第22話「無料試食は無料じゃない」
王都グラードの朝は早い。
太陽が昇りきらないうちから、石畳の大通りには無数の馬車が行き交い、荷運びの男たちの威勢のいい声が響き渡っている。
「よし! 今日もいい天気だ! 屋根もいっぱいある!」
宿の窓から顔を出して深呼吸をした俺は、元気いっぱいに一階の食堂へと降りていった。
「おはよう、カイ。王都の空気にすっかり馴染んでるみたいね」
すでにテーブルで朝の計算を終えていたミナが、帳簿をパタンと閉じて立ち上がった。
「おう! で、今日は『魔術院』ってとこに行って、俺の魔力ゼロをもう一回測り直すんだよな?」
「そうよ。王都のギルドで正式な依頼を受けるには、王立魔術院が発行する『旅券』と、厳格な基準での『魔槽の適性試験』の記録が必要なの」
ミナは腰に革袋を括り付けながら言った。
「でも、その前に少し寄り道するわ。王都の中央市場よ」
「市場!? 朝飯食ったばっかりだけど、またなんか美味いもの食うのか!?」
「食べるんじゃないわよ、視察よ。この国で一番大きな市場の物価と相場を頭に入れておかないと、これからの交渉で足元を見られるからね」
「私も同行しよう。王都の市場なら、良質な香草やスパイスが手に入るはずだ」
「あたしも行く! 王都の鍛冶屋がどんな工具を使ってるか見ておきたいし!」
料理の足しにしたいダインと、職人魂を燃やすザザも立ち上がり、俺たち『一枚葉』の四人は、朝の活気に満ちた中央市場へと繰り出した。
王都グラードの中央市場は、想像を絶する広さだった。
何列にも連なる巨大な天幕の下に、肉、魚、野菜、果物、さらには見たこともない魔導具や煌びやかな布地が、山のように積まれている。
「すごい活気だ。ミルヴァの市場の三倍はあるな」
ダインが感心したように周囲を見回す。
「ええと、王都の小麦の相場は……あら、輸送費の分だけ南より少し高いわね。でも香辛料は豊富だから値崩れしてる……」
ミナは完全に商人の目つきになり、メモを取りながら露店の間を縫うように歩いていく。
俺はというと、漂ってくる強烈に美味そうな匂いの数々に、完全に鼻を引っ張られていた。
「おい、ダイン! あそこの肉、鉄板の上でジュージュー言ってるぞ! すっげえいい匂いだ!」
俺が立ち止まったのは、厚切りの肉を特製のタレで炒めている惣菜屋台の前だった。
鉄板から立ち上る焦げた醤油のような香ばしい匂いに、さっき朝飯を食ったはずの俺の腹が、ギュルルッと派手な音を立てた。
「おや、そこのお兄ちゃん! いい鼻してるね。うちの『焦がし豚の香草炒め』は王都一の絶品だよ!」
ねじり鉢巻をした恰幅のいい店主が、鉄板の上で肉をひっくり返しながら声をかけてきた。
「うおぉ……めっちゃ美味そうだ。でも俺、今はミナからお小遣いもらってないから……」
俺が指をくわえて見ていると、店主はニヤリと笑い、小さな木の皿に炒めた肉を一切れ乗せ、爪楊枝を刺して俺の目の前に差し出してきた。
「いいよいいよ、見るからに腹を空かせてる顔だ。ほれ、試食どうだい? 一口無料だよ!」
「…………え?」
俺の思考が、ピタリと停止した。
「……む、無料?」
「ああ、タダだよ。一口食って、美味かったら買っていってくれや」
タダ。
金を払わずに、このとんでもなく美味そうな肉が食える。
「む、無料おおおおおぉぉぉッ!?」
俺の絶叫が、朝の市場に木霊した。
「なんだなんだ!?」と店主がビクッとする。
