第56話「失うのが怖い」
灰色の空の下、俺は世界樹谷へ向かう道で何度も通信機を確かめた。指揮所に残ったザザは修理隊を率い、ミナの帰路と避難車列のために仮設橋を補強している。カレドへの迂回輸送を率いると決めたのはミナ自身だ。護衛を増やしたところで、空喰いの風の進路までは読めない。
谷を一つ越えるごとに、ニアが地図に車列の位置を記した。往路の橋は遠く、帰路だけが谷の南側の尾根で俺たちの道に近づく。俺たちは第七葉へ、ミナたちは水と薬を必要としているカレドへ。どちらかが遅れれば、向こうの備蓄が先に尽きる。
『前の橋は、板が半分飛んでるそうよ。馬車を分けて渡す。急ぐけど、荷車ごと川に落とすよりまし』
「俺がそこまで行って支えようか」
『間に合わないし、あなたは谷へ行く。こっちの護衛が板を打ち直すわ』
ミナの声の後ろで槌の音が続いた。ザザが選んで持たせた予備の釘の音だ。俺は自分の鍋を見下ろした。今あの橋に必要な道具は、俺の手元にない。
『一台ずつ。水樽の方を先に。落ちたら取り戻せないから』
どこかの御者が、薬を後回しにしていいのかと叫ぶ。ミナは「どちらも届ける。まず橋を壊さない」と答えた。小銭を数える時と同じ声だった。
『右後方、魔物二頭。予備の空樽を捨てて。薬箱は残す!』
通信の向こうで車輪が跳ね、護衛が返事をした。俺は助けに走りたかったが、距離がある。今できるのは、息を詰めて報告を待つことだけだった。
『カレドの防壁が見えた。開門の許可は? ……よし、車列を通して!』
少しして、帳簿をめくる音がした。
『カレドの出張所、荷を受け取ったわ。水も薬も、数量は帳簿どおり』
『受領印を押します。出張所から各区画へ配るのはこちらの仕事です。よく運んでくれました』
知らない男の声が入る。次に、樽の栓を抜く音と、誰かが子どもを列の前へ呼ぶ声が聞こえた。ミナが運んだものは帳簿上の数字だけじゃない。あの街で水を待つ親子も、今頃は列にいるかもしれない。
「ミナ、橋は?」
『通したわ。釘は何本か残ったけど、予備を持ったザザに礼を言っておいて。御者も護衛も無事よ』
「帰り道の風だけ、気をつけてくれ」
『風の向きは私も見てる。変わったら途中で待機する。無理に戻ることはしないわ。谷の南側の尾根に来たら連絡する』
声が聞こえた途端、俺の膝から力が抜けた。渡したかったのは「無理するな」という言葉だった。でも、それを言えば彼女が選んだ仕事まで軽くしてしまう。
「届けたんだな。さすがだ」
『当たり前よ。帰りに話す。今は谷を見てて』
通信が切れた。俺は笑いながら、地図を握り直した。
ほどなく、ニアの地図で帰路の点が谷の南側の尾根へ近づいた。そこで南の空が黒く欠ける。風が谷へ向かって伸びるなら、ちょうどミナの車列を横切る。通信を呼び直しても返事はない。
「ダイン、南の車列が危ない。救護班を連れて来てくれ。俺は先に行く」
「待て。風を借りる源も薄い」
「ここから尾根までは近い。残ってる谷風の道だけ使う。なければ走る」
ダインは短く頷いた。俺は斜面を駆け下りた。風の境目を渡りながら、いちばん近い尾根まで走る。そこから先は足だけだ。
横転した馬車が見えた。空の荷台が崩れた岩に引っかかり、護衛たちが御者とミナを支えている。ミナの右足が車軸の下敷きになっていた。
「ミナ!」
「……遅い。荷はちゃんと届けたわよ」
その顔を見て、俺は答える前に息を吸った。助ける手順を探す。岩の下へ回す丸太、御者の荷締め縄、斜面から残る風。俺の術だけで岩を跳ね上げれば、足をさらに傷める。
「護衛の人、縄を車軸へ。俺が浮かすのは指二本分だけだ。ミナ、痛むだろうけど、少し待てるか」
「待てる。引き抜く時は合図して」
縄を張り、梃子で車軸をわずかに持ち上げる。その間だけ谷風を借りて支え、御者が岩を除く。ミナ自身が体をずらした。車軸が地面に落ちて、俺は借りた流れを谷へ戻した。
「折れてるかもしれない。動かさないで」
ミナは自分の足を指して、先にそう言った。俺は護衛が持ってきた板で固定するのを手伝った。
「……よく荷を届けたな」
「商人だもの。でも、今は褒めるより水をちょうだい」
俺は水筒を開き、彼女が飲むのを待った。カレドで教わったことを、こんな時に忘れるわけにはいかない。
「ほかに足りないものは?」
「治療できる人と、帰りの馬車。あんたが抱えて走るのは却下」
「わかった。ダインが来る。……ミナ」
「なによ」
「風の中で、お前の声が返ってこなかった。怖かった」
ミナは口をつぐんだ。俺も、そこは笑って済ませられない。
「お前が選んだ仕事を止めたいわけじゃない。帰ったら、また違う意見も聞きたい。王都のあの宿を、二人で見に行きたい」
「……まだ買ってない宿よ」
「だから帰って、買う算段を一緒につけよう」
「算段をつけるなら、まず借用書の返済ね」
「それも忘れてない」
ようやくミナが笑った。俺はその声を聞いて、自分の手が震えていたことに気づいた。
ダインとニア、それに護衛の救護班が尾根に到着した。処置を任せる前に、俺はミナに聞く。
「今日の良かったもの、一つ目だけ言ってもいいか」
「……言いなさいよ」
「ミナが生きてる」
「そうね。それは私も同じ」
帳簿で叩かれると思って身構えたが、彼女はただ俺の袖を一度だけ引いた。二つ目と三つ目は、帰ってから探せばいい。
ニアが足を固定し、ダインが馬車を手配した。ミナは輸送の引き渡し控えを自分の袋へ入れる。
「荷の受領印はある。私の仕事はここまで。あなたは七つ目へ行って」
「ああ。帰る道を残してくる」
俺は救護車が指揮所へ走り出すまで見送り、世界樹谷へ向き直った。谷への道では、先に進んでいたベレンの爺さんとグランツが待っている。




