第33話「足りないものを先に数える」
異常な地熱で街中がオーブンの中のように熱された、鉱山都市カレドの朝。
俺は、広場の片隅で力なく壁にもたれかかっている老人の前に、そっとしゃがみ込んだ。
「……じいさん」
俺が声をかけると、老人は濁った目で俺を見上げた。
「昨日は配給の水、もらえたか?」
「ああ……。だが、並ぶのに半日かかった。ワシの細い腕じゃあ、小さな桶一杯の水を自分の家まで運ぶだけで、日が暮れちまう……」
老人はひび割れた唇を震わせ、力なく首を振った。
昨日までの俺なら、ここで間違いなくこう言っていただろう。
『大丈夫だ、水が飲めたなら生きてる証拠だ! 今日もいい日じゃないか!』と。
だが、俺は唇をグッと噛み締め、その言葉を喉の奥へ押し込んだ。
自分が耐えられるからといって、他人が耐えられるわけじゃない。俺が元気だからといって、この老人が大丈夫なわけがないのだ。
「……そっか。運ぶのが大変なんだな」
俺は老人の目線に合わせて、静かに聞いた。
「じいさん。今、一番『足りないもの』はなんだ?」
老人は少し驚いたように俺の顔を見つめ、やがてポツリとこぼした。
「……荷車だ。水を運ぶための車と、引く力。それさえあれば、隣近所の年寄りの分もまとめて水をもらってこれるんだが……」
「わかった。荷車と、引く力だな。覚えておくよ」
俺は立ち上がり、老人に小さく手を振って、次の住人の元へと向かった。
そうやって、俺は半日かけて街中を歩き回った。
「薬が足りないの。熱冷ましの草すら、この乾燥で枯れ果ててしまって……」
「日陰だ。家の中は地面が熱すぎて寝られない。病人を休ませるための、風通しのいい日陰の場所が欲しい」
「子供たちが口にできる、柔らかくて甘いものが少しでもあれば……」
水、薬、休息の場所、輸送手段。
俺が「大丈夫だ」と一方的に励ますのをやめて、「何が足りない?」と聞いた途端、街の人々からは生々しくて切実な『不足』の声が次々と溢れ出してきた。
彼らは絶望して声を出さなかったわけじゃない。俺みたいな外の人間にはどうせわからないと、心の奥に鍵をかけていただけだったのだ。
昼過ぎ。ニアが貯水槽を調べる間、俺とミナ、ダイン、ザザの四人はザザの空き家に集まり、埃っぽいテーブルを囲んだ。
「ただいま。こっちの区画もひどい有様だったわ。市場はほぼ機能停止、商人も水不足で逃げ出してるみたい」
ミナが汗を拭いながら報告する。
「私もだ。街の自警団や屈強な鉱夫たちは、遠くの水源まで水を汲みに出払っていて、街に残っているのは老人や子供ばかり。全く防衛機能が働いていない」
ダインも厳しい顔で首を振る。
「カイの方はどうだった? ちゃんと聞き込みできた?」
ミナに聞かれ、俺は「おう!」と胸を張り、懐から一枚の羊皮紙をテーブルの上に広げた。
「ほら見ろ! ミナの真似をして、みんなに聞いてきた『足りないもの』をちゃんと表にして書いてきたぞ!」
「あら、あんたが文字でリストを作るなんて珍しいじゃない。ええと、どれどれ……」
ミナが羊皮紙を覗き込む。
そこに書かれているのは、俺が総力を挙げてまとめた完璧なリストだ。
『南区の老人――水を運ぶ荷車と、引く人手』
『診療所――熱冷ましの薬、日陰になる布』
『親子の列――今日中に飲める水。明日の分も』
その横へ、俺は山の癖で矢印を書き足していた。『南の岩陰を探す』『風下で草を探す』。
「…………」
ミナが、無言で俺の顔を見た。
「どうだ? 完璧だろ!」
「必要なものはちゃんと聞けたのね。でも、その横の矢印は何? この乾いた街で草を探しても、今日の薬には間に合わないわよ」
ミナの渾身のツッコミと同時に、丸めた帳簿が俺の頭にパーンッと炸裂した。
「いてっ。山なら見つけられるんだけどな。……じゃあ、どこから運ぶ?」
「そのために、誰が何を必要としてるか聞いてきたんでしょう。ここからは調達と運搬よ」
ミナは深いため息をつき、頭を抱えた。
「この三行は使えるわ。荷車、水、薬、日陰の布。まず一日分を優先する」
ミナは自分の帳簿を開き、素早い手つきで計算を始めた。
「街の規模と人数を考えれば、緊急支援として必要な量は……これくらいね。でも、問題は資金よ」
ミナのペンが止まる。
「私たちの『目的別の共同財布』の予備費と、社会支援用の袋に入ってるお金を全部合わせても、必要な物資の三分の一も買えないわ。王都みたいに物が溢れてる場所ならともかく、今のカレドみたいに物資が枯渇してる場所じゃ、足元を見られて高くつくから」
資金不足。
その言葉に、部屋の中に重い空気が流れた。
無いものからは借りられない。金がなければ、物資は買えない。
「……くそっ。俺の魔法でなんとかなればいいのに」
俺が己の無力さを噛み締めていると。
「――大丈夫よ」
不意に、ミナが静かな声で言った。
彼女は自分の腰の奥深く、一番厳重に縛り付けてある革袋に手を伸ばした。
「ミナ……? それ」
