第六話 飲めない泉
下層槽の水は、生きていた。
そして、そのままでは人を殺す水だった。
隠し階段を下りたカイは、灯火を高く掲げた。
塩の結晶が壁を白く覆い、ところどころで厚い瘤になっている。階段の底には黒い泥が溜まり、古い木片、獣の骨、乾いた鳥の死骸が半ば埋まっていた。奥の暗闇から、水が一滴ずつ石へ落ちる。
音だけなら澄んでいた。
「踏むな」
ダリヤの声が背中へ飛んだ。
カイが出しかけた足を止める。目の前の敷石には、髪の毛ほどの亀裂が走っていた。
ダリヤは石へ耳を当て、小槌で周囲を叩いた。乾いた高音に混じり、一か所だけ低い音が返る。
「下が空洞だ。泥に見えるところも床とは限らない。落ちれば、引き上げる前に塩水を飲む」
後ろにいた石工が縄をカイの腰へ回した。
ファリヤは階段の上から見ていた。タルサ側で下へ入ったのは彼女とオルムだけだ。仮契約の共同調査は、人数まで同じにしている。
「二十三年前は、もっと下まで石段があった」
オルムが言った。
「塩が膨らんで、床も入口も押し上げた。何度か掘ったが、臭い水しか出なかった」
カイは壁へ手を置いた。
迎雨標ではない。街道井戸でも里程標でもない。ただの槽壁からは、路の反響を直接たどれない。手探りで塩の下を探し、古い水路図にある点検標の位置まで進む必要がある。
ダリヤが安全な足場へ白墨を引いた。
「線の外へ出るな。まず空気を入れる。死骸を上げ、上層の泥だけ出す。水路はその後だ」
「三十日しかない」
「だから死者を出す時間はない」
*
最初の一日は、泉へ触れる前に終わった。
階段上へ滑車を組み、籠で泥と死骸を引き上げる。汚れた物は受水域の外まで運び、穴を掘って石灰をかけた。作業者は口布を替え、上がるたび手足を灰水で洗う。
四十人のうち下層槽へ入れるのは、ダリヤが認めた六人だけだった。残りは排泥、運搬、換気筒、仮宿営、警備に分かれる。
タルサ側からも四人が泥運びへ加わった。
初めは、同じ籠へ手を掛けることさえ互いに嫌がった。遠征隊の作業者は、古い住民が二十三年も放置した泥だと見る。タルサの住民は、昨日来た者が自分たちの水を掘り返していると見る。
オルムが、壁際の小さな穴を指した。
「そこへ泥を積むな。昔の空気抜きだ。塞げば、下で灯が消える」
若い石工は疑ったが、ダリヤが細い布を穴へ寄せると、わずかに外へなびいた。空気は動いていた。
「図面にない」
「図面を作った役人は、ここで泥を掻かなかった」
オルムは答えた。
失われた設備を知るのは、古い紙だけではない。二十三年ここへ残った人間の身体にも、どの石を踏み、どの穴を塞がないかが残っていた。
カイは早く奥へ進みたかった。
泥籠が一つ上がるたび、その下に水路の入口があるように思えた。だが実際に現れるのは、崩れた煉瓦か、白い塩の層だけだ。
昼過ぎ、白墨の線ぎりぎりで敷石が割れた。
泥籠を押していた作業者の片脚が、膝まで暗い穴へ落ちる。腰縄が張り、階段上の二人が倒れながら支えた。
カイは駆け寄りかけた。
「止まれ!」
ダリヤの一声で足を止める。割れた石の周囲にも亀裂が広がっていた。人数を掛ければ、救う側まで落ちる。
ダリヤは別の梁へ救助縄を取り、荷重を移し、石工に腹這いで近づかせた。作業者は泥まみれになったが、骨を折らずに引き上げられた。
「白線がなければ、腰縄もなかった」
ダリヤは割れた穴を見下ろした。
「急いだ半日で、一人と三十日を失うところだった」
カイは返事をせず、作業停止の時刻を監査板へ自分で書いた。
夕方、最初の水試料を採った。
透明に見えた水を銅皿で蒸発させると、底へ厚い白膜が残った。腐臭は弱い。塩分は第二観測井よりはるかに高く、泥には動物の汚れが混じっている。
「飲用不可」
ミラが赤い線を引いた。
ファリヤの口元が固くなる。
「水が戻ったと言ったな」
「戻り始めている」
カイは答えた。
「この水を飲めるとは言っていない」
「言葉を分ければ、渇きも分かれるのか」
返す言葉はなかった。
*
二日目、泥の下から点検標が出た。
掌ほどの石板に、六つの溝と流向を示す矢が刻まれている。カイが塩を落とし、濡れた手を置いた。
反響は弱かった。
それでも、死んではいない。
西の奥から細い水脈が入り、目の前で二つに分かれている。一方は下層槽へ滲み、もう一方は厚い閉塞の向こうを走る。さらに上方、主水路の方向には、重い圧力が溜まっていた。
「主水路の門までつながっている」
カイは立ち上がった。
「閉塞を抜けば、一気に淡水を入れられる」
「一気に、という言葉を作業場で使うな」
