第34話「人生最大の買い物」
「ククッ……王都で少しばかり名を上げたからといって、調子に乗らないことですね」
外部の商人たちが集まる臨時市場。王立充足院の委託実務官セルドは、ミナの鋭い視線とダインの静かな殺気を受け、少しだけ顔を引きつらせながらも薄笑いを浮かべた。
「この街の流通は、正当な『前借り契約』によって我々が管理している。悔しければ、高騰した適正価格で物を買うか、諦めて飢えるか、どちらかを選ぶことです」
セルドはそれだけ言い捨てると、護衛の男たちを引き連れて奥の巨大な天幕へと姿を消した。
「……腹立つわね。あのニヤケ顔、一発ぶん殴ってやりたいわ」
ミナがギリッと歯軋りをする。
「殴るのは後回しだ、ミナ。まずはあいつらに牛耳られてる商人たちから、必要なものを買い集めるのが先だろ」
俺が言うと、ミナは「ええ、そうね」と深く息を吐き、商人の顔つきに切り替わった。
「さあ、おじさんたち。商売の時間よ」
ミナは、先ほど「樽一杯の水が小銀貨五枚だ」とふざけた値段を吹っかけてきた商人の前にツカツカと歩み寄った。
そして、自分の腰の革袋から、鈍く輝く『金貨』を数枚取り出し、木箱の上にチャリンと並べた。
「なっ……金貨!?」
商人たちの目の色が、一瞬で変わった。
小銀貨や銅貨で日銭を稼いでいる行商人にとって、本物の金貨などそうそうお目にかかれるものではない。
「あたしたちは王都から来た冒険者ギルドの特任パーティよ。今ここにある、あんたたちの荷馬車三台分の水と薬、それから保存食と資材を『まとめ買い』してあげる。……現金一括払いでね」
ミナの言葉に、商人が生唾を飲み込んだ。
「ま、まとめ買い……! でもお嬢ちゃん、元締めのセルド様の決めた値段じゃあ、その金貨でも馬車一台分も買えねえぞ」
「だから、値引き交渉をするのよ。あんたたちだって、セルドの言い値で暴利を貪ってるせいで、街の住人には全く売れてないんでしょ? 在庫を抱えたまま腐らせるより、今ここで確実に金貨を手に入れた方が、よっぽど賢い商売だと思うけど?」
ミナはニヤリと笑い、金貨を指で弾いた。
「セルドには『王都の貴族が視察の帰りにまとめ買いしていった』とでも言い訳しなさい。さあ、適正価格の少し上、王都の相場の二倍くらいで手を打ちましょうか。それ以上は一文たりとも出さないわよ」
金貨の輝きと、ミナの圧倒的な交渉力。
商人は数秒ほど葛藤した末に、「……わ、わかった! それで手を打とう!」と陥落した。
「よっしゃあ! さすがミナだ!」
俺はガッツポーズをして、ダインと一緒に荷馬車から巨大な水樽を下ろし始めた。
これだけの量があれば、広場の全員に腹一杯水を飲ませてやれる。
「よし、次は食い物だな! おいザザ、あっちの屋台に美味そうな肉の塊があるぞ!」
「本当だわ! よーし、あの肉、端から端まで全部もらうわよ! 体力つけるには肉が一番だもの!」
俺とザザは、ミナが用意してくれた『五十金貨』という途方もない予算があることに完全に浮かれ、市場の中を暴走し始めていた。
「おっ、こっちにはすっげえフカフカの高級毛布があるぞ! これなら熱い地面の上に敷いても快適に寝られるぜ! おっちゃん、これ十枚くれ!」
「こっちには王都の甘い焼き菓子があるわ! 子供たちに配ったら絶対に喜ぶわよ! 箱ごとちょうだい!」
俺とザザが、次から次へと手当たり次第に贅沢品をカートに放り込んでいく。
「あはははっ! 金に糸目をつけない買い物って最高だな! 俺、人生でこんなにいっぱい買い物するの初めてだぞ!」
「使い切ってなんぼよ! いけいけーっ!」
俺たちがハイタッチをしていると、背後からドス黒いオーラを纏ったミナが、分厚い帳簿を振りかぶって現れた。
「――この、すっからかん共があああッ!!!」
バコォォォォンッ!!
