第47話「命令より救助」
旧断流点の荒涼とした谷底から崖を登り切り、平野部に出た俺たちの目に飛び込んできたのは、無数の大きな天幕が整然と並ぶ、巨大な陣地だった。
「あそこが、王立充足院の『臨時指揮所』ね。警戒が厳重だわ」
ミナが崖の陰から身を潜め、巨大な帳簿を胸に抱きしめながら言った。
天幕の周囲には、灰色の制服を着た充足院の役人たちだけでなく、揃いの銀色の鎧を着込んだ王国軍の騎士たちが何十人も巡回し、完全に道を封鎖している。
「中央計画を前倒しするために、軍の部隊まで動員しているのか。グランツ総監は本気らしい」
ダインが厳しい顔で呟き、長剣の柄を握り直した。
俺たちは隠れるのをやめ、堂々と指揮所の正面入り口へと向かって歩き出した。俺の後ろには、杖をついたベレンの爺さんも黙ってついてきている。
「止まれ! ここは充足院の臨時指揮所だ! 何者だ!」
入り口を守っていた五人の騎士が、一斉に槍と剣を構えて立ち塞がった。
「退け。我々はグランツ総監に直接言上したいことがある。取り次げ」
青いマントを翻し、ダインが静かに、だが圧倒的な威圧感を持って前に出た。
その顔を見た瞬間。槍を構えていた騎士たちの顔色が一瞬で青ざめ、ガチガチと鎧を鳴らして震え始めた。
「だ、ダ、ダイン隊長……!? いや、元隊長!」
「なぜあなたがここに!? も、もしかして、また我々にあの『特製野営鍋』を振る舞いに来たんですか!?」
「えっ?」
緊迫した空気が、旧部下たちの一言でピタッと止まった。
「頼むからお引き取りください! あなたが騎士団を辞められてから、部隊の食事は平和になったんです! 今でもあの、名も知らぬ野生の草と得体の知れない魔物の肉をドロドロに煮込んだ『激マズ煮込み鍋』を食わされる夢を見るんですから!」
屈強な騎士たちが、本気のトラウマを思い出したように涙目で訴えてくる。
「……失礼な。あれは戦場における栄養と効率、それに疲労回復を極限まで計算した会心の鍋だったはずだが」
ダインが本気で不満そうに首を傾げた。
「ほら見ろ! やっぱりダインの鍋は俺以外には不評じゃないか!」
「あんたも戦闘より先に食い物のことで言い争うのやめなさいよ!」
俺が指差して笑うと、ミナの帳簿が俺の後頭部をスコーンと叩いた。
「ふざけている場合ではありませんよ、元隊長」
騎士たちの奥から、一際立派な鎧を着た男が歩み出てきた。ダインの部隊の、かつての副官らしい。
「我々はグランツ総監の特命により、この指揮所を警護しています。総監は今、この周辺地域に残されているすべての備蓄物資を『緊急接収』し、オルムの大蓄槽へ運ぶ計画の最終調整に入っておられます」
「物資を接収だと? そんなことをすれば、この周辺の民はどうやって飢えを凌ぐつもりだ」
「それは我々の知る管轄ではありません。軍の命令は絶対です。抵抗する者は、かつての上官であろうと容赦はしません」
副官が剣を抜くと、周囲の騎士たちもトラウマを振り払い、一斉に殺気を放った。
命令は絶対。それが、国を守る軍隊のルールだ。
だが、ダインはため息を一つつき、ゆっくりと自分の長剣を抜いた。
「……お前たちは相変わらずだな。私はかつて、軍の命令よりも、目の前で逃げ遅れた民間人の救助を優先してこの長剣を置いた。そして今日、私は再び同じ選択をする」
ダインの青い瞳が、鋭く光った。
「私は私の規律を選ぶ。今のこの土地から物資を奪えば、民は死ぬ。そのふざけた命令には、絶対に従えん!」
「やれっ!!」
副官の号令と共に、十数人の騎士たちがダインに向かって一斉に斬りかかった。
「おう! 俺も手伝うぞダイン!」
俺は一歩踏み出し、足元の風を両手に集めた。
ダインが凄まじい剣戟で騎士たちの武器を次々と弾き飛ばし、陣形を崩す。その隙を突いて、俺が圧縮した風の塊を放ち、鎧ごとまとめて吹き飛ばしていく。
「うわぁぁっ!」
「な、なんだこの威力は!」
ダインの正確無比な剣技と、俺の《環流術》の連携。
殺し合いじゃない。俺たちは相手の武器と戦意だけを的確に叩き割り、ものの数分で入り口の守備隊を完全に無力化してしまった。
「――何の騒ぎだ!」
