第26話「王宮料理は反則だろ」
「はぁ……。どうしてあたしが、こんなところでお金を計算しなきゃいけないのよ……」
王宮の大広間。天井から吊るされた巨大な魔力水晶のシャンデリアが、眩いほどの光を放つ中、ミナは窮屈そうな深紅のドレスの裾を握りしめながら、壁際で恨めしそうに呟いた。
「まあそう言うな、ミナ。お前が見立ててくれたこの服、すっげえツルツルしてて気持ちいいぞ!」
俺はミナが『予備費』から泣く泣く捻出してくれた、漆黒のレンタル礼服の袖を撫で回しながら笑った。ダインは貸与された騎士の正装を完璧に着こなし、ザザもフリルのついた可愛らしいドレス(本人は「動きにくい!」と文句を言っていたが)を着ている。
昼間、魔術院で適性試験を一日でぶっ飛ばし、地下施設で水道管の破裂を食い止めた俺たちは、その特異な力を見込まれて、なんと王宮の晩餐会に招待されてしまったのだ。
「皆様、ご着席ください。これより晩餐を始めます」
初老の従者の声と共に、大広間の中央にある長大なテーブルへ案内される。
俺たちの席は、なんとテーブルのかなり上座の方だった。
そして、次々と運ばれてくる料理を見た瞬間、俺の目は皿からこぼれ落ちそうなくらいに見開かれた。
「うおおおおおおおおっ!!」
「ちょっとカイ、声が大きい!」
ミナが慌てて俺の膝をつねるが、俺の感動は止まらなかった。
「見ろよミナ! なんだこの肉! 外側はカリッとしてるのに、ナイフを入れたら中から赤い汁がドバッと出てきたぞ! こっちの魚なんて、金色のソースが海みたいにかかってる! パンは雲みたいにフワフワだ! 王宮料理は反則だろ!!」
俺は配られた純銀のフォークを握りしめ、目の前の肉に食らいついた。
「う、うめえええええええっ!!!」
口の中で爆発する肉の旨味と、複雑な香辛料の香り。
山で食っていた獣の肉とは違う。祭りの屋台の豪快な味とも違う。計算し尽くされ、何十人もの料理人が技術の粋を集めた『至高の味』だった。
「最高だ! こんなうまいものがこの世にあったなんて!」
俺は肉を平らげ、魚を飲み込み、フワフワのパンで皿に残ったソースを綺麗に拭き取って口に放り込んだ。
テーブルクロスにぽろりと落ちたパンくずすら愛おしい。俺は指先でそれをチョンと拾い上げ、大事そうに舌の上に乗せた。
「んん〜っ! パンくずまで味がしっかりしてる! 小麦の甘みがたまらん!」
「……ふふっ。あなたは、そんな小さなパンくずでも幸せそうに食べるのね」
不意に、隣の席から鈴を転がすような澄んだ声が聞こえた。
振り返ると、そこに座っていたのは、夜空のような深い青色のドレスを着た、驚くほど美しい女性だった。
透き通るような白い肌に、金の糸を紡いだような長い髪。年の頃はミナと同じか、少し上(二十歳くらい)だろうか。
彼女の目の前にも俺と同じ素晴らしい料理が並んでいるのに、彼女はフォークを動かそうともせず、ただ不思議そうに俺を見つめていた。
「おお、あんたもこのパン食ってみろよ! ほっぺたが落ちるぞ!」
俺が元気よく言うと、女性は少しだけ寂しそうに微笑んで、首を横に振った。
「ありがとう。でも、私にはわからないの。……何を口にしても、味がとても『薄く』感じるから」
「味が薄い? そんな馬鹿な! この金色のソースなんて、すっげえ濃厚だぞ!」
「ええ。宮廷の料理長が腕によりをかけているのは知っています。でも、私にとっては、ただの噛み応えのある塊にしか感じられないの。食事だけじゃないわ。綺麗なドレスを着ても、美しい音楽を聴いても、心がちっとも動かないのよ」
女性は、自分の手を見つめながらポツリと呟いた。
「この王宮には、何でも揃っているわ。欲しいものは何でも手に入る。それなのに、私は少しも『満たされている』と感じたことがないの」
何でもあるのに、満たされない。
俺はその言葉を聞いて、ピタリと食べる手を止めた。
旅に出た時の財産は押し葉一枚、魔槽の測定値は今もゼロ表示だ。自慢の持ち物だって、黒い鉄鍋が一つ。でも、今日雨が降らなかっただけで嬉しいし、パンくず一つで最高に幸せな気分になれる。
俺と彼女は、完全に正反対だった。
「……なぁ、あんた」
俺はフォークを置き、彼女の目を真っ直ぐに見た。
「それはきっと、あんたが『本当に腹が減った』ことがないからだぞ」
「お腹が、減ったこと?」
