第13話「魚が空を飛ぶ日」
東の街道を横断する、巨大な河。
普段なら、何台もの荷馬車を一度に運べるほどの巨大な平底の『渡し船』が、ゆったりと両岸を往復しているはずの場所だ。
だが、今、俺たち商隊の目の前に広がる光景は、ゆったりとは程遠いものだった。
「おいおい、なんだあれ……」
「魚が、空を飛んでるぞ……!?」
護衛の男たちが、信じられないものを見るように目をこすった。
川の水面が、まるで沸騰しているかのように激しく波立っている。そして、その白い水しぶきの中から、銀色に光る無数の河魚が、矢のような猛スピードで空高く跳ね上がっていたのだ。
一匹や二匹ではない。数百、数千という魚が、右へ左へと空中を乱舞し、アーチを描いては再び水面に突き刺さっていく。太陽の光を反射してキラキラと輝くその様は、どこか幻想的ですらあった。
「綺麗だなー! 街の川は魚が飛ぶのか!」
俺が感心して手を叩くと、ミナがげっそりとした顔で俺の背中を突いた。
「カイ、のんきなこと言ってる場合じゃないわよ。あっちを見てみなさい」
ミナが指差した先では、商隊長が船着き場の船頭たちを相手に、顔を真っ赤にして何やら詰め寄っていた。
「頼む! 追加で銀貨を出すから、なんとか船を出してくれ! この商隊には王都向けの生鮮品も積んであるんだ。ここで何日も足止めを食らったら大赤字だぞ!」
「馬鹿言っちゃいけねえ。金の問題じゃねえんだ」
屈強な船頭の男が、首を横に振った。
「ありゃあ『魔力乱流』だ。川底の魔脈が何かの拍子で乱れて、あちこちに不規則な渦を作ってやがる。魚があんなに跳ねてるのは、水の中が息苦しくてパニックになってるからだ。あんな荒れ狂った川に船を出してみろ、あっという間に流されて転覆しちまう!」
商隊長が絶望して頭を抱え込んだ。
スケジュールが命の商人にとって、足止めは死活問題だ。
「ダイン。やっぱりあれは無理か?」
俺が隣に立つダインに聞くと、元騎士の彼も険しい顔で腕を組んだ。
「ああ。いくら護衛の我々が武力に優れていようと、大自然の猛威や川の乱流を斬ることはできない。船頭が無理だと言うなら、大人しく川が落ち着くのを待つしかないだろうな」
「うーん……でも、本当に無理なのかな?」
俺は川岸のギリギリまで歩み寄り、目を細めて『残り見』の感覚を水面に這わせた。
確かに、川の魔力はメチャクチャに乱れている。だが、均等に乱れているわけではない。
「……なぁ、船頭のおっさん。あの魚たち、デタラメに跳ねてるように見えて、実は『特定の場所』を避けて飛んでるんじゃないか?」
「はあ? 何言ってんだ坊主」
「ほら、あそこの少し水の色が濃くなってる場所。あそこからは一匹も魚が飛び出してこないし、あそこに向かって飛んでいく魚もいない。魚たちは、あそこが一番危険な『渦の中心』だってわかってるんだ」
俺の言葉に、船頭がハッとして川面を見つめ直した。
「本当だ……。飛び跳ねてる魚は全部、あの色の濃い部分から遠ざかるように動いてやがる」
「山でも同じさ。川が荒れた時、魚は一番流れがキツい場所を避けて、少しでも安全な道へ逃げようとする。つまり、あの『魚が向かっている方向』を繋ぎ合わせれば、水の中の比較的安全なルートが見えるはずだ。山の漁師の基本だぞ」
「なるほど……!」
船頭の顔に希望の光が差したが、すぐにまた曇った。
「だが坊主。いくら安全なルートがわかったところで、今の川の勢いじゃあ、渡し船の帆と櫓だけじゃ押し切られちまうぞ」
「そこは、俺の出番だ!」
俺はドンッと自分の胸を叩いた。
「俺が船の一番前に立って、船にぶつかってくる悪い流れを全部、船の後ろに『流して』やる。そうすれば、船は安全に進めるだろ?」
