第55話「持っているから、渡せる」
「ミナさん! 出発は少し待ってください!」
カレドへの危険な迂回ルートを開拓するため、ミナが輸送車列の先頭の馬車に乗り込もうとしたその時、臨時指揮所の天幕からニアが血相を変えて飛び出してきた。
「どうしたの、ニア? 忘れ物?」
「違います、計算結果が出たんです!」
ニアは手にした魔力計器の投影盤を、ミナと、その場に集まっていた俺たち『一枚葉』の全員に見えるように広げた。
「各地の組合からの自発的な融通と、王都の水道局などの支援により、六つの地域節点を結ぶ『一枚葉ネットワーク』の基礎回路は構築できました。七つ目は現地で接続する予定です。……ですが、駄目です。絶対的な総量が足りません!」
「総量が足りない?」
ダインが眉をひそめると、ニアは悔しそうに唇を噛んだ。
「はい。灰色の『空喰い』が魔力を食い尽くすスピードが、私たちの予想を遥かに上回っています。このままでは、カイさんたちが第七葉の『世界樹谷』へ到達する前に、ネットワークの魔力圧が負けて、回路全体が完全に崩壊してしまいます!」
その言葉に、指揮所前の広場に重い空気が落ちた。
人と人の縁が繋がり、奇跡のような支援網が出来上がった。だが、自然界の恐ろしい捕食者に対抗するには、思いやりの気持ちだけではどうにもならない『物理的な限界』が存在するのだ。
「……じゃあ、まず今この臨時指揮所に残っている予備の『蓄魔晶』を前線の回路へ回せないかしら」
ミナが馬車から飛び降り、分厚い帳簿を開いた。
「でも、指揮所の蓄魔晶と救護物資まで全部は駄目。決戦が長引けば、帰る道と治療の手段を失う。四割は安全圏に残すわ」
「ちょっと待ちなさいよミナ!」
ザザが金槌を片手に、ミナの前に立ちはだかった。
「今この瞬間、回路が崩壊しそうなのよ!? でも帰りの工具と薬箱は残さなきゃ。使える蓄魔晶を先に選びましょう!」
「だから、先が見えない戦いなのよ! 計画的な備蓄がなければ、明日全滅するかもしれないのよ!」
「今を凌げなきゃ、明日は来ないのよ! 予備のうち半分だけでも先に回せない?」
商人として未来の安全を「貯めて残す」ミナと、職人として使うべきものを今見極めるザザ。
二人の意見は真っ向から衝突し、それぞれが自分の主張を書き込んだ羊皮紙をバサッと取り出した。
「カイ! あんたがリーダーでしょ! この『予備魔力の中長期的な運用計画表』を見て判断しなさい!」
「カイ! アタシの『今使う分と帰りに残す分』も見て! 三割を前線へ、残りは修理と救護に取ってある!」
「えっ、俺!?」
二人は俺の両脇に立ち、ものすごい剣幕で計算表の束を俺の顔面に押し付けてきた。
「ちょっと待て、二人とも。最初に守るのは、どっちだ?」
ミナは「救護と帰路」、ザザは「切れかけた回路」と答えた。俺は二枚の紙を見比べる。
「だったら、指揮所の予備は残そう。その代わり中央の備蓄を先に各地へ渡せるか、おっさんに聞く」
「……その問いには私が答えよう」
背後から重く、静かな声が響いた。
グランツ総監だった。
彼は俺の手から二つの羊皮紙をそっと抜き取ると、ミナとザザの顔を交互に見た。
「ミナ君の言う『未来のために残す』という備えも、ザザ君の言う『今を生き抜くために使う』という判断も、必要だ」
グランツは、視線を旧断流点の灰色の空へと向けた。
「四十年前に私の故郷が滅びた時、私にはそのどちらの力もなかった。だから私は、何があっても揺るがない巨大な『盾』を作ろうと、今日まで備蓄を積み上げてきたのだ。……カイ殿」
「おっさん……?」
グランツは、俺の方を見て微かに微笑んだ。
「君が言ったな。私の『貯める』力と、君の『流す』力を合わせようと。……第五葉の手紙の言葉、今なら私にもわかる気がする」
グランツは懐から、最高権力者のみが持つ黄金の通信魔道具を取り出した。
「王都の第一蓄魔晶、オルムの大蓄槽、各地の管理者へ。契約に基づき、中央備蓄を地域回路へ段階的に放出する。まずはカレド方面の圧力を回復せよ。救護と帰路の予備は残す」
『各地への放出権限は総監だけでは足りません。王宮の封印も必要です! 王家の署名なら通信魔道具を通して受け付けられます』
通信機の向こうで役人が答えると、リヴィアが前に出た。
「ここで王家の署名を送り、封印を解きます。その後は王都へ戻り、放出が続くよう宮廷で責任を持ちますわ」
「殿下、ご自身の権限を?」
「ええ。誰かが持っている鍵なら、その人が使うべきでしょう」
リヴィアが通信魔道具に王家の印を押すと、王宮から認可の返答が届き、大蓄槽の制御弁が開いた。指揮所の足元に青白い光が脈打つ。彼女はその流れが続くよう王都で監督に当たるため、護衛と早馬に乗った。
「各地域への補給が始まりました! カレド方面の圧力も持ち直しています。ただし、第七葉への直結はまだ閉じています。最終弁は現地で開けなければなりません」
ニアが地図を見上げた。線は光を取り戻したが、谷へ続く最後の一本だけは暗い。
「これで輸送の時間を稼げる。ミナ君、救護物資は残したまま出発してくれ」
グランツの言葉に、俺は頷いた。借りた力が、まず待っている街へ届いている。
「よし! これで心置きなく出発できるわね!」
ミナが馬車の御者席に飛び乗り、手綱を握りしめた。
「カイ、ダイン、ニア! あたしはこれでカレドへ向かうわ。あんたたちは第七葉の世界樹谷へ。ザザ、指揮所と避難車列の修理を頼むわ。空喰いを足止めしている間に、元凶をぶっ叩いてきて!」
「おう! 任せとけ!」
ザザは指揮所に残り、避難車列の車軸修理と帰路の仮設橋の補強を引き受けた。
「必要なら呼んで。壊れたものはアタシが繋ぎ直す」
「ミナ、道中はくれぐれも気をつけてな。魔物の動きが不規則になっているはずだ」
ダインが忠告すると、ミナは「商人舐めないでよね」と不敵に笑い、馬車を走らせた。
土煙を上げて南の迂回ルートへと消えていくミナの車列を見送り、俺たちもまた、すべての因縁が待つ『第七葉』へ向けて歩みを進め始めた。
地域の回路は持ち直した。だが谷への最後の弁はまだ閉じている。あそこを開くのは俺たちだ。
通信機には、ミナから出発の短い報告が入った。ニアが地図に、ミナたちの往路と帰路、俺たちの谷への道を色分けして書く。往路の橋は遠い。だが帰路は谷の南側の尾根を横切り、俺たちの道に一度だけ近づく。「帰りの尾根に差しかかったら連絡して」とニアは伝えた。




