第36話「ドラゴンより契約書が強い」
鉱山都市カレドに、今日もパサパサに乾いた朝がやってきた。
広場での物資の配布や、重病人たちのテントへの移動といった力仕事を終え、俺とダイン、ザザの三人は、汗だくになってザザの実家へと戻ってきた。
「ふう……配給の列も落ち着いたし、みんな少しはゆっくり眠れそうだな」
俺が首に巻いた布で汗を拭いながら居間に入ると、そこには昨夜から全く変わらない光景が広がっていた。
「……だから、ここの第四項にある『付帯する魔力源の独占的利用』という一文が、王国の環境保護法の第七条とバッティングしてるのよ」
「ええ。ですが、実務官のセルドはそこに『非常時の特例措置』を適用させて強引に合法化しています。この特例を覆すためには、魔力源の枯渇が街の存続自体を脅かしているという客観的なデータが必要です」
目の下にうっすらとクマを作ったミナとニアが、机いっぱいに広げられた分厚い羊皮紙の束を前に、羽ペンを猛スピードで走らせていた。
二人の周囲には、書き損じたメモや計算式が散乱し、異様な気迫が漂っている。
「お、おい……お前ら、一晩中一睡もせずにそれやってたのか?」
俺が恐る恐る声をかけると、ミナは血走った目で俺をギロリと睨んだ。
「当たり前でしょ。あいつらが盾にしてる『合法的な契約』の粗を完璧に突かなきゃ、この街の人たちはずっと搾取され続けるんだから。中途半端な理論武装じゃ、あのキツネ目の男には丸め込まれるわよ」
「そ、そうか。ご苦労様だ」
俺は完全に気圧され、ダインやザザと一緒に部屋の隅っこに小さく座り込んだ。
正直、悔しかった。
俺の《環流術》があれば、迫り来る魔物の群れだって追い返せる。地下水路の巨大な岩だってどかせる。だけど、目の前にある『紙切れの束』に対しては、俺の魔法は何の役にも立たない。風で吹き飛ばしたところで、契約そのものが消えるわけじゃないのだから。
「……なぁ、ミナ」
俺は、机の上に山積みになっている羊皮紙の塔を指差した。
「この『前借り契約書』ってやつ、全部で何ページくらいあるんだ?」
「ん? そうね、付帯する条件書や担保権の同意書も含めれば、軽く五百ページは超えるわね」
「ご、ごひゃく……」
俺は息を呑んだ。
「五百ページ!? おいおい、嘘だろ!? 俺、山で森の主のデカい熊に襲われた時だって、拳一つと風の魔法で一撃でぶっ倒したんだぞ!? 伝説のドラゴンだって、きっと百発くらい殴れば倒せるはずだ!」
俺は頭を抱え、床をゴロゴロと転げ回った。
「なのに! この紙切れの束は五百回読んでも倒せないのか!? なんだそれ! 俺の魔法より、伝説のドラゴンより、契約書の方が強いじゃないか!! こんな強敵、どうやって勝てばいいんだよ!!」
俺が本気でパニックになって叫んでいると、ダインが大きな手で俺の肩をガシッと掴んだ。
「落ち着け、カイ。強さのベクトルが違うだけだ」
「ダイン……」
「戦場を思い出せ。槍兵には槍兵の、弓兵には弓兵の役割がある。すべての敵を、自分一人の剣で倒す必要はないのだ。自分が斬れない敵が現れた時は、それが得意な仲間に背中を預ければいい。それが『パーティ』というものだろう」
ダインの静かで力強い言葉に、俺は転げ回るのをやめた。
「背中を、預ける……」
俺は、血走った目で契約書と格闘し続けているミナと、分厚い魔導書と照らし合わせながら計算を続けるニアを見た。
俺には字がたくさん並んでいるのを見るだけで頭が痛くなる。でも、この二人はその『字』を武器にして、セルドという強敵に立ち向かっているのだ。
「そっか」
俺は床に座り直し、パンッと両手を叩いた。
「俺の魔法が通じない相手には、ミナの商売の力と、ニアの頭の力を『借りれば』いいんだな! やっぱり俺の魔法のルールと同じだ!」