「川の流れを流す? お前、水系の高位魔法使いなのか?」
「まあ、似たようなもんだ。俺の魔法のルールは『借りたものは返す』だけだからな。川の水を借りて、邪魔にならない場所に返す。簡単なことさ!」
俺が自信満々に言うと、船頭は少し迷った後、力強く頷いた。
「……わかった。このまま待ってても埒が明かねえ。坊主の目を信じよう!」
数十分後。
五台の荷馬車と商隊の人間を乗せた巨大な平底の渡し船が、軋む音を立てて岸を離れた。
俺は船の舳先に立ち、目を凝らして水面を睨みつけた。
「おっさん、少し右だ! あそこで二匹同時に跳ねた、左の渦を避けてるぞ!」
「おうっ! 面舵いっぱーい!」
船頭たちの掛け声と共に、巨大な船が川の中央へと進んでいく。
だが、川の中央に近づくにつれ、乱流の勢いはさらに増していった。水が盛り上がり、船体を激しく揺さぶる。
「カイ! 波が来るぞ!」
後ろで警戒していたダインが叫んだ。
船の正面から、魔力乱流によって生み出された巨大なうねりが迫ってくる。このままぶつかれば、間違いなく船は大きく傾き、荷馬車が川に落ちてしまう。
「問題ない! ――少し、借りるぞ!」
俺は両手を前に突き出し、《環流術》を展開した。
迫り来る巨大な波の『勢い』と『質量』。その力に意識を引っ掛け、俺の体を筒にして、そのまま船の真後ろへと受け流す。
ドォォォォォンッ!!
船の舳先にぶつかるはずだった波が、見えないトンネルを通ったかのように船体をすり抜け、船の真後ろで高く水柱を上げた。
「す、すげえっ! 波が割れたぞ!」
商人たちが歓声を上げる。
「返すぞ!」
俺は流した波の力を川面へ戻し、再び次の波へと備えた。
「よし、このまま一気に対岸へ突っ切るぞ!」
ダインが号令をかけ、船頭たちが力強く櫓を漕ぐ。
俺がルートを指示し、ぶつかる波を後ろへ流し、ダインが船の上の人間を統率する。完璧な連携で、船は荒れ狂う乱流の中を確実に進んでいった。
――だが。
船は安全に進んでいても、一つだけ避けられない問題があった。
「ひやあっ!?」
ミナの悲鳴が上がった。
バチィィッ!!
空中を矢のように飛んでいた体長三十センチほどの銀色の河魚が、ミナの頬にクリーンヒットしたのだ。
「い、痛ぁーっ!! なによこれ、生臭い!!」
それはミナだけではなかった。
乱流から逃げようとパニックになって空を飛んでいる魚たちにとって、川の中央に進み出てきた巨大な船は、絶好の障害物だったのだ。
バチバチバチバチッ!!
「ぬおっ!?」
「ぐはっ!」
次々と空から降り注ぐ『魚の雨』。
鋭いヒレとしっぽを持った生きた魚たちが、護衛の男たちや商人たちの顔面、胸、腹に容赦なくビンタを食らわせていく。
「ええい、鬱陶しい! シールド・バッシュ!」
ダインが盾を構えて魚を弾き飛ばすが、数が多すぎる。あっという間に船の上はピチピチと跳ね回る魚で埋め尽くされ、全員が川の水をかぶってずぶ濡れになってしまった。
「最悪よ! あたしのよそ行きの服が魚臭くなっちゃったじゃない!!」
ミナが半泣きになりながら、顔に張り付いた魚を払いのける。
そんな阿鼻叫喚の船上で、一人だけ、全く別の声を上げている男がいた。
「おおおおーっ!! すげえええええっ!!」
俺だ。
俺は片手で波を流しながら、もう片方の手でミルヴァで買った『鉄鍋』の柄をしっかりと握りしめていた。
「ミナ! ダイン! 見てみろ、夕飯が降ってきたぞ!!」
俺は飛んでくる魚の軌道を『残り見』で正確に読み切り、鉄鍋を盾のように構えて、次々と空中でキャッチしていった。
カンッ、ボインッ、スポッ!
