第四話 西へ向かう道
四十人が門を出ると、ヴァラドの朝の水が目に見えて減った。
公の鉢の前で、遠征隊は一人ずつ旅立ちの一杯を返した。すぐ横では水役が、革袋と樽へ詰めた持出量を帳面へ記している。八台の軽荷車、替えの車輪、石工道具、木材、縄、石灰、三十日分の食料。人が列を作れば希望に見えるが、秤へ載せれば都市の備蓄だった。
カイは最後の荷車の封を確かめた。
「人数、四十。子供、高齢者、同伴家族なし」
ミラが名簿を読み上げる。
「斥候、十二。水利、石工、木工、農業、治療、輸送、二十八。食料と資材の封印、異常なし」
「隊長まで荷物扱いか」
「隊長が増えて四十一人になるなら、食料を減らす」
冗談には聞こえなかった。
バシュが列の先頭で出発の合図を出す。城門が開き、荷車の車輪が石畳の継ぎ目を越えた。
見送る群衆の中には、期待する顔より、持ち出される穀物を数える顔の方が多かった。カイは振り返らなかった。三十日後、結果を持ち帰れなければ、あの視線は正しかったことになる。
*
一日目は、乾いた東風を横から受けて進んだ。
街道は旧帝国の石敷きをところどころ残していたが、路肩は砂に呑まれ、橋の欄干は薪として持ち去られている。斥候が前後へ散り、荷車は日の高い時間を避けて朝と夕方に距離を稼いだ。
カイは里程標を見つけるたびに馬を下りた。
触れて分かるのは、道の大きな傷と、標同士のつながりだけだ。荷車の前方に誰が待つかまでは分からない。だからバシュの斥候が丘を回り、羊飼いへ崩落を聞き、車輪跡を読む。
路守の反響と、人の目。
どちらか一方だけなら、四十人は西へ着けない。
二日目の午後、ネレイの外壁が地平に現れた。
ヴァラドの灰白色の城壁と違い、ネレイの門前には布天幕と家畜囲いが連なっている。塩袋を積んだ駱駝、羊の群れ、車輪を外して修理を待つ荷車。乾いた風にも、香辛料、獣脂、汗、焼いたパンの匂いがあった。
水門脇の役所で、遠征隊は止められた。
「人四十、馬十六、荷車八」
サーレク家の水役書記が、荷を見もしないで木札へ数字を刻んだ。
「通過水、家畜水、夜営地、井戸縄使用。合わせて銀貨十二ドラム」
輸送担当が息を呑んだ。ヴァラドの公定負担の倍に近い。
「城内へ泊まらない。東門外の隊商地を使う」
カイは言った。
「外でもネレイの井戸を使う。四十人が水だけ飲んで、厩も便所も道も使わないと?」
「公の鉢の最低水まで課すのか」
「最低水は旅人を死なせない量だ。四十人の工事隊を養う量ではない」
筋は通っていた。値が高いこととは別の話だ。
ミラが料金表の掲示を求めた。書記は旧帝国共通語で書かれた板を指したが、下部の追加料金だけは新しい墨だった。
「水役家当主の臨時命令だ。嫌なら自分の水で通れ」
カイは交渉を打ち切った。ここで半日争えば、荷車と人が余計に水を飲む。銀貨を払い、額と命令板の文面をミラに記録させる。
「古い水路台帳を見たい」
支払いを受け取る書記の手が止まった。
「何のためだ」
「タルサの受水庭へつながる支路を確認する。ヴァラド評議会の公式調査だ」
「台帳はサーレク家の管理物だ。水役でない者には見せない」
「旧帝国の公共台帳だろう」
「二十三年守ったのはうちだ」
書記は木戸を閉めた。
権利の話を続ければ、門そのものを閉ざされる。カイは歯を食いしばり、遠征隊を隊商地へ進めた。
東門外の井戸では、二つの列ができていた。
片方は公の鉢から最低水を受け取る旅人の列。もう片方は、宿や隊商が代金を払い、樽を満たす列だった。前者の水は子供の椀を潤すには足りるが、家畜や荷車隊を進ませる量ではない。サーレク家の書記が言ったことは、すべて嘘ではなかった。
だからこそ厄介だった。
遠征隊の樽へ水が入るたび、ミラは量と料金を記録した。輸送担当が「こんな値まで監査簿へ残せば、評議会が次の便を渋る」とこぼす。
「残さなければ、次の便は同じ額を用意できない」
ミラは筆を止めなかった。
カイは城壁の内側を見た。平屋根の向こうには市場の天幕が広がり、縮んだとはいえヴァラドより多くの荷車が動いている。ネレイ全体が一つの家に従っているわけではない。水役家、商人、職人、宿、荷運び。それぞれが別の勘定で都市を支えている。
今ここでサーレク家と争えば、そのすべてを敵へ回すことになる。
「料金へ異議は残す。ただし、ネレイが水を売ったと一括して書くな」
カイが言うと、ミラは一度だけ顔を上げた。
「分けて書く。公の最低水、隊商用の有料水、サーレク家の追加料金」
同じ一桶でも、誰が、何の根拠で渡したかによって意味が違った。
そこで、荷車の周りを一人の若い女が歩いていた。
濃紺の長衣の裾を帯へ挟み、片手に蝋板、もう片方に数珠状の計算玉を持っている。荷の封印へ触れはしない。車軸、積み方、馬の蹄、樽の数を順に見ていた。
