第46話「爺さん、遅い」
供給都市オルムを出発し、荒れ果てた旧騎士輸送路を西へ進むこと数日。
俺たち『一枚葉』の五人とリヴィア王女は、巨大な大地の裂け目のような、荒涼とした谷底を見下ろす崖の上に立っていた。
岩肌はひどく乾燥し、かつて豊かな水や魔力が流れていたであろう水路の跡が、まるで巨大な刃物で乱暴に断ち切られたように途切れている。
「……ここが、地図の『第六葉』がある場所よ。だけど」
ミナが俺の持つ古い地図を覗き込み、眉をひそめた。
「地図上のこの場所の地名、真っ黒に塗りつぶされて削り取られてるわ。なんていう名前の場所なの?」
「名前はない。……いや、歴史から消されたと言うべきか」
ダインが崖の下に広がる巨大な裂け目を見つめ、重々しい声で答えた。
「ここは『旧断流点』。四十年前の飢えの風の際、グランツ総監の故郷へ向かう魔力の流れが、人工的に、そして強制的に遮断された場所だ」
その言葉に、誰もが息を呑んで押し黙った。
ここが、俺の爺さん……ベレンが、多数を救うために地方を切り捨てるという残酷なレバーを引いた、決断の地。
そして、グランツのおっさんがすべてを奪われた悲劇の地だ。
谷底からは、今でも乾いた風が怨嗟のうめき声のように吹き上がってきている。
「……行こうぜ。節点の印は、この谷の底だ」
俺は先頭に立ち、崩れかけた岩の階段を慎重に下っていった。
谷の底には、四十年前の巨大な魔力遮断の衝撃で半分崩れ落ちた、古い石碑がひっそりと佇んでいた。
石碑の台座には、見慣れた七つの葉印のうち、六つ目の窪みがある。
俺は首から下げた押し葉を取り出し、ゆっくりとその窪みにはめ込んだ。
カチリ、と重い音がして、石碑の裏側から樹脂で封じられた手紙が滑り出てきた。俺はそれを受け取り、封を切る。
『わしの言葉より、そこで暮らした者と戻ってきた者を見ろ』
「戻ってきた者……?」
俺が手紙の文面を読み上げて首を傾げた、その時だった。
「……少しは、たくましい顔つきになったようだな、カイ」
乾いた風の音に混じって、背後からしわがれた声が響いた。
俺が弾かれたように振り返ると、そこには、粗末な布の服を着て、杖をついた白髭の老人が立っていた。
王宮の資料庫で見た、あの威厳ある立派なローブ姿の《空環》の設計者ではない。俺が十八年間、毎日顔を突き合わせていた、山奥の偏屈な爺さんがそこにいた。
「ベレンさん……!」
ミナが驚きの声を上げる。ダインもザザも、リヴィア王女までもが、その伝説の魔術師の登場に緊張で息を止めた。
感動の再会。四十年ぶりの因縁の地での邂逅。
だが、俺は爺さんの顔を見た瞬間、一直線に歩み寄り、その胸ぐらを掴む勢いで鼻をクンクンと鳴らした。
「……爺さん! お前、また俺が置いてきた予備の鍋焦がしただろ!!」
「なっ!?」
俺の指摘に、爺さんの肩がビクッと跳ね上がった。
「抱擁より先に言うことがそれか、この馬鹿弟子が! 焦がしてなどおらんわ!」
「嘘つけ! お前の服から、完全に炭になった野菜と煤の匂いが染み付いてるぞ! 俺がいなくなったからって、火にかけたまま昼寝したな!」
「ひ、昼寝などしておらん! これはその……ちょっと火力が強すぎただけで……!」
「それを焦がしたって言うんだよ!」
俺と爺さんが顔を突き合わせてギャーギャーと口論を始める。
さっきまでの悲壮感漂う空気は一瞬でぶち壊しになり、背後でミナが「感動の再会を三秒で台無しにしないでよ!」とずっこけ、ザザが「あんたら本当に親子ねぇ」と呆れていた。
だが。
一通りのくだらない言い合いが終わると、俺はスッと真剣な表情に戻り、爺さんのしわくちゃな顔を真っ直ぐに見据えた。
「……爺さん。遅いぞ」
「ん? ああ、すまん。山を下りるのに手間取ってな……」
「そうじゃない」
俺は、半分崩れかけた石碑と、断ち切られた水路の跡を指差した。
「ここに戻ってくるのに、四十年もかかったのかよって意味だ」
俺の言葉に、爺さんの顔から言い訳がましい表情がスッと消え、深い、底なしの静寂が訪れた。
「……グランツに、会ったのか」
「ああ。オルムでな。爺さんが四十年前、あのおっさんの故郷を見捨てたことも聞いた」
俺は、ずっと聞きたかったことを、本気でぶつけた。
「爺さん。あんたが山でずっと俺に教えてくれた『持たない暮らし』ってのは、なんだったんだ?」
「…………」
「あれは、足るを知るっていう立派な哲学なんかじゃなかったんだな。自分がこの場所を切り捨てて、たくさんの人を死なせたことへの……ただの『罰』だったのか?」
爺さんは、何も答えなかった。ただ、深く皺の刻まれた顔を伏せている。
「俺を山で拾って育てたのも……現実から逃げるための、ただの『言い訳』だったのかよ! 俺がいれば、一人で罪に向き合わなくて済むから……だから俺を……!」