ダリヤが点検標の脇へ鉄棒を差し込んだ。浅いところで止まる。
「向こう側の水圧が分からない。門板が腐っていれば、閉塞を抜いた瞬間に全部来る。槽壁が持たなければ、この部屋ごと埋まる」
「細い穴から圧を逃がせる」
「どこへ逃がす。下層槽は汚れている。上の貯水槽へつなげば、ファリヤたちの飲み水まで駄目にする」
「洗い流せばいい」
「何の水で?」
ダリヤは声を荒らげなかった。その平静さが、怒鳴られるより重かった。
「泉が戻ったという一点から、使える水、洗浄水、壁が耐える圧力まで全部あることにするな。開けろと命じるなら、私は技術責任者として作業を止める」
カイの中で、三十日という数字が脈打った。
ここで止まれば、今日も飲める水は増えない。評議会へ送る報告には、汚れた泉と危険な主水路だけが残る。
「代案は」
ようやく聞いた。
ダリヤは点検標の下を示した。
「反響が二つに分かれたと言ったな。細い方を探す。主水路でなく、昔の洗浄口か漏水抜きなら圧は低い。そこから一日分ずつ取る」
「量が足りない」
「都市一つには足りない。百人を生かす始まりにはなるかもしれない」
百人。
四十人と二十七人を合わせても余裕が残る。だがカイが見ているタルサは、そんな規模ではない。
ミラが槽の入口から板を持ってきた。
「使える水の量を先に決める」
彼女は、タルサ側の残量、遠征隊の持参水、洗浄に必要な量、飲用へ残す最低量を分けた。
「ファリヤたちの槽は使わない。新しく出た水の最初の分は、細水路と沈殿槽を洗う。次を水質試験。飲用判定が出るまで、人にも家畜にも渡さない」
「最初から飲める水が出てもか」
遠征隊の誰かが言った。
「最初ほど石粉、塩、古い泥を連れてくる。透明と安全は別です」
「捨てる水を、私たちに見せろ」
ファリヤが言った。
「流した量も、どこへ捨てるかも。下流の井戸へ汚れを押しつけるなら、主水路を開くのと同じだ」
ミラは監査板へ立会人として彼女の名を加えた。
「全部記録します」
カイは三人の顔を見た。
自分には水の方向が分かる。だが石が耐えるか、どれだけ捨て、どれだけ残すか、下流を汚さないかは分からない。
「細い方を開く」
決めた。
「主水路には触れない。ダリヤが安全を認めた範囲だけだ」
*
洗浄口は、点検標から壁沿いに十四歩進んだ塩層の下にあった。
カイが反響で方向を絞り、ダリヤが石の継ぎ目を読み、石工が指二本ぶんずつ塩を削った。穴を急に広げない。水が滲んだら作業を止め、木栓と布で圧を調整する。
最初に出た水は白かった。
塩と石粉を巻き、仮溝を濁流のように走る。ミラとファリヤが量を数え、下流へ流さず、受水域外の沈泥穴へ導いた。
二度目は薄い灰色になった。
三度目、桶の底が見えた。
それでも誰も飲まない。
新しく組んだ沈殿槽へ入れ、上澄みを砂利、洗い砂、木炭、布の順に通す。煮沸した試料を二つに分け、残留塩を量る。ファリヤ側の立会人にも同じ試料を封じさせた。
濾過槽を作るだけでも、水が要った。
砂利と砂は、洗う前には白い粉を噛んでいる。最初の二杯を惜しめば、その粉が飲用桶へ入る。遠征隊の一人が「澄むまで布だけで受ければいい」と言ったが、ミラは洗浄に使った量まで記録し、予定の範囲を越えるたび作業を止めた。
ファリヤは、捨て水の流れを最後まで見届けた。沈泥穴の底へ布を敷き、溢れた水が城壁外の涸れ溝へ達しないことを確かめる。
「昔は、上の役人が汚れを南の井戸へ流した」
「六誓では下流を塞ぐな、とある」
ミラが言う。
「塞がなければ、汚していいと思っていたのさ」
古い条文が残っていても、使う人間が都合のよい半分だけ読めば、水は守れない。
夕方まで測った流量は、一日におよそ百人が生きる最低飲用水を賄える量だった。身体を洗い、畑へ撒き、家畜を増やせる量ではない。それでも、持参水が尽きても四十人を直ちに帰す必要はなくなった。
ダリヤが最初の飲用桶へ木蓋をした。
「ヴァラドへ試料と記録を送れ。向こうでも確認させる」
カイは澄んだ水面を見た。
二十三年ぶりに戻った水。父が命をかけて探した兆候。目の前にあるのに、触れた者の所有物にはならない。
「少しは喜んでもいいだろう」
カイが言うと、ダリヤは疲れた顔で笑った。
「水が戻ることと、都市が生きることは別だ」
その言葉が終わらないうちに、階段の上で怒声が上がった。
最初の飲用桶を、誰が使うか。
遠征隊の作業者は、泥を出した者が先だと言った。
タルサの住民は、二十三年守った者が先だと言った。
治療担当は、熱のある老人と怪我人を先にしろと言った。
水は出た。
だから、次には順番が必要になった。




