第27話「爺さん、若いころ服着てたんだ」
カビと埃の匂いが立ち込める、王宮の古い資料庫。
リヴィア王女が掲げた魔力灯の青白い光に照らされて、壁に掛けられた一枚の巨大な肖像画が浮かび上がっていた。
上質な絹で仕立てられた、濃紺の重厚なローブ。胸元には金糸の刺繍が施され、手には複雑な意匠の杖。そして何より、キャンバスの中からこちらを見据えるその男の顔には、世界中のすべてを見透かしているような、鋭くも知的な自信が満ち溢れていた。
間違いない。皺の数や髪の色は違うが、骨格も、少し斜めに構える立ち方も、俺が十八年間ずっと見てきた男と同じだ。
「……爺さん」
俺がポツリと呟くと、背後でミナが息を呑む音が聞こえた。
「ウソでしょ……。これが、あんたの師匠? 河港リュドで『断流罪人』って言われてた、あのベレンって人なの?」
「ああ。シワシワじゃないけど、絶対にそうだ」
俺は肖像画の前にツカツカと歩み寄り、腕を組んで深く頷いた。
「まさかこんな立派な姿だったとはな。すっげえ驚いたぞ」
「そ、そうでしょうね。この肖像画の威厳、ただの罪人や世捨て人じゃないわ。王侯貴族にも匹敵するような……」
「爺さん、若いころはちゃんと服着てたんだな!」
「…………は?」
ミナが間抜けな声を出し、ダインがカクッと姿勢を崩した。
「いやだってさ!」
俺は肖像画をビシッと指差した。
「俺が物心ついた時から、爺さんは山でいっつも同じボロ布みたいな服を適当に引っかけてたんだぞ! 夏なんて暑いからってすぐお腹を出して昼寝してたし! こんな高そうな服を着て、しかも胸張ってすまし顔で絵に描かれてるなんて、おかしくてたまらないぜ!」
俺が腹を抱えて笑い出すと、ミナの分厚い帳簿が俺の後頭部に炸裂した。
「痛っ!」
「あんたって奴は! 驚くところは絶対そこじゃないでしょ!!」
ミナが真っ赤になって怒鳴り、ザザも「カイの目には布の質しか見えてないのね……」と呆れ果てていた。
だが、リヴィア王女だけは、クスクスと上品に口元を隠して笑っていた。
「ふふっ、本当にカイは面白い見方をするのね。でも、あながち間違ってはいないかもしれないわ」
リヴィアは肖像画の横にある、ホコリを被った重厚なキャビネットを開け、中から何冊かの古い革表紙の記録簿を取り出した。
「この資料庫は、王宮の中でも特に歴史的な『封印指定』を受けた文書が保管されている場所なの。私も昔、こっそり入り込んだ時にこの絵を見たことがあってね。まさか、カイの言うお師匠様と同一人物だとは思わなかったけれど」
リヴィアは記録簿のページをパラパラと捲り、ある箇所で手を止めた。
「ベレン。今から四十年以上前、このレムナ王国の魔力循環インフラ……『旧環路』をゼロから設計し、構築した天才魔術師。当時の王室から、彼は最高の敬意を込めてこう呼ばれていたわ。――《空環》の設計者、と」
「くうかんの、せっけいしゃ」
俺がオウム返しに呟くと、ダインがハッとしたように顔を上げた。
「聞いたことがある。現在も王都の地下で稼働している巨大な魔力ポンプや水道網の基礎は、すべて一人の天才が描き出したものだと。……まさか、それがカイの師匠だったとは」
「おおーっ! 爺さん、そんなすっげえ物を作ってたのか! だからミルヴァの旧ギルド倉庫の地下流路も、爺さんの葉っぱの鍵で開いたんだな!」
俺が感心していると、ミナが険しい顔でリヴィアの持つ記録簿を覗き込んだ。
「……でも、おかしいじゃないですか。それほどの偉業を成し遂げた英雄が、どうして『断流罪人』なんて不名誉な名前で呼ばれて、歴史から名前を消されているんですか?」
その問いに、リヴィアの表情が少しだけ暗く沈んだ。
「それが、彼が『封印』された理由よ。……今から四十年前。この世界を、大規模な『飢えの風』が襲ったの」
「飢えの風……」
その言葉の響きに、俺の背筋が少しだけ冷たくなる。
「自然の魔力循環が滞り、世界中の色が薄くなり、作物が枯れ、水が干上がる恐ろしい災害よ。旧環路を完成させたばかりだった彼は、その災害から王国を守るために、ある決断を下したの」
リヴィアは記録簿の乾いたページを指でなぞった。
「王都や主要な都市部に流れる魔力を維持するため……彼は、一部の地方や辺境へ繋がる環路を『強制遮断』したのよ」
「強制、遮断……?」
