第3話「宿代より地面が安い」
冒険者ギルドでの登録を終え、Fランクの木札をもらった俺は、ミナと一緒に街の外れにある森へ向かった。
最初の仕事は『薬草採取』。初心者でも安全にできる、ギルドの定番依頼らしい。
「いい、カイ。探すのは『ミドリソウ』よ。葉っぱの先が少し丸くなってて、茎に細い産毛が生えてるやつ。傷薬の材料になるから、ギルドがいつでも買い取ってくれるの」
「わかった。丸くて毛が生えてる草だな!」
俺は森に入り、葉の丸い草を探した。山では効き目で草を覚えてきたから、街の名前で見分けるのは思ったより難しい。根を傷めないよう、一本ずつ土を払って袋に入れた。
山育ちの俺にとって、森を歩くのは庭を散歩するようなものだ。土の匂いを嗅ぎ、日の当たり方を読めば、どこにどんな植物が生えているかはだいたいわかる。ものの数時間で、俺が肩から下げた麻袋はパンパンに膨れ上がった。
「ほら、ミナ! こんなに採れたぞ!」
「ちょっと、早すぎない? ……って、カイ! これミドリソウじゃないわよ! ただの似てる雑草ばっかりじゃない!」
「えっ、そうなのか? でもこれも山じゃよく噛んで傷に擦り込んでたぞ」
「山基準で考えないでよ! ギルドが買い取ってくれるのは指定された薬草だけなの! もう、今日はもう遅いから、ギルドへの納品は明日にしましょう」
ミナは頭を抱えて大きなため息をついた。
空はすっかり茜色に染まり、商都ミルヴァの街並みに長い影を落としている。街のあちこちから、夕食の支度をする美味そうな匂いが漂い始めていた。
「腹減ったな。よし、今夜の寝床を探そうぜ。ミナ、いい場所を知ってるか?」
「そうね。大通りから少し入ったところに『踊る木馬亭』っていう安宿があるわ。食事付きで一晩、銅貨五枚。今のあたしたちの財布事情なら、そこが妥当ね」
「銅貨五枚? 待て待て、寝るためだけに金を払うのか?」
俺が驚いて聞き返すと、ミナは不思議そうな顔をした。
「当たり前じゃない。宿屋なんだから。野宿より安全だし、ベッドで寝られるのよ」
「地面なら無料だぞ。あっちの土手は、今ならよく乾いてる」
「はあ!? 街の中で野宿!? ちょっと、あたしは商人よ!? そんなみすぼらしい真似できるわけ……」
「俺は様子だけ見てくる。嫌なら先に宿を取っててくれ」
ミナは呆れ顔でついてきたが、土手へは降りず石段の上で待った。俺は街を流れる川のほとりへ降りた。
石畳の通りから一段下がった土手は、草が生い茂っていて居心地が良さそうだ。街中で火を焚けるかは知らない。まず土の固さと、水際からの高さを確かめた。
「乾いてるし、いい場所に見えるんだけどな……」
俺が立ち上がった、その時だった。
ふと、頬を撫でる風の温度が変わったのを感じた。
夕暮れの心地よい風が、急に生ぬるく、ひっつくような湿気を帯び始めた。それだけではない。川岸の茂みに隠れていた羽虫たちが、一斉に地面すれすれへと低い軌道で逃げ込んでいる。
俺は『残り見』の感覚を上流へと向けた。
水音が、さっきよりもほんの少しだけ濁っている。遠くの空、山の向こう側に、墨を流したような分厚い雲が急速に湧き上がっていた。
「……おい、ミナ」
「何よ。あたしは絶対に野宿なんてしないからね」
「いや、野宿は中止だ。走るぞ!」
「えっ?」
俺はミナの腕を掴み、背中の荷物を担ぎ直して、土手から石畳の通りへと駆け上がった。
「ちょ、ちょっとカイ!? 急にどうしたのよ!」
「上流でとんでもない雨が降ってる! ここもじきに降るぞ。さっき言ってた安宿はどこだ!」
「え、あ、あそこの角を曲がってすぐだけど……空はまだ夕焼けよ?」
「いいから走れ!」
俺たちが通りを抜け、ミナが指差した『踊る木馬亭』の古びた木の扉を押し開けた、まさにその直後だった。
バチバチバチッ!!