「一匹! 二匹! あ、今のはデカいぞ! 三匹!!」
川の水と一緒に飛び込んでくる新鮮な河魚たち。
「あははははっ! 街の川はすごいな! 網も釣り竿も使わずに、鍋を持ってるだけで夕飯が勝手に入ってくるんだぞ! こんなに効率のいい漁は山じゃあり得ない!」
俺は全身ずぶ濡れになりながらも、本気で歓喜の声を上げていた。
「ちょっとカイ! 遊んでないでちゃんと波を流しなさいよ!!」
「わかってるって! ほら、あそこの渦を避けて……よっと、四匹目ゲット!」
ミナの怒号と、ダインの呆れ声、そして俺の大笑いが交差する中、渡し船は魚の雨を抜け、ついに対岸の船着き場へと滑り込んだ。
「……はぁ、はぁ。助かった……」
対岸に到着した船の上で、商隊長がへなへなとその場に座り込んだ。
俺たち『一枚葉』の三人はもちろん、船頭も商人たちも、全員が頭の先から足の先まで魚臭い水でびしょ濡れだ。
だが、その顔には不思議と達成感の笑みが浮かんでいた。
「ありがとよ、坊主! お前さんの目と魔法のおかげで、船を沈めずに済んだ!」
「商隊の荷物も全部無事だ! 本当に助かった!」
商人たちが、ずぶ濡れの俺の肩をポンポンと叩いて感謝してくれる。
「いいってことよ。俺も大漁だったからな!」
俺がたっぷりと魚が入った鉄鍋を掲げて見せると、皆がドッと笑った。
その光景を見ながら、俺はふと考えた。
第二葉の置き手紙。『腹が減っている時に金の話をするな。先に食え』。
俺は、第二葉の街での「一番いいもの」は、昨日ダインが作ってくれた美味い鍋(食)のことだと思っていた。
だけど、どうだろう。
俺の山の知識と、ダインの統率力、船頭たちの腕、そして商人たちの協力。みんなの知恵と工夫が合わさって、この荒れ狂う河を越えることができた。
ただの美味い飯や物じゃなく、こういう『困難を乗り越える人々の工夫や力強さ』こそが、この場所で一番いいものなのかもしれない。
「……よし、今夜の飯は、俺が捕まえたこの魚でダインに鍋を作ってもらおう!」
「断る。魚の泥抜きと下処理が終わるまで、私の鍋に入れることはまかりならん」
「ええーっ、ケチ!」
そんな冗談を言い合いながら、俺たちは再び馬車に乗り込み、東への街道を進み始めた。
だが、河を越えてから一時間ほど歩いた頃。
「……止まれ」
先頭を歩いていたダインが、スッと右手を上げて商隊の足を止めた。
「どうした、ダイン?」
「前を見ろ。本来、この街道には関所などないはずだ」
ダインの視線の先。
街道を完全に塞ぐようにして、丸太を荒く組んだ怪しげなバリケードが築かれていた。
そして、そのバリケードの前には、お揃いの黒い腕章をつけた武装した男たちが、ニヤニヤと笑いながらこちらを見下ろしている。
『止まれ! ここから先は私有地だ。通りたければ、荷馬車一台につき小銀貨二枚の《私設通行料》を払ってもらおうか!』
男の一人が、見慣れない書式の羊皮紙をこれ見よがしに広げて叫んだ。
楽しい魚捕りから一転、なんだかひどく面倒な匂いがプンプンと漂い始めていた。