「そう。魔力の流れを断ち切られた地方は、完全に飢えの風に飲み込まれたわ。結果として、王都と多くの都市の命は救われた。けれど、見捨てられた地方では、数え切れないほどの人が犠牲になったの」
リヴィアは静かに記録簿を閉じた。
「都市を救った《空環》の英雄。そして、地方を見捨てた《断流》の罪人。……あまりにも重すぎる二つの名前を背負った彼は、その後、一切の表舞台から姿を消した。王宮の記録も、彼という存在を歴史の闇に葬り去ったのよ」
埃っぽい資料庫の中に、重苦しい沈黙が降りた。
ミナは青ざめ、ダインも苦渋に満ちた顔で俯いている。
多くの命を救うために、別の命を切り捨てる。騎士であったダインにとって、それは決して他人事とは思えない、究極の選択だったはずだ。
「……なぁんだ、そうだったのか」
俺は、沈黙を破って大きく息を吐き出した。
「カイ……あんた、ショックじゃないの?」
ミナが恐る恐る聞いてくる。
「ショック? なんでだ? 爺さんがすっげえ魔法使いだったってことはわかったけど、俺の爺さんであることには変わりないだろ」
俺は再び肖像画の前に立ち、若いころの爺さんの顔を見上げた。
「街をいっぱい救ったのも爺さんなら、地方を見捨てて逃げ出しちまったのも爺さんなんだろ。なら、どっちか一つだけを見て『英雄だ』とか『罪人だ』って決めるのはおかしいじゃないか。両方ひっくるめて、あのカビた葉っぱを干して泣いてる爺さんなんだ」
俺の言葉に、ダインがハッと顔を上げた。
「俺は、爺さんが鍋を焦がして丸一日落ち込んでる姿を知ってるからな。案外、自分がやったことの重さに耐えきれなくなって、山に引きこもって昼寝ばっかりするようになったのかもな。不器用な爺さんらしいぜ」
俺がニカッと笑って言うと、ミナは小さく息を吐き、「……あんたには敵わないわね」と肩の力を抜いた。
「あの、皆さん。ちょっといいですか」
俺たちが話している間、ずっとリヴィアが持ってきた別の資料の束を猛スピードで読み漁っていたニアが、丸眼鏡をキラリと光らせて声を上げた。
「どうした、ニア」
「ベレン殿が残した、旧環路の設計チームの『名簿』を見つけました。当時の魔術院のトップエリートたちが名を連ねていますが……その中に一人、気になる名前があります」
ニアは古い羊皮紙をテーブルの上に広げ、一つの名前を指差した。
「ベレン殿の右腕として最も長く働き、強制遮断のシステム構築にも深く関わっていた、当時十八歳の若い助手の名前です」
「助手? なんて名前なの?」
ミナが覗き込むと、そこには。
「……『グランツ』。そう書かれています」
「グランツ……!?」
その名前に、俺とミナ、そしてダインが同時に声を上げた。
忘れるはずがない。河港リュドの祭りで、立派な演壇の上から民衆に食料と魔力晶を配給していた、あの王立充足院の総監の名前だ。
「同名、というわけではなさそうね」
リヴィアが真剣な顔で言った。
「現在のグランツ総監は、確かに数十年前、若い研究者として旧環路のプロジェクトに参加していたという経歴があるわ。……でも、それだけじゃないみたいね」
リヴィアはニアが広げた名簿の、グランツのプロフィールの欄を指差した。
「ここに、当時の彼の『出身地』が書かれているわ。……この地名は」
俺たちは一斉に、その古い地名を見た。
そして、ダインが低い声で唸った。
「……ここは、四十年前の飢えの風の際、魔力の供給を『強制遮断』された地方だ。犠牲者が最も多く出た区画の一つのはずだ」
部屋の空気が、再び冷たく凍りついた。
四十年前。
俺の師匠であるベレンは、多くの命を救うため、一番近くにいた助手であるグランツの『故郷』を、切り捨てたのだ。
「……そっか」
俺は、古い名簿に書かれた若い助手の名前を見つめながら、静かに呟いた。
河港リュドで見た、あのグランツ総監の姿。
彼がなぜ、あれほどまでに巨大な備蓄倉を作り、国中で魔力や食料を厳格に管理しているのか。なぜ、充足院という巨大な組織を作り上げたのか。
その根っこには、この四十年前の悲劇があったのだ。
「爺さんも、グランツっておっさんも、色んなものを背負ってるんだな」
俺は首から下げた『押し葉』をぎゅっと握りしめた。
俺の旅は、ただ美味いものを食って、布団で寝て、一番いいものを探すだけじゃない。
師匠が残した足跡と、その後悔の先にあるものを、見届ける旅になりそうだった。




