第11話「契約書は魔物より怖い」
商都ミルヴァを出発して、十日。
徒歩と乗り合い馬車を乗り継ぎ、俺たち『一枚葉』の三人は、王国の物流を支える大動脈へと辿り着いていた。
「うおおおおっ! 海だ! 水が地平線の向こうまで続いてるぞ!!」
「海じゃないわよ、川よ! ちょっとカイ、船着き場の近くで飛び跳ねないで! 落ちるわよ!」
俺が波止場の木箱の上ではしゃいでいると、ミナが下から俺の足を引っ張った。
ここは第二の葉印が示す街、河港リュド。
ミルヴァが陸の要所なら、ここは水の要所だ。山育ちの俺から見れば海としか思えないほど巨大な河川に、大小さまざまな帆船や荷船がひしめき合っている。風に乗って運ばれてくるのは、川特有の泥の匂いと、魚を焼く香ばしい煙の匂いだ。
「すごいなダイン! あの船なんて、俺たちが泊まってた宿屋よりデカいぞ! あれが水の上に浮いてるなんて信じられない!」
「ああ。リュドの造船技術と水運は王国随一だからな。だが、あまりはしゃぐな。荷運びの荒くれ者とぶつかれば面倒なことになるぞ」
ダインは相変わらず生真面目な顔で周囲を警戒していた。青いマントを羽織った長身の彼が立っているだけで、ガラの悪い水夫たちも無意識に道を譲っていく。
「さあ、あんたたち。観光は後よ。まずは腹ごしらえをして、それから『大事な話』があるわ」
ミナがポンと手を叩き、港のすぐ近くにある大衆食堂へと俺たちを案内した。
白身魚のフライと、香草を散らしたパン。それに薄いエール(俺は水だ)がテーブルに並ぶ。
俺がフライを口へ運ぼうとすると、ミナがエールのジョッキを置き、羊皮紙の束をテーブルへ載せた。
「さて。ミルヴァではバタバタしていて後回しになってたけど、これからの長い旅に向けて、ちゃんとルールを決めておくわよ」
「ルール?」
俺が首を傾げると、ミナは羊皮紙の束を広げた。
「カイとあたし、そしてダインの三人で結ぶ『正式な同行契約書』よ」
「けいやく、しょ?」
「そう。これまでは口約束と成り行きで旅をしてきたけど、これから先、危険な場所にも行くし、お金も稼ぐことになる。だから、報酬の分配比率、経費の天引き、違約時の罰則について、きっちり紙に残しておくの」
ミナは羽ペンを取り出し、ずらりと文字が並んだ羊皮紙を指差した。
俺は、その羊皮紙を覗き込み――背筋がゾワリと凍るのを感じた。
「な、なんだこれは……」
そこには、俺が今まで生きてきた中で見たこともないほど、細かい字がぎっしりと、しかも何枚にもわたって書き連ねられていた。
『第一条・依頼報酬から合意した共通経費を差し引き、残額をカイ四割、ダイン三割、ミナ三割とする。遠征ごとの役割変更は三人で再協議する』
『第七条・街中での野宿と未確認の野草の摂食は、事前に仲間へ知らせること。危険や罰金が生じる場所では宿を優先する』
「ひっ……!」
俺は思わず椅子ごと後ろに下がり、ダインの背中に隠れた。
「ど、どうしたカイ。何に怯えている?」
「こ、怖い……! なんだこの紙の束は! 切り立った崖を素手で登るより、角猪の群れに丸腰で突っ込むより、ずっと危険な匂いがするぞ!」
「失礼ね! これはあたしたちを守るための盾よ!」
ミナが柳眉を吊り上げた。
「いい、カイ。金の話を曖昧にしておくと、どんなに仲の良いパーティでも必ずいつか亀裂が入るわ。誰がどれだけ負担したか、誰が何をしてはいけないのか。それを『紙に残す』ことで、もめ事を防いで、お互いの未来の選択肢を守るのよ。商人の基本中の基本よ!」
「紙に、残す……未来を守るため……」
俺は恐る恐る羊皮紙の束を見つめ直した。
確かに、ミルヴァの街で出会った労働者たちは『前借り契約』というやつで苦しんでいた。紙に書かれた約束は、時には人を縛る鎖になる。
