第40話「今夜の宿は俺が払う」
「うおおおおっ! ダインの鍋はやっぱり最高だぜ!」
鉱山都市カレドの中央広場に、俺の大きな歓声が響き渡った。
チョロチョロと澄んだ水音が戻った水路のそばには、いくつもの大きな鉄鍋が火にかけられ、香ばしい肉と野菜の匂いが漂っている。
セルドたち採掘会社から街の権利を取り戻した『地域供給契約』の成立を祝う、ささやかだが活気に満ちた宴だった。
「焦らずともたくさんある。今日はお前たちのために王都の香辛料を少し多めに使ったからな」
ダインがお玉を持ちながら、満足げに微笑む。
「お代わりちょうだい! アタシ、この三日間まともに食べてなかったから、胃袋に穴が空きそうよ!」
ザザが空になった大きな木の椀を突き出し、街の若者たちと笑い合っている。
俺が水を分けた母親と小さな男の子も、安心した顔で熱いスープを飲んでいた。
数日前まで、この広場を覆っていたあのパサパサに乾いた絶望の空気は、もうどこにもない。
「……よかったわね。本当に」
隣に座ったミナが、帳簿を閉じながらしみじみと呟いた。
「ああ。やっぱり飯は、みんなで腹一杯食うのが一番うまいな」
俺がスープを一気に飲み干して息を吐いた、その時だった。
「いやぁ、一枚葉の皆さん。今日は本当にありがとう」
広場の外れから、街の宿屋の主人が揉み手をして近づいてきた。
「おかげで街に水が戻って、うちの宿も営業を再開できましたよ。今日は皆さんのために、一番いい部屋とフカフカの布団を用意してありますから、宴が終わったらゆっくり休んでくださいな」
「おおっ! あの布団で寝られるのか!」
俺はガタッと立ち上がった。
ミルヴァの街で初めて知った、あの柔らかくて温かい、人間をダメにする罠のような布団。
「よし、おっちゃん! 今夜の宿代は、俺が全部払うぞ!」
俺がバンッと胸を叩いて宣言すると、ミナが目を丸くした。
「ちょっとカイ、急にどうしたのよ? あんた、商都ミルヴァに着いた時は『宿代より地面の方が安いから野宿でいい』って言ってたじゃない」
「あの時はな! でも、今は違う」
俺は広場にいる、疲れ切った老人や、避難生活で砂埃にまみれた子供たちを見渡した。
「みんな、何日も熱い地面の上で不安な夜を過ごしてきたんだ。今日は、屋根の下で、柔らかい布団に包まって安心して寝てほしいだろ」
俺は腰の袋から、王都の魔術院からもらった報酬の銀貨を掴み出した。
「俺の仲間と、まだ家に帰れない避難家族の分、全部だ! 金は使ってなんぼだって、ザザも言ってたからな!」
俺の成長した(?)言葉に、ミナはふっと優しく微笑み、ダインも「立派な心がけだ」と頷いた。
「じゃあおっちゃん、これで何人泊まれる?」
俺がドサッと銀貨を差し出すと、宿屋の主人は少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「ええと、お気持ちは嬉しいんですがね、カイさん。これだけの大人数となると、お湯も沸かさないといけませんし、リネン代もかかりますから……今の銀貨の数だと、ちょっと足りない、というか、もう一袋分くらいは……」
「…………ひえっ!?」
俺の顔面から、スッと血の気が引いた。
「えっ、そ、そんなにするのか!? 布団の上で一晩目をつぶって寝るだけだぞ!? なんでそんなに金がかかるんだよ!」
「いや、ですからお湯代とか、シーツの洗濯代とか……」
主人が苦笑いする前で、俺の足がガタガタと震え始めた。
王宮の床を壊した時の修理費の恐怖が蘇る。一晩の宿代で、俺のなけなしの全財産が消し飛ぶだけでなく、足りないというのだ。
「ふふっ。足りない分は、あたしが共同財布から出してあげるわよ。カイがカッコつけちゃったんだから仕方ないわね」
ミナが笑いを堪えながら言うと、俺は「ううぅ……」と涙目になりながらも、差し出した銀貨を引っ込めなかった。
「い、一度払うって言ったんだから撤回しないぞ! 俺の全財産だ、持ってけおっちゃん!」
「いよっ、一枚葉のリーダー、太っ腹!」