背後で、石畳を強烈に打ち据える音が弾けた。振り返ると、さっきまでの穏やかな夕暮れが嘘のように、視界が真っ白になるほどの猛烈な豪雨が街を襲っていた。
「うわあ……っ!」
ミナが絶句する。数秒でも遅れていれば、俺たちは荷物ごとずぶ濡れになっていただろう。あのまま川辺にいれば、急な増水で荷物を流されていたかもしれない。
「おおーっ! すげえな、この雨!」
俺は宿の中から窓の外を見て、本気で感心した。
「外はあんなに降ってるのに、一滴も濡れないぞ! やっぱり屋根ってのはとんでもない大発明だな!」
「……あんたの勘、野生動物並みね」
ミナは呆れ半分、感心半分といった顔で息を吐き出した。
「おや、間一髪だったねえ。あんたたち、運がいいよ」
奥から、恰幅の良い宿の主人が顔を出した。
「いらっしゃい。銅貨五枚で夕食とベッドだ。今の時間なら、裏の風呂桶のお湯が沸いてるよ」
俺は財布の銅貨から二人分の宿代を払い、残りを数えて戻した。「風呂!? お湯に浸かれるのか!?」
「ああ。ちゃんと『石鹸』も置いてあるから、泥を落としてから入んなよ」
風呂。石鹸。
聞いたことはあったが、俺にとっては未知の単語だった。山での水浴びといえば、冷たい川の水を被るだけだったからだ。
数分後。
宿の裏手に設えられた簡素な湯小屋で、俺は人生最大の衝撃を受けていた。
「なんだこれえええええっ!!」
湯気で満ちた小屋の中で、俺の叫び声が響き渡った。
「熱い! でも痛くない! それにこの四角い石……なんだこれ、水をつけてこすったら、どんどん白い泡が出てくるぞ!?」
俺は木の桶に入ったお湯を頭からかぶり、宿の主人が言っていた『石鹸』をゴシゴシと体にこすりつけた。
山で泥まみれになった体から、黒い汚れが白い泡と一緒に面白いように落ちていく。しかも、なんかすごくいい匂いがする。
「魔法だ! これは魔法の石だ! すげえええええっ!!」
俺があまりにも大騒ぎするものだから、隣の女湯の仕切り越しにミナの声が聞こえてきた。
「ちょっとカイ! うるさいわよ、ただの安い石鹸じゃないの!」
「ミナ! お前もこの魔法の石を使ってるのか!? こんなすごいものが街には普通にあるのか!?」
「あるわよ! というか、お風呂くらいでそんなに感動しないでよ。恥ずかしい……あんたの幸福単価、安すぎるわよ」
ミナは呆れ返っていたが、俺の感動は収まらなかった。
温かいお湯に全身を沈めると、今日の疲れがふんわりと溶け出していくようだ。
屋根があって、お湯があって、魔法の石がある。銅貨五枚でこんな贅沢ができるなんて、やっぱり街は最高だ。
風呂から上がり、さっぱりとした気分で一階の土間にある食堂へ降りた。
ミナはまだ上がってきていない。俺は適当な木の席に座り、主人が運んできた豆のスープと硬いパンをかじり始めた。
ふと、隣のテーブルから重苦しい声が聞こえてきた。
「……今月も、手元に残ったのはこれだけか」
日に焼けた作業着姿の男たちが、薄いエールを飲みながら肩を落としていた。
「仕方ねえさ。充足院の委託業者に、『前借り契約』の利子を引かれてるんだ。現場で道具を借りるにも、水をもらうにも、全部給金から天引きだ」
「この宿代と、この薄いスープを払ったら、もう一文も残らねえ。国が備蓄してるっていう魔力や食料は、俺たちみたいな下っ端には回ってこねえんだな」
男たちは、テーブルの上に残った数枚の銅貨を見つめながら、暗い顔でため息をついていた。
俺はパンをかじる手を止めた。
充足院。前借り契約。
難しい言葉はよくわからない。だが、彼らが今、ひどく疲れていて、明日の飯にも困っていることだけはわかった。
俺は立ち上がると、自分の麻袋をごそごそと漁った。
そして、隣のテーブルに歩み寄り、男たちの前に無造作に『それ』を置いた。
「……ん? なんだ、坊主」
「干し肉だ。山を出る時に、師匠がいっぱい持たせてくれたんだ」
男たちが驚いて顔を上げる。
「俺はもう腹一杯だからな。もしよかったら、残りを食ってくれ」
それだけ言って、俺は自分の席に戻った。
「お、おい……これ、かなりいい肉だぞ。本当にいいのか?」
「ああ。山じゃ、余ったもんは分け合うんだ。明日も仕事なんだろ? しっかり食って寝た方がいい」
明日の仕事を休めないらしい。肉を渡すだけで、その契約が軽くなるわけではない。それでも、今夜の腹の足しにはなる。
男たちは顔を見合わせ、やがて「……ありがてえ」と小さく呟いて、干し肉をかじり始めた。
階段の踊り場で、風呂上がりのミナがその様子をじっと見ていたことに、俺は気づかなかった。
翌朝。
ふかふかとは言えないまでも、ちゃんと布が敷かれたベッドでぐっすりと眠った俺は、最高の気分で目を覚ました。
「おはよー、ミナ! 今日も屋根があっていい天気だな!」
俺が食堂へ降りていくと、ミナはすでにテーブルに座り、俺が昨日森で採ってきた草の入った麻袋をひっくり返して、中身を真剣な顔で睨みつけていた。
「どうしたんだ、ミナ。そんな雑草ばっかり見つめて」
俺が首を傾げると、ミナはゆっくりと顔を上げ、震える手で一本の草を摘み上げた。
「……カイ。あんた、これ、どこで採ったの?」
「どこって、森の奥の方だけど。虫除けになるただの草だろ?」
「ただの草なわけないでしょ!!」
ミナがバンとテーブルを叩いて立ち上がった。
「これ、『月光草』よ! ミドリソウなんか比べ物にならないくらい希少な、高級ポーションの原料じゃない! なんでこんなのが雑草みたいに無造作に袋に突っ込まれてるのよ!」
「えっ、そうなのか?」
「これを分けて査定に出せば、今夜の宿代どころじゃないわ。まずは指定草と混ぜないようにしないと」
ミナの目が、昨日俺が銀貨をもらった時と同じように、いやそれ以上に、ぎらぎらと輝いていた。




