第51話「無いものからは借りられない」
「第七葉がある場所……世界樹谷」
ダインが、ニアの展開した広域魔力計器の投影地図を見つめて渋い声を出した。
すべての環境魔力が吸い寄せられている震源地。そこは、俺たちがいまいる旧断流点から、さらに西の奥深くへと進んだ手付かずの秘境だという。
「行くしかねえな。その谷に何があるかは知らねえが、元凶を絶たなきゃこの灰色の風は止まらない」
俺は腰の鉄鍋の位置を直し、仲間たちを見回した。
通信機越しに連携を約束してくれた『一枚葉』のネットワークが機能し始めているとはいえ、それはあくまで時間を稼ぐための延命措置にすぎない。
「ええ。準備を急ぎましょう」
ミナが帳簿を閉じ、出発の号令をかけようとした、その時だった。
ヒュオォォォォォ……。
突然、風の音が、ひどく耳障りな甲高い音に変わった。
「……おい。なんだ、あれ」
ザザが、西の空を指差して声を震わせた。
灰色の濁った空の中に、さらに色の濃い、どす黒い『何か』が生まれていた。
それは巨大な竜巻のような無形の渦だった。だが、ただの風の渦ではない。その渦が空を通るたびに、まるで絵の具を水で乱暴に洗い流したように、空の灰色すらも薄くなり、不気味な白紙へと変わっていく。
「空の色が、消えていく……?」
リヴィア王女が信じられないものを見る目で呟く。
「色だけじゃありません! ああっ、計器の針が振り切れています! あの渦、大気中の魔力そのものを『直接喰って』います!」
ニアが悲鳴を上げた。
四十年前、爺さんやグランツのおっさんが体験したという『飢えの風』。それは、環境魔力の循環が途切れることによって起こる、ゆっくりとした衰弱現象だったはずだ。
だが、今西から迫ってきているあの渦は違う。魔力を積極的に食い荒らし、世界を物理的に削り取っていく『捕食者』だ。
「――空喰い」
ベレンの爺さんが、杖を落としそうになりながら震える声で言った。
「返し口が枯れきれば、空いたところへ周りの力を吸い込む。だが、魔力の枯渇が極限まで達して、あのような怪物が生まれるとは……!」
ゴオオオォォォッ!!
『空喰い』の渦が、凄まじいスピードで旧断流点の谷を越え、俺たちがいる臨時指揮所へと迫ってきた。
渦が通り過ぎた地面からは、草木の緑が一瞬で消え失せ、土の匂いすらもが奪い取られていく。避難民の天幕の布地が、魔力を吸い取られてボロボロに崩れ去る。
俺は咄嗟に、皆の前に飛び出した。
「カイ!?」
「来るな! あんなもん、陣地に入れさせねえ!」
俺は両手を大きく広げ、足を踏ん張った。
どんなに巨大な渦だろうと、自然の力なら、同じ自然の力で相殺できるはずだ。
俺は『残り見』の感覚を限界まで研ぎ澄まし、風を、地面の弾性を、大気の熱を、ありったけ借りようとした。
「――全部、借りるぞッ!!」
俺は両手を空喰いの渦に向かって突き出した。
だが。
ポフッ。
俺の手から出たのは、焚き火の煙よりも頼りない、弱々しい空気の塊だけだった。
「なっ……!?」
魔法が、発動しない。
いや、違う。俺の体の中に魔力がないのと同じように、俺の周囲の空間から、すでに『力を借りるための源』が根こそぎ空喰いによって食い尽くされていたのだ。
王都の地下にある封魔室で経験したのと同じ状態。だが、その規模が桁違いだ。
「無いものからは、借りられない……!」
俺は自分の無力さに絶望した。
相手は物理的な怪物じゃない。だから殴ることも蹴ることもできない。
そして《環流術》が使えない俺は、あの巨大な災害を前にして、ただ突っ立っているだけの無力な人間だった。
「カイ!!」
ミナの悲鳴が響く。
空喰いの巨大な渦が、俺の体を飲み込もうと迫り来る。
死ぬ。
本能がそう告げた瞬間。
「――出力全開! 第一から第四ロック、解除!」
ニアの鋭い声と共に、俺の目の前に、青白く輝く分厚い『魔力の防壁』が展開された。
バチィィィィィンッ!!!