「ああ。何でも手に入る場所にずっといたら、自分が本当に『何が足りないのか』わからなくなるんだと思う。腹が減ってない時に食う飯は、どんなに高級でも味が薄いんだよ」
俺はニカッと笑って、親指を立てた。
「いつか俺たちがこの王宮を出て旅をする時、あんたも一緒に来いよ! 一日中歩き回って、泥だらけになって、腹の虫がグーグー鳴るくらい限界になった時……俺が相棒の鉄鍋で、山椒をたっぷり入れた最高のスープを作ってやる! そしたら絶対に、涙が出るくらいうまいって感じるはずだぜ!」
俺の無邪気な提案に、女性はポカンと口を開け――やがて、堪えきれないようにクスクスと笑い出した。
「ふふっ……あはははっ! 私に、野宿をして泥だらけになれと言うの? 王宮の料理長が聞いたら卒倒してしまいそうね!」
「なんだよ、野宿は楽しいぞ! 星も見えるしな!」
「ええ、そうね。なんだか、あなたと話していると、少しだけお腹が空いてきたような気がするわ」
女性は本当に楽しそうに笑い、初めて自分からフォークを手に取り、肉を小さく切って口に運んだ。
「……ふふ。やっぱり薄いけれど、今日は少しだけ、美味しく感じるわ」
俺と女性が妙に意気投合して盛り上がっていると、ドンッ! と隣から強い力で椅子が蹴られた。
「……ちょっと、カイ」
見ると、ミナが般若のような顔をして俺を睨みつけていた。
「な、なんだよミナ」
「あんたねぇ……人の商談相手を勝手に取らないでよ! っていうか、初対面の女性をいきなり野宿に誘うってどういう神経してんのよ! 少しは空気を読みなさいよ!」
ミナは俺と女性の間に割って入るように身を乗り出し、プンスカと怒っている。まるでヤキモチを焼いているみたいだが、相手は王宮の人間だ、俺が失礼なことをして怒られるのを心配しているのだろう。
「ご、ごめんごめん! でもこいつ、いい奴だぞ!」
「こいつって呼ばない!!」
ミナのツッコミに、女性はさらに声を上げて笑った。
「リヴィア様。あまり大声でお笑いになられますと、他の貴族たちの目が……」
控えに立っていた近衛騎士が、慌てて女性に耳打ちをした。
その言葉に、ミナとダイン、ザザの動きがピタリと止まった。
「……リヴィア、様?」
ミナが顔面を蒼白にして震え声を出した。
「嘘でしょ……リヴィアって、今の国王陛下の、第一王女殿下の……?」
「ええ、そうよ。黙っていてごめんなさいね」
女性――リヴィア王女は、イタズラっぽく微笑んで立ち上がった。
「ひええええっ!! し、失礼いたしましたぁっ!!」
ミナとザザが弾かれたように土下座の勢いで頭を下げ、ダインも騎士の最敬礼をとる。
だが、俺はパンをかじりながら首を傾げた。
「なんだ、お姫様だったのか。でも腹が減ってないのは変わらないだろ? 約束通り、いつか鍋作ってやるからな!」
「カイ!! 不敬罪で首が飛ぶわよ!!」
ミナが俺の服の裾を必死に引っ張るが、リヴィアは全く気にする素振りを見せなかった。
「ふふっ。本当に面白い方たちね。魔槽がゼロなのに強大な術を操る少年と聞いて、どんな怪物かと思っていたけれど」
リヴィアは俺たちに向かって、そっと手招きをした。
「あなたたちの使う不思議な術。それに、あなたたちのその『何もないのに満たされている』空気に、私はとても興味が湧いたわ」
「お? 俺たちのことが知りたいのか?」
「ええ。よければ、食後の運動も兼ねて、少し王宮の奥を案内しましょうか。あなたたちなら、昔の魔術師の記録に興味があるかもしれないわ」
「昔の魔術師の記録?」
俺の心臓が、ドクンと跳ねた。
ダインも顔を上げ、真剣な目を向ける。
「ぜひ、拝見させてください、殿下」
晩餐が終わり、俺たちはリヴィア王女の案内で、王宮の奥深く、厳重な魔法の鍵がかけられた『古い資料庫』へと足を踏み入れた。
カビと古い羊皮紙の匂いが立ち込める室内。
リヴィアが魔力灯を点けると、壁に掛けられた一枚の巨大な『肖像画』が浮かび上がった。
「これは……」
俺は、その絵に描かれた人物を見て、息を呑んだ。
立派な仕立てのローブを着て、自信に満ちた顔で微笑む、一人の若い魔術師の肖像。
シワシワの顔でもなく、煤で汚れてもいない。
だが、その目つきと輪郭は、俺が世界で一番よく知っている男のものだった。
「……爺さん」
王宮の最奥で、俺はついに『断流罪人』と呼ばれる前の、若き日の師匠の姿と対面したのだった。