だが、ミナが作ったこの契約書は、俺たちを縛るためじゃない。俺たちが明日も明後日も、笑って一緒に美味い飯を食うための『安全な足場』なのだ。
「……でも飯が冷める。先に食おう。俺にも一条ずつ読ませてくれ。わからない所は聞く」
三人でフライを平らげてから、ミナが条文を声に出して読み、俺は自分の控えに印をつけた。野草を見分ける仕事でミナの取り分をどう数えるかも話して、三人で数字を直す。それから羽ペンを受け取り、最後のページに『カイ』と不格好な字を書いた。
「俺も異存はない。経理と交渉を任せられるのはありがたいからな」
ダインも流麗なサインを書き込む。
「よし! これで正式に契約成立ね! よろしく頼むわよ、相棒たち!」
ミナが満足げに羊皮紙を巻き直し、カバンに仕舞い込んだ。
俺は大きく息を吐き出し、冷や汗を拭った。本当に、世の中には魔物より恐ろしいものがあるらしい。
「さて、契約も済んだし、次は手紙だな!」
食事を終えた俺たちは、リュドの街を流れる大河のほとりへ向かった。
地図に記された『第二葉』の場所は、河口付近に建つ古い石造りの水門管理塔だった。
今は使われていないその塔の最上階。風が吹き抜ける展望台の壁に、旧環路の証である葉の形をした窪みがあった。
「ほら、カイ。早く開けてみてよ」
「おう」
俺は首から下げた押し葉を取り出し、窪みにはめ込んだ。
カチリ、という音と共に、壁の一部がスライドし、小さな石の箱が現れる。
中には、ミルヴァの時と同じように一通の封筒が入っていた。
「第二葉の置き手紙か。今回は何が書いてあるんだろうな。魔法の秘密とか、昔の武勇伝とか……」
俺は胸を高鳴らせながら、封筒を開けた。
そこには、相変わらずの乱暴な字で、たった一文だけが書かれていた。
『腹が減っている時に金の話をするな。先に食え』
「…………」
「…………」
俺とミナは、手紙の文面と、お互いの顔を交互に見た。
「あははははっ! だぁーっはっはっは!!」
俺は腹を抱えて爆笑した。
「さっきミナが契約書を出して、俺が先に食おうと言っただろ。爺さんが見てたみたいだ。危ないところだったな!」
「なっ、なによこれ! 偶然でしょ、ただの偶然よ!!」
ミナが顔を真っ赤にして手紙を奪い取ろうとする。
「いや、真理だな」
ダインが腕を組み、真顔で頷いた。
「空腹時は判断力が鈍り、イラ立ちやすくなる。部隊の統率においても、士気を保つためにはまず食事を与えよ、というのは兵法の基本だ。このベレンという男、やはりただ者ではない」
「ダインまで真面目に分析しないでよ! ただの食い意地の張った爺さんの言葉じゃない!」
ミナが地団駄を踏むのを見て、俺はさらに笑った。
姿は見えなくても、爺さんはいつも俺たちの旅のすぐそばにいるような気がした。
「よし! 爺さんもこう言ってることだし、河港リュドの美味いもんを全部食い尽くしに行こうぜ!」
俺が展望台から駆け出そうとすると、ミナが俺の首根っこをひょいと掴んだ。
「ちょっと待ちなさい。食べるためには、お金が必要でしょ?」
「えっ? でも銀貨がまだ……」
「あれは予備費。さっき契約書にサインしたわよね? これからの旅費と食費は、その街で稼ぐのが基本よ」
ミナは悪魔のような笑顔を浮かべ、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「ギルドに寄って、すでに条件のいい依頼を見つけておいたわ。リュドから東の街道を抜ける『商隊護衛』の仕事よ。さあ、Fランク冒険者の力、存分に見せてもらうわよ!」
どうやら、第二の街でののんびりとした観光は、おあずけになりそうだった。




