第17話「共同財布は誰のもの?」
翌朝。
昨日の猛烈な豪雨が嘘のように、東の空から眩しい太陽が顔を出した。
雨に洗われた草木がキラキラと輝き、鳥たちが元気な声で鳴き始めている。
「おーい、みんな! 朝だぞ! 雨はすっかり上がったぞ!」
俺がテントの外で大きく伸びをしながら叫ぶと、即席の『一枚葉野営地』の中で眠っていた人々が、次々と目をこすりながら起き出してきた。
「おお……太陽だ」
「風邪も引いてない。床がずっと乾いてたおかげだ」
商人たちも、流民の男たちも、誰一人として体調を崩すことなく、無事にこの夜を越えることができたのだ。
ダインが朝から手際よく火を起こし、昨日のスープの残りに少しの水と干し肉を足して温め直している。その美味そうな匂いに誘われて、みんなが自然と笑顔になっていった。
「いやぁ、本当に助かった。橋が落ちたのを見た時は商隊は全滅だと覚悟したが、坊主たちのおかげで誰一人怪我なく朝を迎えられた」
商隊長が、深く頭を下げて俺とミナの前にやってきた。
彼の手には、ズッシリと重い革袋が握られている。
「これは、あんたたち『一枚葉』への追加報酬だ。命を救ってもらった礼としては足りないかもしれないが、受け取ってくれ」
「ええっ、いいのか!? やったぞミナ、また大金だ!」
「ふふっ。商人たるもの、対価はきっちり受け取らせてもらうわ。商隊長さん、これからもご贔屓にね!」
ミナが満面の笑みで革袋を受け取ると、チャリンと小気味良い銀貨の音が響いた。
「よし!」
俺はポンと手を叩き、ミナの方に向き直った。
「ミナ。その金、全部あいつらのために使ってやってくれ」
俺が指差したのは、テントの隅でスープを飲んでいる流民の男たちだった。
ミナの笑顔が、ピタリと固まった。
「……は? カイ、今なんて?」
「だから、その特別報酬、全額あいつらの食料とか、村の復興資金に回してくれって言ったんだ。俺たちは昨日の夜に腹一杯スープを飲んだし、布団はないけど屋根もある。これ以上金があっても仕方ないだろ?」
俺は全くの善意で言った。
山では、その日食べる分以上のものを無理に溜め込むことはしない。俺が腹一杯なら、次は腹を空かせている奴に肉を回すのが当たり前だ。
だから、昨日聞いた『枯れ村』の事情もあるし、この金は彼らに渡すのが一番いいと思ったのだ。
だが。
「――馬鹿野郎!!!」
ミナの怒号が、朝の荒野に響き渡った。
「いっっっつ!?」
俺の頭に、ミナの分厚い帳簿がクリティカルヒットした。
「な、何すんだよミナ! 俺はいいことを言ったはずだぞ!?」
「いいことなもんですか! この考えなしのすっからかん! あんた、全額寄付して、もし今日の午後に魔獣に襲われて大怪我したら、どうやって薬を買うの!? どうやってダインの剣の手入れをするの!? どうやって新しいお鍋の修理費を出すのよ!!」
「えっ、そ、それは……」
「お金ってのはね、今日腹一杯食べるためだけにあるんじゃないの!」
ミナは俺の胸ぐらを掴み、鬼のような形相で詰め寄ってきた。
「あんたの『足るを知る』って性格は美徳かもしれないけど、お金を持たないことを誇りにしちゃ駄目! お金を残すってことは、明日あんたが怪我をした時に治療を選ぶ『選択肢』を守ることなの! ダインの命を繋ぐ盾であり、あたしの商売を続けるための武器なのよ!」
俺は目を白黒させながら、ミナの剣幕に圧倒されていた。
「それにね!」
ミナは流民の男たちをチラリと見て、少しだけ声のトーンを落とした。
「全額ポンと渡したところで、彼らの村の問題(水源の契約)が解決するわけじゃないわ。ただの施しは、相手を一時的に楽にするだけで、根本的な解決にならない。本当に助けたいなら、そのお金を『どう使うか』を計画しなきゃ駄目なのよ」
俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。
ミナの言う通りだ。俺はただ、目の前の金への執着がないから手放そうとしただけだった。だが、金を残すことは欲張ることじゃない。明日も明後日も、笑って仲間と旅を続けるための『備え』なんだ。
「……すまん、ミナ。俺が間違ってた。金を残すって、そういう意味だったんだな」