空喰いの渦が防壁に激突し、凄まじい火花と衝撃波が撒き散らされる。
「うわぁっ!」
俺は衝撃で吹き飛ばされ、地面をゴロゴロと転がった。
「カイさん! 大丈夫ですか!」
ニアが駆け寄ってくる。その後ろでは、グランツ総監が、馬車に積まれていた巨大な青い水晶――純度百パーセントの『特級蓄魔晶』の塊に手をかざし、強引に魔力を引き出していた。
「無駄に魔力を放出するな、ニア! あの怪物は魔力を喰う! 装甲の密度を極限まで高め、物理的な反発力だけで弾き返すのだ!」
「わかっています、総監!」
二人の連携によって展開された高密度の人工防壁は、空喰いの猛威をギリギリで押しとどめていた。自然の魔力が空っぽのこの空間で、彼らが事前に『貯め込んでいた』魔力だけが、俺の命を繋ぎ止めてくれたのだ。
数分間の拮抗の後、空喰いの渦は防壁を破るのを諦めたのか、ふいっと方向を変え、再び西の空へと去っていった。
「……助かった」
俺は地面に大の字になり、荒い息を吐いた。
全身が冷や汗でびっしょりだ。
「馬鹿者! なぜ魔法が使えないとわかっていて前に出た!」
ダインが駆け寄り、俺の胸倉を掴み上げて怒鳴った。
「わりぃ……。俺ならなんとかできるって、心のどこかで思ってたんだ」
俺はダインの手をポンと叩き、フラフラと立ち上がった。
そして、まだ青白い光を放ちながら熱を持っている巨大な『蓄魔晶』の前に歩み寄り、ペコリと深く頭を下げた。
「うおおっ! この人工の石ころ、すっげえ頼りになるな! 俺の魔法が効かなくて本当に死ぬかと思ったぞ! 助かったぜ、石ころ、ありがとな!」
俺が蓄魔晶に向かってペコペコと素直に礼を言っていると、後ろからミナの帳簿が飛んできた。
「石に挨拶してどうすんのよ! お礼を言うならニアとグランツ総監でしょ!」
「あ、そうか! ニア、それにグランツのおっさんも、ありがとな!」
俺が頭を下げると、グランツ総監は複雑そうな顔でため息をついた。
「……礼には及ばん。だが、君のその《環流術》が通じないとなると、事態はいよいよ絶望的だな」
俺は、去っていった空喰いの軌跡を見た。
空の色が失われ、地面は灰のように乾き切っている。
俺一人じゃ、あの怪物は倒せない。俺の魔法は、世界に豊かさがあるからこそ使えるものだ。世界が空っぽになってしまったら、俺の力はゼロのままだ。
「……俺だけじゃ、解けない問題なんだな」
俺の呟きに、仲間たちが静かに頷いた。
自然からの借り入れが機能しないなら、人工の『備蓄』に頼るしかない。
「総監」
ニアが、熱を持った蓄魔晶を指差した。
「今の接触で、あの『空喰い』の波長と性質がある程度計算できました。奴は魔力を無尽蔵に食いますが、一度に許容できる『飽和量』の限界は必ず存在します」
「飽和量、だと? まさか君は……」
「はい。奴が食いきれないほどの超高密度の魔力を一気に流し込み、内部から破裂させるしかありません。……それには、総監。あなたがオルムの地下に建造している『大蓄槽』の、国家すべての魔力備蓄が必要です」
ニアの言葉に、グランツ総監の表情が険しくなる。
「……だが、大蓄槽からあの怪物の元まで、どうやってそれほどの魔力をロスなく届けるというのだ。回路がなければ不可能だぞ」
「それは、私たち『一枚葉』にお任せください。私とミナさん、そして各地の組合の力があれば、必ず道を作れます」
俺は、腰の鉄鍋を鳴らして笑った。
「おっさん。出し惜しみしてる場合じゃないぜ。あんたの持ってる全部と、俺たちの持ってる全部を合わせよう」
最強の備蓄と、空喰い対策のための緊急技術会議が、灰色の風が吹く臨時指揮所で幕を開けた。