「……ええ。お言葉ですがカイさん、私の頭脳は無料では貸し出せませんよ。この難解なパズルを解くのは、並大抵の知力ではないのですから」
ニアが丸眼鏡を押し上げながら、フッと得意げに笑った。
「あたしもよ、カイ。この契約書の粗を見つけたら、あたしの実家の宿屋買い戻し計画に、特別ボーナスを上乗せしてもらうからね」
ミナも口角を上げ、羽ペンをインク壺に突っ込んだ。
「ああ、いくらでも上乗せしてやる! だから、あのふざけたドラゴン……じゃない、契約書をぶっ倒してくれ!」
俺が応援すると、二人は再び凄まじい集中力で羊皮紙の海へとダイブしていった。
それからさらに二時間後。
「――見つけたわ!!」
突然、ミナが弾かれたように立ち上がり、手に持っていた羊皮紙をバンッと机に叩きつけた。
「本当ですか、ミナさん!」
「ええ! ニア、あんたがさっき導き出してくれた『環境魔力の過剰抽出による地盤と水源への悪影響』の客観的データ、あれが決定打になったわ!」
ミナは興奮で顔を紅潮させ、俺たちに向かって羊皮紙を突きつけた。
「いい、よく聞いて。セルドが盾にしている『前借り契約』の第六条には、担保権の行使条件が書かれているの。でも、王国の商業法と環境保護法の特別条項にはこうあるわ。『契約の履行が、当該地域の環境魔力基盤に修復不可能な損害を与える客観的証拠が認められた場合、その契約は公序良俗に反するものとして、一時的に、あるいは永久に効力を停止できる』ってね!」
「……つまり、どういうことだ?」
俺が首を傾げると、ニアが補足するように立ち上がった。
「つまり、セルドたちが今やっている『採掘塔で魔力と水を根こそぎ吸い上げる行為』そのものが、自分たちの契約の正当性を破壊する証拠になっている、ということです! 私の計算したデータを用いれば、あの塔があと一ヶ月稼働すれば、カレドの地盤は完全に崩壊し、二度と人が住めない土地になることが証明できます!」
ニアは手元の計算用紙をバサッと持ち上げた。
「人を救うための充足院の契約が、街そのものを滅ぼす行為に直結している。この『致命的な不整合』を突けば、どんな悪徳代書人が書いた契約書だろうと、法廷で確実に無効化できます!」
「やったぁぁぁっ!!!」
俺とザザは思わず抱き合って飛び上がった。
ダインも「見事だ。知の力、恐れ入った」と深く頷いている。
「これで、あいつらが偉そうに振りかざしてた『合法』っていう最強の盾は粉々に砕け散ったわ」
ミナが不敵な笑みを浮かべ、分厚い契約書の束をドサッと床に投げ捨てた。
「五百ページのドラゴン、見事に討伐完了よ!」
「ミナ、ニア、お前ら最高だ! 俺の魔法よりずっとすげえぞ!」
俺が二人の肩をバンバンと叩くと、ミナは「痛い痛い!」と文句を言いながらも、達成感に満ちた顔で笑っていた。
「さて」
ミナが、グッと伸びをして徹夜の疲れを吹き飛ばすように叫んだ。
「理論武装は完璧。契約という逃げ道は完全に塞いだわ。……あとは」
彼女の視線が、窓の外、街の中央にそびえ立つ真っ黒な採掘塔へと向けられた。
「あのふざけた塔を物理的に止めて、セルドにこの証拠を突きつけるだけよ!」
「おう! そこからは俺たちの出番だな!」
俺は両方の拳をボキボキと鳴らし、ダインが静かに長剣の柄に手をかけた。ザザも「アタシの街を荒らした落とし前、きっちりハンマーでつけさせてやるわ!」と鼻息を荒くしている。
俺が不得意な戦線は、仲間が見事に突破してくれた。
なら次は、俺の得意な戦場で、力を借りて返す番だ。
「よし、一枚葉、出陣だ! あの黒い塔をぶっ止めに行くぞ!」
俺の号令で、俺たち五人はザザの家を飛び出した。
最強の契約書を破り捨て、俺たちの足取りは、今までで一番軽く、そして力強かった。