俺が素直に謝ると、ミナはふうと大きく息を吐き出し、俺の胸ぐらから手を離した。
「わかればいいのよ。でも、あんたの『助けたい』って気持ちまで否定する気はないわ。だから、少しやり方を変えましょう」
ミナは革袋を開け、中から銀貨をジャラジャラと取り出すと、いくつか別の小さな袋に分け始めた。
「いい? これからは、報酬をすべて一つの袋に入れるんじゃなくて、『目的別の共同財布』を作るの」
「目的別?」
「そう。一つ目は『生活費』。食料や宿代ね。二つ目は『武具・道具の修繕費』。ダインの剣や、あんたの鉄鍋の手入れに使うお金。三つ目は『予備費』。怪我や病気、どうしようもないトラブルが起きた時のための絶対使っちゃいけないお金」
ミナは次々と袋を並べていく。
「そして、四つ目。これが今回の追加報酬を入れる袋よ」
ミナは一番大きな袋を、俺の手に握らせた。
「これは『誰かのために使うお金』。枯れ村の連中を助けたいなら、この袋の中から、本当に必要な物資や解決策を考えて使いなさい。これなら、私たちの明日の選択肢を守りつつ、あんたのやりたいこともできるでしょ?」
「ミナ……お前、天才か!!」
俺は感動して、その袋をぎゅっと握りしめた。
「ダインの剣の修理費も、予備費も残ってるんだな! よし、じゃあこの金で枯れ村の奴らに何を買ってやるか……」
「ストップ。まだ説明は終わってないわよ」
俺が袋を持って走り出そうとすると、ミナが冷酷な声で引き止めた。
そこからが、本当の地獄だった。
「いい、カイ。目的別に分けたからといって、適当に使っていいわけじゃないわ。この『減価償却』の概念を理解してもらうわよ。例えばダインの剣は使えば使うほど消耗するんだから、その分の価値の目減りを毎回の報酬から積立金として……」
ミナは地面に木の枝で複雑な図を描きながら、俺に『お金の運用』についてみっちりと講義を始めた。
「あと、予備費の『流動性』についても説明しておくわ。いざという時にすぐに換金できない資産は意味がないの。だから、銀貨で持つ分と、価値が落ちない宝石類で持つ分を……聞いてる、カイ?」
「あ、あう……」
俺の目は、完全に虚空を彷徨っていた。
流動資産? 減価償却?
さっぱりわからない。数字と難解な言葉の連続攻撃に、俺の脳みそは限界を迎え、頭のてっぺんからプスプスと煙が出始めていた。
「ちょ、ちょっと待ってくれミナ! 俺、昨日あんなに巨大な魔物から村を救ったばっかりなのに、なんでこんなに苦しいんだ!? 角猪の群れに突っ込むより、お前の帳簿の説明の方が百倍怖いぞ!」
「馬鹿なこと言ってないでちゃんと覚えなさい! ダイン、あんたもよ!」
巻き添えを食ったダインが、「私は剣を振るうのが仕事なのだが……」と露骨に目を逸らし、冷や汗を流している。
俺が白目を剥いて地面に倒れ伏しかけた、その時だった。
ガンッ! ガンッ! ガキンッ!
「……ん?」
帳簿の講義のせいで完全に死にかけていた俺の耳に、やけにやかましい金属音が飛び込んできた。
「なんだ? 誰か鉄でも叩いてるのか?」
音は、商隊の荷馬車が一台停まっている、野営地の少し外れの方から聞こえてくる。
「まったく、人が大事な話をしてるのに誰よ。うるさいわね」
ミナがプンスカと怒りながら立ち上がり、俺とダインもその後について音のする方へと向かった。
そこには、俺たちと同じように商隊に同行していたらしい一人の人物が、荷馬車の影で焚き火を起こし、小さな金床の上で何かを必死に叩いている姿があった。
煤で顔を真っ黒にした、小柄な女だった。
「あーっ、もう! なんでここでヒビが入るのよ! 使い切ってなんぼでしょーが!」
彼女は自分の手にある『壊れかけの金槌』に向かって、八つ当たりのように叫びながら、器用に別の工具を操ってそれを直そうとしている。
ガンッ! ガンッ!
その乱暴だがどこかリズミカルな音は、俺の沈みかけていた気分をパッと明るくしてくれた。
「おい、あんた!」
俺が声をかけると、その女――新しいトラブルと笑いの種になりそうな予感しかしないその女が、煤だらけの顔を上げて俺たちを睨みつけたのだった。