「すげえ! 王都の人間は神様か!? なんで金も払ってない見ず知らずの俺に、こんないい肉をくれるんだよ! あんた、実はものすごくいい人なんだな! ありがとう!」
俺は両手で木の皿を恭しく受け取ると、天に掲げて感謝の祈りを捧げ、それから震える手で爪楊枝の肉を口に運んだ。
「……っ!!」
香ばしい脂の甘みと、ガツンとくる塩気。
「う、うめええええええええええええええええええええっ!!!!」
俺は本気で感涙に咽び泣きながら、その場に膝から崩れ落ちた。
「なんだこれ! ただの肉じゃない、舌の上でとろけたぞ! これを無料でくれるなんて、おっちゃん、明日死ぬのか!? 死ぬ前に全財産を人々に分け与えようとしてるのか!?」
「死なねえよ縁起でもねえな! ってか、そこまで美味そうに食ってくれると、こっちも悪い気はしねえな……」
店主が照れくさそうに頭を掻いていると、俺の大げさすぎる(しかし心の底からの本気の)リアクションを見ていた周囲の客たちが、次々と屋台に群がり始めた。
「おい、あの兄ちゃん泣いてるぞ。そんなに美味いのか?」
「私も一つちょうだい!」
「俺は三人前だ!」
あっという間に、閑古鳥が鳴いていた屋台の前に長蛇の列ができた。
「お、おう! まいどありぃ!」
大繁盛し始めた屋台を見て、俺は「よかったな、おっちゃん!」と涙を拭って立ち上がった。
その時だった。
「ちょっとお兄ちゃん! うちの『甘露リンゴのパイ』も一口どうだい! タダでいいから!」
「こっちの『海鮮串』も食ってみてくれ! もちろん無料だ!」
なんと、隣近所の屋台の店主たちが、こぞって俺の前に試食用の皿を差し出してきたのだ。
俺の異常なほど美味そうに食べる姿が、客を強烈に引き寄せる『宣伝役』になると気づいたらしい。
「えっ!? これも、これも無料でいいのか!? 王都ってすげええええっ!!」
俺は人生最大の衝撃と幸福感に包まれながら、差し出されたパイを頬張り、海鮮串に食らいついた。
「うめええ! パイがサクサクで中がトロトロだ! 串焼きもプリプリしてて海を感じるぞ!!」
俺が叫ぶたびに、「おおっ」と歓声が上がり、その屋台に客が押し寄せる。俺はタダで美味い飯が食えて、店は繁盛する。まさに誰も損をしない完璧な循環だ。
「あはははっ! 毎日市場に来れば、一生飯に困らないぞ!」
「――甘いわね」
俺が両手に試食の串を持ち、幸せの絶頂にいたその時、背後からスッとミナが現れた。
彼女の目は、獲物を見つけた鷹のように鋭く光っていた。
「ミ、ミナ? どうしたんだ、そんな怖い顔して」
「カイ。あんた、自分が今どれだけの経済効果を生み出してるかわかってる?」
ミナは俺の耳元で囁き、それから先ほどの惣菜屋台の店主に向かってツカツカと歩み寄った。
「おじさん。うちの相棒のおかげで、随分と繁盛してるみたいね」
「お、おう。あんた、あの兄ちゃんのツレか。いやぁ、あんなに美味そうに食ってくれると、客の食いつきが違って助かるぜ」
「でしょうね。でも、ただの『一口無料』で、これだけ宣伝させといて終わり……なんて、王都の商人はそんなにあこぎなのかしら?」
「えっ?」
ミナはバサリと帳簿を広げた。
「あんたの店の客足、カイが食べる前と比べて三倍にはなってるわ。これ、立派な宣伝営業よ。うちの相棒のリアクションを客寄せに使うなら、売り上げの一割を宣伝料としていただくか、今夜の夕食用の肉を三キロ、現物支給で寄越しなさい」
「い、一割!? そりゃいくらなんでも……」