俺とザザの頭に、ミナの帳簿が左右同時にクリティカルヒットした。
「い、いっでええええええっ!?」
「なんであたしまで叩くのよぉ!」
俺とザザが頭を抱えてしゃがみ込むと、ミナは鬼神のような形相で見下ろしてきた。
「誰が金に糸目をつけるなと言ったのよ! これはあたしの実家を買い戻すための大事な貯金を崩した、血と汗の結晶なのよ! なんでこんな高級な香辛料たっぷりの肉や、貴族が使うような絹の毛布を山盛り買ってんの!! 予算を死守しなさい!!」
「だ、だって、どうせならうまいものを食わせて、フカフカの布団で寝かせてやりたいじゃないか……」
「それは『贅沢品』! 今必要なのは、安くて長持ちする『必需品』でしょ!」
ミナは俺たちのカートから高級肉や焼き菓子を次々と放り出し、代わりに硬い塩漬け肉や、安い麻布の束を詰め込み始めた。
「……待てよ、ミナ」
俺は、ふとその手を止めた。
「カイ?」
「俺さ、今、すごく嫌なことに気がついたぞ」
俺はカートの中の物資を見つめながら言った。
「俺たちが『あれがいい』『これがいい』って勝手に選んで、勝手に買い込んでるのって……あのセルドって奴が、勝手に水脈を管理して街の人たちを支配してるのと、根っこは同じなんじゃないか?」
俺の言葉に、ミナの手がピタリと止まり、ダインもハッと顔を上げた。
「俺の価値観で『うまい肉がいい』って決めるのも、ミナの価値観で『長持ちする塩漬け肉がいい』って決めるのも、結局は俺たちの勝手な押し付けだ。……使うのは、街の人たちなんだぞ」
俺は昨日の夜、暗い部屋で三つ数えを失敗した時のことを思い出していた。
他人の痛みを自分の物差しで測ってはいけない。
俺がやるべきことは、先に『聞く』ことだ。
「ダイン、広場にいる街の代表みたいなじいさんと、昨日俺が水をあげたお母さんを、ここまで連れてきてくれないか?」
「……承知した」
ダインは俺の意図を察し、すぐに広場へと向かってくれた。
数十分後。ダインに連れられてやってきた老人と母親は、大量の物資と金貨を見て目を丸くしていた。
「カイさん……これは、一体……」
「俺たちの金を少し崩したんだ」
俺は二人の前にしゃがみ込み、市場の物資を指差した。
「じいさん、お母さん。この金で買える分だけ、何を買うか、あんたたちに選んでほしいんだ」
「わ、私たちがですか?」
「ああ。俺たち外から来た人間には、本当に何が一番必要かなんてわからない。熱冷ましの薬がいいか、それとも日陰を作るための布がいいか。甘いお菓子がいいか、長持ちする塩漬け肉がいいか。……あんたたちが、自分たちで決めてくれ」
俺が真っ直ぐに言うと、老人は震える手で目頭を押さえた。
「……ありがてえ。旅のお方に、ここまでしてもらえるなんて……」
母親も、涙を堪えながら市場の物資を真剣な目で見渡し始めた。
「……高い薬は、いりません。今は、とにかく少しでも多くの人が直射日光を避けられるように、この安い麻布をたくさん買ってください。それに、お菓子よりも、子供たちの体に少しでも塩分を補給できる塩漬け肉を」
「水は、この丈夫な手押し車があれば、隣近所の分まで運べます。どうか、これを」
彼らが選んだのは、俺が買おうとした贅沢品でもなく、ミナが計算した効率最優先の物資だけでもなかった。
それは、彼らが『明日を生きるため』に、当事者として真剣に選んだ、血の通った『必要品』だった。
「わかった。ミナ、二人が選んだものを、予算の限界まで買ってくれ」
「……ええ。任せなさい」
ミナはとても優しい顔をして、商人たちとの最終交渉に入った。
その日の夕方。
ザザの実家と、中央広場を拠点にして、大量の緊急物資の配布が始まった。
麻布で巨大な日除けのテントが張られ、ダインが塩漬け肉を使った栄養満点のスープを大きな鍋で煮込む。ザザが手押し車の車輪に油を差し、若者たちがそれを使って遠くの水源から水を運んでくる。
「スープだ! 熱いスープが飲めるぞ!」
「ああ、日陰が涼しい……生き返るようだ……」
広場に集まった人々の顔に、わずかだが確かな生気が戻り始めていた。
昨日、俺の言葉を振り払った母親も、男の子に温かいスープを飲ませながら、遠くから俺に向かって深く頭を下げてくれた。
俺は大きく息を吐き出し、ダインの横でスープの味見をした。
「うまいな。やっぱり、腹が減ってる時にみんなで食う飯は最高だ」
「ああ。カイの言う通り、彼ら自身に選ばせたのは正解だった。物資以上に、彼らの心に『自分で生きる力』が戻ったように見える」
ダインが広場の様子を見渡しながら微笑む。
だが、その輪の中にミナの姿はなかった。
「あれ? ミナのやつ、どこ行ったんだ?」
俺が辺りを見回していると、ザザの家の裏手から、ミナが分厚い帳簿を抱えて戻ってきた。
その顔は、スープを飲んで一息ついている俺たちとは全く違う、戦場に向かう前のような険しいものだった。
「……これで、一時的な生活の立て直しはできたわね」
ミナは帳簿をテーブルにドンッと置き、俺たち全員の顔を見回した。
「でも、これはあくまで対症療法。あたしたちのお金で物資を買って配っただけの、その場しのぎに過ぎないわ。あいつらがこの街の水脈の権利を握っている限り、明日にはまた同じように水が枯れる」
ミナの言葉に、俺もザザも表情を引き締めた。
「ミナ。じゃあ、次はどうするんだ?」
俺が聞くと、ミナは商人の冷徹な笑みを浮かべた。
「決まってるでしょ。あいつらが盾にしている、諸悪の根源……あのふざけた『前借り契約書』そのものを、あたしたちの手で完全にぶっ潰すわよ」
ミナの宣言と共に、俺たちの第四葉での本当の戦いが、幕を開けようとしていた。