俺の悲痛な叫びが、荒涼とした谷底に響き渡った。
ミナが「カイ……」と痛ましそうに呟き、俺の背中に手を伸ばそうとするが、ダインがそれを無言で制した。これは、俺と爺さんの親子の問題だ。
長い沈黙の後。
爺さんはゆっくりと顔を上げ、俺の目を見た。
「……お前の言う通りだ、カイ。わしは逃げた」
爺さんの声は、驚くほど穏やかだった。
「多くの命を救うためとはいえ、己の手で切り捨てた命の重さに耐えきれなくなった。だから、何も持たないふりをして、山に引きこもり、すべてから目を背けたのだ。お前を育てた時間が、わしにとっての心地よい逃げ場所であったことも……否定はせん」
爺さんは自分の弱さを、一切の言い訳をせずに認めた。
その潔さが、逆に俺の胸をチクチクと刺した。
「……逃げ場所、か」
俺は少しだけ俯いた。
俺が信じていたものは、結局、爺さんの後悔と逃避から生まれた偽物だったのか。
だが、俺はどうしても一つだけ、腑に落ちないことがあった。
「じゃあさ。あの『三つ数え』は、なんだったんだよ」
「む?」
「俺が小さい頃から、毎晩毎晩『今日の良かったものを三つ数えろ』って言ってたよな。俺は今日までずっとそれを信じて数えてきた」
俺は一歩、爺さんに詰め寄った。
「罰を受けて逃げてるだけの奴が、なんで毎晩『良かったこと』なんて数えるんだよ。しかも爺さん、昔から俺と一緒に数える時、三つ目だけいつもモゴモゴ言って誤魔化してたよな。……あの三つ目、本当は何だったんだよ!」
俺が核心を突くと、爺さんは突然「あーっ!」と大げさに天を仰いだ。
「おお、そういえば今日の夕飯の仕度を忘れておった! いかんいかん、早く火を起こさねば、また鍋が焦げてしまうわい!」
「おい! 誤魔化すな!」
「なんの事かな? わしは少し耳が遠くてな! ダイン君と言ったか、すまんがそこの枯れ枝を拾ってきてくれんか!」
「爺さん!!」
俺がいくら問い詰めても、爺さんは露骨に目を逸らし、その質問にだけは絶対に答えようとしなかった。
なんだよそれ。逃げたことは素直に認めたくせに、どうしてそこだけ頑なに隠すんだ。
「……はぁ。もういいよ、わかった」
俺は大きく息を吐き出し、爺さんを睨みつけるのをやめた。
俺は腰の袋から、土産話帳を取り出した。
第六葉の節点がある、この旧断流点。俺の価値観の根本が揺らぎ、師匠が逃げ出した過去の場所。
俺は羽ペンを取り出し、迷うことなくページに書き込んだ。
「何を書いたの、カイ?」
ミナが横から覗き込む。
「決まってるだろ」
俺は書き終えた手帳を、ポンと叩いた。
『逃げた人が戻ってきたこと』
爺さんが四十年前に逃げ出したのは事実だ。俺の暮らしがその逃げ場所だったのも事実だろう。
でも、爺さんは今、こうして四十年かかって、一番思い出したくないはずのこの場所へ、自分の足で戻ってきた。
俺の旅のきっかけを作って、俺の後を追って、ここまでやってきた。
それが、爺さんにとってどれだけ重くて、勇気のいる一歩だったか。逃げた過去を責めるより、戻ってきたその一歩を数える方が、俺らしいじゃないか。
「……爺さん」
俺が手帳をしまいながら声をかけると、焚き火の準備をしていた爺さんが振り返った。
「色々とムカつくことはあるけどな。俺はお前に拾われて、結構幸せだったぞ。だから……戻ってきてくれて、ありがとな」
俺が素直に言うと、爺さんは少しだけ目を丸くして、やがてフンッと鼻を鳴らした。
「……ふん。馬鹿弟子が、生意気な口を利くようになったわい」
爺さんはそう言って背を向けたが、その背中がほんの少しだけ震えていたのを、俺は見逃さなかった。
俺と爺さんが、どうにか親子の形を取り戻した、その時だった。
「――皆さん! 緊急事態です!」
少し離れた場所で、通信用の魔道具を耳に当てていたニアが、血相を変えて駆け寄ってきた。
「どうした、ニア」
ダインが問いかけると、ニアは息を切らしながら報告した。
「王都の魔術院からの緊急通信です! オルムの『大蓄槽』への魔力集中計画が、予定より大幅に前倒しで開始されました! それだけじゃありません……」
ニアは、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「グランツ総監本人が、王都の近衛兵を率いてオルムを出発しました。向かっているのは……この旧断流点側に設置された、大蓄槽の『臨時指揮所』です!」
「なんだと?」
ダインが鋭く目を細める。
グランツのおっさんが、自らこの因縁の場所へやってくる。
それはつまり、四十年前に分かれた師匠と弟子が、そして俺たちの『借りて返す』と『貯めて配る』が、ついに真っ向から衝突することを意味していた。
「……来るなら来い」
俺は、横に立つ爺さんの背中を見て、拳を固く握りしめた。
逃げる場所は、もうどこにもない。