ザザが冷やかし、広場の住民たちがドッと笑い声を上げた。
その夜。
俺たちは宿の広い部屋で、それぞれ自分のベッドの柔らかさを堪能していた。
ニアとザザはすでに寝息を立て、ダインは剣の手入れをしている。
「カイ。ちょっといいかしら」
部屋の隅の小さな机で、ランプの光を頼りに帳簿をつけていたミナが、俺を呼んだ。
「ん? どうしたミナ」
「王都からの報酬と、今日の街からの謝礼金の計算が終わったわ。それでね、あんたに伝えておくことがあるの」
ミナは帳簿のページを一枚めくり、ペンでトンと叩いた。
「昨日、緊急物資のために私の貯金から出した五十金貨。街の謝礼と、契約見直しで戻った金の一部を共同財布に入れたわ。だから、あなた個人の負担は減らせる」
「え?」
俺はベッドから起き上がった。
「共同財布で半分以上は埋められる。あんたが五十金貨を全部背負わなくても……」
「駄目だ」
俺の真っ直ぐな言葉に、ミナの言葉がピタリと止まった。
「五十金貨は小さくない。返し方を決めるなら、私にも相談させて」
「その入金は、みんなで助けた街からの謝礼だ。ミナが個人の貯金を出すと決めた時、俺は自分の分から返すと約束した」
俺はミナの前に立ち、彼女の目を真っ直ぐに見下ろした。
「だから俺の取り分を借りに充ててくれ。いくらをいつまでに返すか、紙に残したい」
「カイ……」
ミナが少しだけ戸惑ったように目を伏せる。
俺は部屋の隅にあった、ミナの予備の羊皮紙と羽ペンを手に取った。
「インク、借りるぞ」
俺は机に向かい、羽ペンを不器用に握りしめた。
河港リュドでミナと契約を交わした時、俺は「契約書は崖より怖い」と本気で怯えていた。
文字の羅列が俺を縛り付け、自由を奪うバケモノのように見えたからだ。
でも、セルドとの戦いを経て、俺は契約というものの別の顔を知った。それは、誰かを縛るためじゃなく、大切なものを守るための『約束の形』なのだ。
「……よし、書けたぞ」
俺は書き終えた羊皮紙を、ミナの前に差し出した。
「なによこれ……字、汚いわね」
ミナが呆れたように言いながら、その紙を手に取る。
そこには、たどたどしい字でこう書かれていた。
『ミナに五十金貨を絶対に返す。期限は、ミナが宿を買う時まで』
そして一番下には、俺の『カイ』という署名が大きく書かれている。
「……約束を、紙に残す。リュドの街でお前が俺に教えてくれたことだろ」
俺がニカッと笑うと、ミナは羊皮紙を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
ランプの光に照らされた彼女の耳が、少しだけ赤くなっているような気がした。
「……ばかね。こんな殴り書き、正式な借用書としては落第点よ」
ミナは小さく呟くと、その羊皮紙を丁寧に半分に折りたたみ、一番大事にしている帳簿の隙間にそっと挟み込んだ。
「でも、商人は契約を反故にはしないわ。……あんたのその約束、ちゃんと受け取ったからね」
「おう! 任せとけ!」
俺とミナは、互いに顔を見合わせて、小さく笑い合った。
翌朝。
カレドの街が完全に活気を取り戻した穏やかな朝に、招かれざる客がやってきた。
王都から数日かけて走ってきたであろう、王家の紋章をつけた早馬だった。
「『一枚葉』のリーダー、カイ殿だな」
疲労困憊の使者が、ダインに支えられながら一通の親書を俺に手渡した。
「……なんだこりゃ。また王宮からの招待状か?」
俺が封を切ると、ミナが横から中身を覗き込み、サッと顔色を変えた。
「違うわ。差出人は……王立充足院総監、グランツ」
「グランツのおっさんが?」
親書には、簡潔にこう記されていた。
『君の思想がどこまで通用するか。我が充足院の誇る巨大備蓄都市、供給都市オルムにて、直接会談を要求する』
「……供給都市、オルム」
ダインが厳しい顔で呟く。
「第五葉の節点がある方角だな」
俺は親書を握りしめ、南の空を見上げた。
俺の『借りて返す』と、グランツの『貯めて配る』。
避けられない正面からのぶつかり合いが、次の街で俺たちを待っていた。




