第5話「今夜はごちそうだ」
「ミナ!! 逃げるぞ、街へ走れ!!」
森の奥から飛び出した俺は、入り口の切り株に座って待っていたミナの腕を掴み、問答無用で引きずり起こした。
「きゃっ!? ちょっとカイ、どうしたのよ! 薬草はちゃんと採れたの!?」
「草むしりどころじゃない! 来るぞ、ものすごい数が!」
俺が背後を指差した直後だった。
ズズンッ、メキメキメキッ! と、太い木々が根元からへし折られる轟音が森の奥から響き渡った。
鳥たちが空を真っ黒に染めるほど一斉に飛び立ち、地面が微細な地震のように震え始める。
「な、なによあの音……」
ミナの顔から血の気が引いた。
木々の隙間から見えたのは、土煙を上げて猛進してくる魔物の大群だった。鋭い爪を持つ風切りヒョウ、大木ほどの大きさがある大蜘蛛、そして無数の角猪。本来なら縄張りも生態も違うはずの魔物たちが、まるで一つの生き物のように塊となって、街の方向へと殺到してきている。
「嘘でしょ……魔物の暴走!? こんな街の近くで、しかもあんな数が!?」
ミナが恐怖に足をもつれさせ、その場にへたり込んだ。
無理もない。あれがそのまま街の防壁にぶつかれば、外壁の薄い商人区画はひとたまりもないだろう。
だが、そんな絶望的な光景を前にして、俺の目はきらきらと輝いていた。
「おおーっ! すげえ!」
「……え?」
「見ろよミナ! あのデカい角猪、いい脂が乗ってそうだ! 風切りヒョウは肉が筋張ってて硬いから煮込みにするとして……あの大蜘蛛! あいつの脚は太いから、殻ごと火に放り込んで蒸し焼きにすると、中身がトロットロで最高にうまいんだぞ!」
俺は指を折りながら、迫り来る魔物の群れの中で『食える種類』を猛烈な勢いで数え上げていた。
「な、何言ってんのよあんた!!」
ミナが半狂乱になって俺の足を蹴り飛ばした。
「今は夕飯のメニュー考えてる場合じゃないでしょ! 死ぬわよ、私たちも街の人間も、ペチャンコになって死ぬわよ!!」
「街へは行かせない。食えるかどうかは、逃げ道を作ってからだ!」
俺は前に進み出ると、大きく息を吸い込み、迫り来る群れの先頭に向かって両手を突き出した。
魔力はない。だから世界から借りる。
これだけの質量を止めるには、かなり大きな力が必要だ。俺は周囲の空間に『残り見』の感覚を広げた。森の木々を揺らす太い風の道。地面の下を流れる地下水の脈動。それらを全部、俺の体を筒にして繋ぎ合わせ、巨大な壁として撃ち出す。
「――全部、借りるぞ!」
俺は叫び、風と大地に意識を引っ掛け、思い切り引っ張った。
……しーん。
「あれ?」
何も起きなかった。
風の壁も、大地の隆起も、何一つ発生しない。ただ、俺の両手が虚しく宙に突き出されているだけだ。
「カイ! 魔法は!? あんたのあの凄い魔法はどうしたのよ!」
「お、おかしいぞ……力が入ってこない。空っぽだ!」
俺は焦って何度も手を振ったが、結果は同じだった。
森の奥で感じたあの『枯渇区画』の影響が、すでにこの森の入り口付近まで及んでいたのだ。
自然の魔力も、風のうねりも、大地の弾力も、何もかもが不自然なほど死に絶えている。
《環流術》は無から有を生み出す魔法ではない。そこにある流れを借りる術だ。
つまり――『無いものからは、借りられない』。
「くそっ、流れが来ない。術は使えない!」
「そんな……じゃあ私たち、本当にペチャンコじゃない!」
ミナが頭を抱えて悲鳴を上げた。
群れはもう、数十メートル先まで迫っている。風切りヒョウの飢えた赤い目がはっきりと見えた。
魔法が使えない。なら、どうする?
