第五話 廃都には先客がいる
矢は抜かなかった。
カイの足元へ刺さった一本を、そのまま境界の印にした。
遠征隊は矢の東側へ荷車を半円に並べ、馬を内側へ入れた。斥候は弓へ手を置いたまま、弦を引かない。城壁の上の住民も武器を下ろさなかった。
夕日だけが、両方を同じ赤に染めていた。
「二十七人」
バシュが小声で報告した。
「城壁の上に十一。門の陰に六。煙の数と足跡を合わせれば、動けない者を含めて二十七前後だ」
「こちらは四十人だ」
石工の一人が言った。
「弓を持てるのは半分もいない。夜のうちに門を押さえられる」
「押さえてどうする」
「武器を集める。貯水槽を調べる。三十日しかないんだぞ」
カイは城壁を見上げた。
軍事だけを考えれば、相手の読みは間違っていない。門は崩れ、見張りは訓練された兵ではない。バシュの斥候が裏手へ回れば、夜明けまでに井戸へ届けるかもしれない。
だが、その瞬間から遠征隊は調査隊ではなく占領者になる。
「攻めない」
「向こうはもう矢を撃った」
「当てるなら、俺の胸を狙えた」
矢は警告だった。次もそうだという保証はない。それでも、最初の一本を攻撃と記録するか、境界の要求と記録するかで、明日の選択が変わる。
「夜襲も武装解除も禁じる。見張りは立てる。向こうが矢印を越えない限り、こちらも越えない」
不満は消えなかった。だが命令には従った。
*
夜が降りると、城壁内の煙は三つに減った。
遠征隊は持参水だけで大麦粥を作った。わざと、井戸へ近づかずに。煮炊きの匂いが城壁へ届く頃、門の脇から二人の人影が出てきた。
先頭は、警告を発した女だった。
五十歳前後。日に焼けた顔を頭布で縁取り、短弓を背負っている。後ろには片脚を引きずる老人がいた。二人とも、矢の位置で止まる。
「ファリヤ・タシュ」
女は名乗った。
「ここに残った者の水を預かっている。あんたが隊長か」
「カイ・レヴァル。ヴァラドの路守だ」
「路守なら道を守れ。家の中へ入ってくるな」
「道だけでは、雨は迎えられない。受水庭と地下泉を調べたい」
「調べた後は?」
「直せるなら直す」
「その後だ」
ファリヤは一歩も動かなかった。
「水が出たら、ヴァラドの印を押すのか。家へ番号を振って、先に直した者へ渡すのか。私たちを城壁の外へ出してから、ここは廃都だったと言うのか」
評議会で挙げられた懸念が、紙ではなく人の声になっていた。
「しない」
「隊長の気分は聞いていない」
ミラが、カイの隣へ出た。
「その点は、ヴァラド評議会の承認条件になっています。土地、住居、工房、水源、水路の恒久権利は、現地調査が終わるまで凍結されています」
「ヴァラドの評議会が、タルサの権利を凍らせる?」
「ヴァラドの人間へ勝手に与えない、という意味です。あなたたちの権利を認めた、という意味でもありません」
遠征隊の後ろで誰かが息を吐いた。味方に都合よく言い換えないミラへ向けたものだろう。
ファリヤの目が細くなった。
「では、誰の町だ」
「今ここで、誰にも都市全部の所有権はありません」
ミラは答えた。
「あなたたちには、二十三年ここで暮らし、井戸と住居を維持した事実がある。私たちには、ヴァラドから三十日間の調査と応急修理を認められた事実がある。どちらも、相手を追放して都市全部を取れる証書ではありません」
ファリヤの後ろの老人が、低く笑った。
「正直な書記だ。だから信用できるとは限らんが」
「水判官見習いです」
「もっと面倒そうだ」
老人はオルム・セダと名乗った。かつて受水庭の泥出しをしていたという。
カイは二人の手を見た。爪の間に白い塩が入り、指の節は縄と石で太くなっている。二十七人は、ただ遺跡へ隠れていたのではない。飲めない井戸を封じ、残った槽を何度も洗い、ここで生きる量を守ってきた。
「三日ほしい」
カイは言った。
「城壁へ勝手に入らない。そちらの二人、こちらの二人で、水源と受水庭を共同調査する。持参した飲用水を分ける代わりに、そちらの貯水槽の量と状態を見せてほしい」
「水を分けて、井戸の場所を買う気か」
「買わない。三日の間に見つけた水源は、どちらも私有しない。飲用にできた水の配分も、共同で決める」
ファリヤは城壁を振り返った。
「断れば?」
「持参水が尽きる前に、こちらは帰る」
