とダインが尋ねる。
「ああ。絶対『今日の鍋がうまかった』とか『昼寝が気持ちよかった』とか、そういうくだらないことなんだよ。でも、弟子に言うのが恥ずかしくて誤魔化してるんだ。だから俺はいつも『どうせ鍋だろ!』って笑ってやるんだよ」
あはははは、と俺が笑うと、古老は深く長いため息をついた。
「……そうか。あの男が、赤子を拾い、鍋を焦がし、吹雪の中を薬のために走ったか……」
古老の目には、もう怯えはなかった。何か、とても遠い昔の毒気が抜けたような、静かな光が宿っていた。
「歴史から削られようと、記録がどう語ろうと、お前さんにとっては『ただの爺さん』なんだな。わかった、もう野暮なことは聞くまい」
「なんだよ、あんたも爺さんに用があるなら、山に行けばいいのに」
「よしておくさ。わしの知る『ベレン』は、もうどこにもいないようだからな」
古老はそう言って、小さく笑いながら怪我人のテントの方へと歩いていった。
その時だった。
「おい! 王都へ行っていた旧ギルド長が戻られたぞ!」
見張りの若い冒険者が、息を切らせて野営地に駆け込んできた。
その声に、ダインの表情が再び引き締まる。
「早かったな。地下の旧ギルド倉庫の流路に魔獣が侵入したと聞いて、急ぎ馬を飛ばしてきたのだろう。本隊の被害状況を報告しなければ」
「旧ギルド長? 偉い人が来たのか?」
俺が首を傾げると、ミナが俺の背中をバシッと叩いた。
「何のんきなこと言ってんの! 第一葉の手紙がある『旧ギルド倉庫』の元責任者よ! 事情を聞き出すには絶好のチャンスじゃない!」
「おお、そうか! じゃあ早速行って、これ見せてみようぜ!」
俺は首から下げていた、樹脂で封じられた『押し葉』を引っ張り出した。
「ちょっとカイ、急に飛び出したらまた怒られるわよ!」
ミナの静止を振り切り、俺は泥だらけの服のまま、到着したばかりの立派な馬車の元へと駆け出したのだった。