ザザが目を見開く。
ミナがテーブルの上に取り出したのは、共同財布ではない。彼女の個人的な、絶対に手をつけてはいけないはずの『自分のためのお金』だった。
「……王都での特例報酬も合わせて、今、あたしの個人の貯金は三百金貨あるわ。商会に預けた宿のためのお金よ。そこから五十金貨を引き出せるよう手配してある」
ミナは革袋の紐を解き、引き出してきた金貨を数枚、迷うことなく取り出した。
「ここから、五十金貨を緊急物資の購入に回すわ。これだけあれば、王都から回ってくる商人からでも、水と薬と資材を当座の分だけでも確保できるはずよ」
「おい、ミナ! 待てよ!」
俺は慌ててミナの手を止めた。
「三百金貨の貯金から五十も出したら、宿が遠くなる。いいのか?」
「カイ」
ミナは、俺の手を真っ直ぐに見つめ返した。
「あたしはね、お金は『明日の選択肢を守る盾』だって言ったわ。……今、この街の人たちには、明日を生きるための盾がないのよ」
ミナの瞳には、商人の計算高さではなく、人を守ろうとする強い意志が宿っていた。
「あたしの宿は、三年後でも五年後でも逃げないわ。でも、さっきあんたが聞いたお爺さんや、子供たちの命は、今守らなきゃ明日には消えちゃうかもしれない。……商人として、一番価値のある投資先は、今ここよ」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
金に誰よりも厳しい彼女が、自分の夢を削ってまで、他人の不足を埋めようとしている。
それがどれほど重い決断か、共同財布の予備費が足りなくなった今の俺には、痛いほどわかった。
「……ミナ」
俺は、ミナの手を両手でギュッと強く握りしめた。
「えっ、ちょ、ちょっとカイ……?」
ミナが驚いて顔を赤らめるが、俺は真剣な顔で彼女の目を見つめ返した。
「わかった。お前がそこまで言うなら、これを使おう。……でも、これはお前の夢のための金だ。絶対に俺が返してやる」
「か、返すって……」
「俺のこれからの報酬も、王都で決まったあの運用料の稼ぎも、全部お前に渡す! お前の金は、俺が絶対に返す。だから、今はその金で、この街を助けてくれ」
俺が真っ直ぐに宣言すると、ミナはしばらく呆然とした後、プイッとそっぽを向いた。
「……べ、別に全額返せなんて言ってないじゃない。共同財布から少しずつ補填すれば……」
「いや、俺が返す! 約束だ!」
「……もう、強引なんだから。でも、ありがとう。その言葉、忘れないからね」
ミナはほんの少しだけ照れくさそうに笑い、俺の手を軽く握り返してくれた。
ダインが壁際でフッと微笑み、ザザが「はいはい、ごちそうさま。暑っ苦しいわね!」と茶化すように笑う。
「よし! 資金の目処は立ったわ!」
ミナが気を取り直し、バンッとテーブルを叩いた。
「カイのリストにある水、薬、資材、それから荷車ね。まずは街の外れに陣取ってる外部の商人たちから、ありったけの物資を買い叩くわよ!」
「おう! ミナの交渉術の見せ所だな!」
俺たちは勢いよくザザの家を飛び出し、街の東側、外部から来た商人たちが商いをしているという臨時市場へと向かった。
だが。
「――は? 樽一杯の水が、小銀貨五枚だと?」
市場の一角で、ダインが信じられないというように低い声を上げた。
「悪いねえ、お客さん。今はどこも水不足でね。王都からの輸送費も馬鹿にならないんだよ」
ニタニタと笑う商人の言葉に、ミナの顔色が険しくなる。
「小銀貨五枚なんて、王都の相場の十倍以上じゃない! 熱冷ましの薬に至っては二十倍よ! いくらなんでも価格を釣り上げすぎだわ!」
「そう言われてもねえ。これが今の『適正価格』ってやつですよ」
商人は肩をすくめ、背後にある巨大な天幕を親指で指し示した。
「俺たちだって好きで高く売ってるわけじゃない。あそこの元締めが、この街に入ってくる物資の流通と価格を全部『前借り契約』で管理してるから、俺たちも逆らえないんですよ」
「元締め……?」
俺が天幕の方へ視線を向けた、その時だった。
天幕の入り口が開き、そこから見覚えのある灰色の制服を着た男が姿を現した。
綺麗に撫でつけられた髪。人を小馬鹿にしたような細い目。
「おや。どこかで見た顔だと思えば、野蛮な環流使いの少年と、底意地の悪い商人娘ではありませんか」
河港リュドで俺たちの行く手を塞いだ、王立充足院の委託実務官。
「セルド……!」
ミナがギリッと歯軋りをする。
「まさか、王都だけじゃなくこの街の物資の値段まで不当に釣り上げているのは……」
「不当とは人聞きが悪い。私は充足院の正式な委託に基づき、この枯れた街の流通を『管理』してあげているのですよ」
セルドは薄く笑いながら、分厚い契約書の束をペラペラと捲って見せた。
俺は、腰の鉄鍋の柄を無意識に強く握りしめていた。
足りないものに付け込み、人の弱みを金に変える悪党。
第五葉への道は、どうやら一筋縄ではいかないらしい。