石工が背後で身じろぎした。帰るとまで言うとは聞いていなかったはずだ。
「攻めないのか」
「調べる許可しか持っていない」
「四十人も連れて?」
「四十人だから、許可が要る」
長い沈黙の後、オルムがファリヤへ何か囁いた。彼女は聞き、首を横へ振り、もう一度城壁の上を見た。
「三日だけだ」
ようやく言った。
「弓は渡さない。夜は門を閉じる。あんたたちは東の空き地から動かない。槽へ入る者は、私たちが選ぶ」
「それでいい」
「よくない」
ミラが即座に言った。
カイとファリヤが同時に彼女を見る。
「口約束では、明日の朝に内容が変わります。立会人を二人ずつ。三日間の場所、水、武器、調査、発見物、違反時の終了条件を書きます」
「紙が水を守るのか」
「少なくとも、誰が約束を破ったかは守ります」
*
仮契約は、矢の刺さった場所で作られた。
ミラは旧帝国共通語で短く書き、地域の言葉で一条ずつ読み上げた。読めない者がいても、聞いて同じ内容を覚えられるように。
タルサ側の立会人はファリヤとオルム。遠征隊側はカイとダリヤ。
三日間、互いの宿営地へ無断で入らない。双方は武器を保持するが、境界内で先に構えない。共同調査へ二名ずつ出す。遠征隊は一日ごとに飲用水二樽を提供し、タルサ側は貯水槽と既知の水路を隠さず示す。新たに見つけた水源は仮契約中、どちらも私有せず、使用は四者で決める。
違反があれば調査を止め、立会人全員の前で理由を記録する。
署名の代わりに、ファリヤは弓弦を張る右手の指を墨へ浸した。オルムは自分の名を、震える字で書いた。
カイが公の水鉢を証人にしようとすると、ファリヤは城壁内から欠けた石鉢を持ってこさせた。
「ヴァラドの鉢じゃない。タルサの鉢を使う」
「そうしよう」
双方が一杯ずつ水を入れた。
水面は底を覆うだけだった。それでも同じ鉢に入れば、どちらが持ってきた一杯かは見分けられなくなった。
契約ができても、弓は下りなかった。
ただ門が、人一人通れる幅だけ開いた。
*
翌朝、共同調査が始まった。
門をくぐって初めて、カイは二十七人の暮らしを見た。
城壁の内側すべてを使っているわけではない。崩落の少ない三つの中庭へ住居を寄せ、屋根の落ちた家は家畜囲いと薪置き場にしている。大人だけではなかった。乳飲み子を抱く母親、杖を使う老人、カイの腰ほどしかない子供がいた。山羊が七頭、痩せた鶏が十羽ほど。小さな菜園には、洗い水を一滴ずつ落とす素焼き壺が埋められていた。
二十七という数字は、武器を持てる人数ではない。
ここから追い出されれば別の井戸まで歩けない者を含めた、共同体の全員だった。
遠征隊の者たちも、それを見て口数を減らした。昨夜までは「二十七人を四十人で排除する」と言えた。幼子の寝床と、墓標代わりに壁へ刻まれた名を見た後では、同じ言葉でも意味が変わる。
ファリヤが最初に見せたのは、城壁北側の小さな貯水槽だった。水面は低いが、蓋と泥除けが補修され、死骸も入っていない。二十七人が飲用と煮炊きに使い、家畜水は別の塩井戸で賄っているという。
遠征隊の一部は、水量を見るとすぐ「四十人の作業者へ回せる」と言った。
「これは私たちが二十三年守った水だ」
ファリヤの声が硬くなる。
「修理に来た者が優先されると思うな」
カイは答えを急がなかった。仮契約では、既知の貯水槽を差し出すとは書いていない。見せることと、渡すことは違う。
「持参水がある間は使わない。共同調査で必要な試料だけ、量を記録して借りる」
遠征隊から不満が出たが、ファリヤは初めて、カイから目をそらさずに頷いた。
その日の夕方、彼女は城壁西側の倒れた家へ四人を案内した。
床石の一枚を、オルムと二人で持ち上げる。下には、人一人がようやく通れる階段があった。塩の白い結晶が、暗闇へ続く壁を厚く覆っている。
「兵も徴税官も、上の入口しか知らなかった」
ファリヤが灯火を下ろした。
「下層槽へ入る隠し口だ。二十三年前、最後に閉めた」
冷たい空気が、塩と泥と、かすかな水の匂いを運び上げてきた。
「これを見せるのは、信用したからじゃない」
「分かっている」
「三日後に追い出さなくていいか、試しているだけだ」
カイは暗い階段の底へ耳を澄ませた。
遠いところで、水が石に触れていた。