「盗むなら、もう少し目立たず見た方がいい」
カイが声をかけると、女は顔を上げた。
「盗む物がないから平気」
「銀貨十二ドラムを払ったばかりだ」
「それはもうサーレク家の物でしょう」
即答だった。
「ナディア・セレム。隊商組合長代理」
名乗ってから、彼女は一番後ろの荷車を顎で示した。
「穀物は三十日分だけ。移住者の家財も、売る商品もない。種籾より石灰、酒樽より空の水樽が多い。タルサを取りに行く軍隊ではなく、直せるか確かめる工事隊ね」
「見ただけで分かるのか」
「商人は、載っている物より載っていない物を見る」
ナディアは計算玉を一つ動かした。
「帰りに空樽が満ちていたら、ネレイの宿代は今日の倍になる。空のままなら、あなたたちの道具を安く買う人が待っている」
「助言か」
「相場の話」
彼女は笑わずに言った。
「西の二つ目の石橋は、先月の地震で中央が落ちた。荷車なら北の涸れ谷へ回す、と隊商は聞いている」
「なぜ教える」
「四十人が橋の前で水を使い切れば、帰りの商売にならないから」
ナディアはそれだけ告げ、隊商天幕の間へ消えた。
ミラが隣で、彼女の名と情報を記録していた。
「何でも書くな」
「隊商組合長代理が、見返りを決めずに道の情報を渡した。書く価値がある」
「見返りは決めている。俺たちが水を見つけた後だ」
「なら、それも書いておく」
*
三日目の昼前、橋はナディアの言ったとおり落ちていた。
幅の狭い涸れ川に架かる石橋で、中央の敷石と支え梁が荷車一台分抜けている。人と馬だけなら端を渡れる。荷車は無理だった。
バシュが北の迂回路を確認して戻った。
「荷を分けて運べば、日暮れまでに向こうへ出られる。ただし車は置いていく。帰りは同じだ」
「橋なら直せる」
ダリヤが崩れた縁へしゃがみ、残った橋脚を槌で叩いた。
「恒久修理じゃない。荷重を減らし、一台ずつなら通せる仮梁だ。半日と、予備木材の三分の一を使う」
「その木はタルサで要る」
木工の一人が言った。
「ここを直しても、雨には近づかない」
カイは橋の向こうを見た。
荷を人馬へ分ければ、今日の距離は稼げる。四十人だけなら進める。だが試料をヴァラドへ返す荷車も、後から食料を運ぶ隊商も、同じ穴の前で止まる。
「直す」
決めると、何人かが露骨に空を見た。日数を失う判断に見えたのだろう。
「タルサへ着くことが目的じゃない。着いた後も使える道を残す」
ダリヤが作業を割り振った。崩れた宿駅から梁を運び、橋脚へ横木を噛ませ、縄を水で湿らせて締める。カイも石を運んだ。隊長だけが日陰で急げと言えば、三十日の半分も持たない。
仮梁を載せる直前、ダリヤが作業を止めた。
「右の橋脚が沈んでいる。荷を載せたまま渡せば二台目で落ちる」
「さっきは使えると言っただろう」
「槌の音は中身まで見せない。砂を掘って分かった」
カイは傾いた日を見た。さらに石を詰めれば一刻失う。
「一台目だけなら?」
「運がよければ渡る。悪ければ車と馬を谷底から拾う」
言葉には、隊長を立てるための飾りがなかった。
「詰め直してくれ」
ダリヤは頷きもせず、石工を呼んだ。
ミラが監査板へ、予定外の橋脚補強と消費した石灰を書き加える。遅れを隠さず残すことは、失敗の告白ではない。次の荷車が同じ場所で必要とする時間を、先に渡すことだった。
夕方、最初の空荷車が仮梁を渡った。
橋は軋んだが、落ちなかった。
八台目が越えたとき、日は西の稜線へ触れていた。予定より半日遅れた。それでも後ろには、荷車の通れる一本の道が残った。
*
四日目の夕刻、タルサの城壁が見えた。
崩れた塔と、砂に半ば埋まった門。城壁の外には、かつて雨を受けた段々状の庭が広がっているはずだった。今は灌木と土砂に覆われ、巨大な浅い墓のように見える。
歓声は上がらなかった。
西側の路肩に、古い標と違う測量杭が三本立っていた。角材を黒い樹脂で固め、上端を鉄で覆った新しい杭だ。
バシュが馬を降り、刻みを確かめる。
「北の軍が境界を測るときの打ち方だ」
「いつの物だ」
「新しい。ひと月は経っていない」
城壁の中から、細い煙が上がっていた。
誰もいない廃都ではない。
カイが門へ近づくと、反響より先に弓弦の音がした。矢が足元の石へ刺さる。
「そこで止まれ」
崩れた胸壁の陰に、人影が並んだ。老人、女、痩せた若者。揃いの兵装ではない。それでもこちらへ向けた弓は、遊びの構えではなかった。
遠征隊の背後で武器が抜かれかける。カイは手を上げ、止めた。
門の内側で、石蓋を引きずる重い音がした。貯水槽を閉ざしている。
胸壁の女が声を張った。
「帝国も兵も、直すと言って水を奪った」
その声は、二十三年ぶんの砂より乾いていた。
「今度はヴァラドか。私たちの水へ、一歩でも近づいてみろ」
カイは、評議会の条件が早すぎるほど必要だった理由を、ようやく目の前に見た。