決まっている。山でやっていたことをやるだけだ。
「ミナ、耳塞いで、地面に伏せろ!」
俺は腰の袋から、火打ち石と『煙草』と呼ばれる湿った野草の束を取り出した。
すぐさま近くの窪みに草を放り込み、火打ち石を叩く。ジュワッという音と共に、水分をたっぷり含んだ野草から、強烈な刺激臭を伴う真っ白な煙が爆発的に立ち昇った。
「ゲホッ、ゴホッ! な、なにこれ!」
「獣は煙と火を嫌う! これで一瞬だけ足が止まる!」
俺の読み通り、先頭を走っていた風切りヒョウたちが、突如現れた白い煙の壁に驚いて急ブレーキをかけた。後続の角猪たちがそこに追突し、群れの先頭が玉突き事故のように崩れる。
だが、これだけでは長くは保たない。
「よし、こっちだ!」
俺はミナを抱え上げ、煙の壁の横をすり抜けるようにして、森の斜面を駆け上がった。
「ひいぃぃっ! どこ行くのよ!」
「谷間だ! あの群れはパニックになってるだけで、街を狙ってるわけじゃない。逃げる道を作ってやればそっちへ流れる!」
俺は斜面を走りながら、周囲の地形を観察した。
倒木、岩、斜面の角度。
「あの岩を落とせば……いける!」
俺は斜面の中腹にあった、絶妙なバランスで引っかかっている大岩の下に潜り込み、テコの原理を使って丸太をねじ込んだ。
「ミナ、手伝え! 俺が合図したらこれに乗れ!」
「わ、わかったわよ!」
「せーのっ!」
二人で丸太に飛び乗ると、メキッという音と共に大岩が斜面を転がり落ちた。
ゴゴゴゴゴッ!
大岩は群れの進行方向の右側に激突し、大きな土煙を上げた。
煙の壁と、右から降ってきた大岩。パニック状態の魔物たちは、本能的に安全な左側――つまり街の城壁ではなく、川沿いの深い谷間へ続く獣道の方へと進路を変え始めた。
「よし! 曲がったぞ!」
俺のサバイバル技能で、群れの直撃コースはなんとか逸らすことができた。
だが、完全に勢いを殺したわけではない。谷は先で行き止まりになるが、そこへ追い詰めるだけでは危ない。群れが落ち着くまで、俺たちが出口を見張る必要がある。
群れが谷間へ雪崩れ込んでいくのを追いかけながら、俺は肌に当たる空気の感触がわずかに変わったのを感じた。
「……あった」
枯渇区画の境界線だ。
森の死んだ空気から抜け出し、谷間を流れる川の水気と、吹き上げる谷風の生き生きとした気配が戻ってきた。
「ミナ、街の衛兵を呼んでくれ! 俺はここで足を止める!」
「わかった! 戻るまで無茶しないでよ!」
俺はミナを斜面に下ろし、谷間へと飛び降りた。
空中で両手を広げる。
今度は、確かに感じた。川のせせらぎ、谷風のうねり、岩肌の反発力。
「――少し、借りるぞ!」
谷風の『上昇気流』を背中に受け、俺の体は弾丸のように加速した。
群れの先頭を走る風切りヒョウの背に飛び乗り、その首を足場にしてさらに跳躍。空中で『川の流れの勢い』と『俺自身の落下のエネルギー』を渦のように束ねる。
「ほおぉぉっ!」
群れの中央、一番密集している場所へ向かって、その力を解き放った。
ドゴォォォォン!!!
俺の着地と同時に、借り物のエネルギーが爆発的に拡散した。
見えない風の衝撃波が円形に広がり、周囲の魔物たちをまとめて吹き飛ばす。大蜘蛛がひっくり返り、角猪たちが次々と岩壁に激突して気を失っていく。
パニックを起こしていた群れの勢いは、この一撃で完全に削ぎ落とされた。生き残った魔物たちは蜘蛛の子を散らすように、谷間の奥へと逃げ去っていった。
「ふう。返すぞ」
俺は残った風を空へ逃がし、川の勢いを水面へ戻した。
谷間に静寂が戻る。俺の足元には、見事に気絶した角猪と大蜘蛛が数匹転がっていた。
「止まった! 衛兵が来るまで出口は塞いでおく。……それから、食える種類か調べよう」
俺が手を振ると、斜面の上からミナがへなへなと座り込むのが見えた。
「術が使えない場所でも、煙と地形は使えるのね。衛兵には私から事情を伝えるわ」
だが、俺の喜びは長くは続かなかった。
ズズ……ズズン……。
逃げ去った群れとは違う。もっと重く、もっと巨大な足音が、枯渇区画の奥から近づいてくる。
俺は振り返り、目を細めた。
木々をなぎ倒して現れたのは、通常の角猪の三倍はある、全身が岩の鎧で覆われたような大型個体だった。
だが、そいつの様子はおかしい。群れを追って谷間へ来るのではなく、フラフラと何かに惹かれるように、街の方向――正確には、街の外れにある『旧ギルド倉庫』の方角へと真っ直ぐに向かっていた。
「あいつ、街の地下を目指してるのか……?」
枯渇区画を作った原因。それが自然現象ではなく、人為的な何かだとしたら。
大型の魔獣の背中を見送りながら、俺は事態がただの『ごちそう狩り』では終わらない予感を感じていた。