入り口での戦闘の音を聞きつけ、指揮所の一番奥にある巨大な天幕から、数十人の近衛兵を引き連れて、銀髪の初老の男が現れた。
グランツ総監だ。
そしてその足元には、カレドから逃亡し、ちゃっかり総監の側近面をして媚びへつらっている実務官・セルドの姿もあった。
「お、おのれ『一枚葉』! ここまで追ってきたというのか! 総監閣下、こいつらは充足院の偉大な計画を妨害するテロリストです! すぐに処刑を……!」
「待ちなさい!!」
セルドの言葉を遮るように、ミナとニアがダインの後ろからスッと前に出た。
「テロリストはどっちよ、セルド。あんたが制度の名を借りてやってきた悪事、全部ここで暴いてあげるわ」
ミナは、胸に抱えていた分厚い羊皮紙の束を、グランツ総監の足元にドサリと投げ落とした。
「総監! その書類を見てください。カレドの街で、この男が採掘会社と裏で結託して結んでいた、水脈と魔力源の違法な『前借り契約書』の写しです!」
「なっ……!?」
セルドの顔面が、一瞬で紙のように白くなった。
「それだけじゃありません!」
ニアも前に出て、手元の魔力記録を再生する水晶を掲げた。
「オルム近郊における支援物資の『物流妨害』。彼が裏で傭兵を雇い、わざと物資の到着を遅らせて市場価格を不当に吊り上げ、賄賂を受け取っていた証言と記録のすべてです!」
「き、貴様ら……!」
ミナとニアが突きつけた、言い逃れのできない完璧な証拠の山。
グランツは、足元に投げられた書類を拾い上げ、数ページに目を通した。
その顔は、氷のように冷たく、そして恐ろしいほどの怒りに満ちていた。
「……セルド。これは、どういうことだ」
「そ、総監閣下! これは誤解です! 私は充足院の資金を潤沢にするために、少しばかり柔軟な運用を……!」
「黙れッ!!」
グランツの一喝が、指揮所全体を震わせた。
「私が四十年かけて築き上げた『持たざる者を救うための備蓄制度』。それを、己の私腹を肥やすために悪用し、あまつさえ民の命を脅かしたと言うのか! 貴様のやったことは、私の理念に対する万死に値する侮辱だ!」
グランツは書類を握り潰し、傍に控えていた近衛兵に冷徹に命じた。
「セルドの委託実務官の権限を、今この瞬間をもってすべて剥奪する。物資の横流しと権限の濫用の疑いで直ちに拘束せよ!」
「はっ!」
「ひぃぃっ! お、お待ちください総監! 私はただ……!」
近衛兵たちによって、セルドはあっという間に地面に押さえつけられ、手枷をはめられた。
俺たち『一枚葉』が積み上げてきた証拠が、ついに悪党を完全に打ち倒した瞬間だった。
「……見事だ、一枚葉の諸君。我が組織の腐敗を見抜き、決定的な証拠を突きつけた君たちの手腕と功績を認めよう」
グランツは深く息を吐き、俺たちに向かって少しだけ頭を下げた。
処分を下したのは彼だが、決着を作ったのは間違いなく俺たちの力だ。
「だがな、総監!」
拘束され、地面に顔を押し付けられながらも、セルドは血走った目で悪足掻きのように叫んだ。
「私が私腹を肥やしたことは認めましょう! ですが、私の名前で発動した『周辺地域からの緊急接収命令』は、すでに各村へ発送され、現場で動いている最中です! 今さら取り消そうとしても、もう止められませんよ!」
「なんだと……!」
グランツが顔をしかめた、その直後だった。
「……おい。なんだ、これ」
俺は、ふと周囲の空気が急速に冷え込んでいることに気づいた。
いや、冷たいだけじゃない。
空の色が、薄い灰色に濁り始めている。土の匂いが消え、風の音が、まるで耳鳴りのように乾いた金属音へと変わっていく。
「世界が、痩せていく……」
俺の後ろで、今まで黙って事態を見守っていた爺さんが、震える声で呟いた。
四十年前。爺さんがこの場所で流れを断ち切った時に吹いたという、最悪の災厄の風。
「……飢えの風だ。再発したのだ……!」
グランツが、信じられないものを見る目で空を仰いだ。
セルドの残した無茶な接収命令のせいで、地域の魔力循環が完全に限界を迎え、プツリと切れてしまったのだ。
俺たちの戦いは、ここからが本当の正念場だった。