「あら、嫌ならカイを連れて、向かいの競合店の屋台に行くけど? あっちのお肉も美味しそうだし」
ミナが冷ややかに言い放つと、店主は慌てて首を横に振った。
「わ、わかった! 肉三キロ包むから、その兄ちゃんにもうちょっとうちの肉を食わせてやってくれ!」
「交渉成立ね」
ミナはニヤリと笑い、ダインに「ほら、夕飯の食材よ。タダで手に入ったわ」とウィンクした。
「す、すげえ……ミナ、お前の方がよっぽど悪徳商人みたいだぞ」
俺がドン引きしていると、横からザザが「あたしもやる!」と飛び出してきた。
「おじさん、あたしにも試食の肉をちょうだい! カイみたいに美味そうに食って、客を呼んであげるから!」
ザザは自信満々に爪楊枝の肉をひったくり、パクッと口に放り込んだ。
「……うん。まあ、美味しいわね。でもカレドの岩塩を使った肉に比べたら、塩気がちょっと甘いっていうか、普通ね!」
シーン。
ザザの正直すぎる感想に、並ぼうとしていた客たちが「なんだ、普通か」とスッと散っていってしまった。
「馬鹿ザザ!! あんたは何の役にも立たないから黙ってなさい!!」
「痛っ!? なんであたしだけミナに叩かれるのよ!」
結局、俺の胃袋が限界を迎えるまでの小一時間、ミナは俺の『本気の無料試食』を巧みに操り、市場中の屋台から夕飯の食材と香辛料、さらには少しばかりの宣伝料(現金)まで巻き上げることに成功した。
「ふふん。どう? これが商人の戦い方よ」
両手に戦利品の入った袋を提げたミナが、誇らしげに胸を張る。
「げふっ……お前は、本当に、すげえよ……」
俺は膨れ上がった腹を抱え、ヨロヨロと歩きながら心底感心した。
最初は「無料試食」に騙されているかと思ったが、俺にとってはタダで美味いものが食えて、ミナはしっかり利益を出す。これもまた、価値観の違いが生み出した立派なチームワークだ。
「よし、食材も確保したし、相場もだいたいわかったわ。次はいよいよ本命、王立魔術院へ行くわよ」
ミナの号令で、俺たちは市場の喧騒を抜け、王宮の麓にある巨大な魔術院の施設群へと向かった。
王立魔術院。
この国の魔法技術の最高峰であり、俺の『魔力ゼロ』を再測定する場所だ。
石畳の道を歩きながら、俺が膨れた腹をさすっていると。
「……だから、導力式における魔力損失の係数は、この結節点では『3』ではなく『2.75』で計算しなければ、大蓄槽への逆流が……ブツブツ……」
前方から、分厚い本に顔を埋め、何か呪文のような、いや数式のようなものをブツブツと呟きながら歩いてくる小柄な人物がいた。
灰色のローブをすっぽりと被った、年の頃は俺と同じか少し下くらいの少女だった。
彼女は本に夢中で、完全に前を見ていない。
「おっと、危ないぞ」
俺が立ち止まって避けたが、少女はそのまま俺の肩にドンッとぶつかってしまった。
「きゃっ!?」
少女の手から分厚い本と、鞄の中に詰まっていた小さな金属製の計器(小魔槽の測定器らしきもの)が、ガチャガチャと音を立てて石畳に散らばった。
「あ、悪い! 怪我はないか?」
俺が慌てて本を拾い上げようとすると、少女は地面に這いつくばるようにして、凄まじい勢いで俺の手から本をひったくった。
「触らないでください! これは王立魔術院の最新の導力回路設計図なんですから!」
分厚い丸眼鏡の奥から、理知的な、しかしどこか神経質そうな瞳が俺を睨みつけてきた。
少女は散らばった設計図を数え、「一枚足りない」と叫んだ。俺は路地の風に持っていかれた紙を追った。




