第三話 四十人、三十日
本日3話目の投稿です。
明日以降は1日1話更新(7:00)予定です。
「四十人を三十日養えば、城門区の配給が二日分減る」
穀倉組合の席が、カイの提案書を指先で叩いた。
「これは予言の値段として安いのか、路守殿」
七席評議会の会堂には、朝の配水鐘がまだ余韻を残していた。
半円に並ぶ七つの席。その内側に、ヴァラドの印章と公の水鉢が置かれている。壁際には職人組合や街区の傍聴人が立ち、開け放した高窓から差す光が、乾いた床を四角く切っていた。
カイは半円の中央に立っていた。背後の卓には、三つの観測井の記録、硝子羽の蛾の写生、父の帳面、古い水路図、そして今朝届いた深井戸報告が並んでいる。
「予言ではありません」
「では、雨は戻らないのか」
「戻る可能性が高いと判断しています」
「可能性で四十人は食わせられない」
早くも傍聴席から低い声が上がった。
第一評議員エドラン・ヴェスカが木槌を一度鳴らす。五十八歳の顔には、眠気より長年の乾きが刻まれていた。白くなり始めた髪を短く整え、カイではなく傍聴席へ目を向ける。
「発言は席と証言台からのみ認める。路守、続けよ」
カイは息を整えた。
「三つの観測井で、水位上昇と塩分低下が西から順に起きました。硝子羽の蛾も同じ順で現れています。里程標の反響は西から第三井戸まで到達しました」
「帰還は半年後か」
城門警備隊の席から問われた。
カイの喉まで、はい、という短い答えが上がった。
右手の証言卓にはミラがいる。彼女は何も言わず、二人が別々に測った記録を開いていた。
「最短で五か月余り。最長で七か月近くです」
会堂がざわめいた。
「二か月も違うではないか」
「古い記録の観測例が一致していません。ただし、兆候の順序はすべて一致しています」
「七か月たっても来なければ?」
今度は東街区の席だった。
カイはミラが作った失敗条件の紙を取った。
「地下水の変化が西部だけに留まった場合。蛾が一時的な風で移動した場合。壊れた標が精霊流を回廊へ導けない場合。古い記録にない遅れが生じる場合があります」
「それだけ外れる道がある話へ、食料と職人を出せと?」
「外れる条件が分かれば、途中で撤退を決められます」
自分の言葉に、カイはわずかに驚いた。
昨日までなら、失敗条件は反対派へ渡す刃だと思っていた。だが刃は、進む者を切るためだけにあるのではない。道を間違えたとき、結び目を断って引き返すためにも使える。
エドランが深井戸の報告板を持ち上げた。
「一方で、この数値は予測ではない。主深井戸の下段取水口は、現状なら二年、配水を絞っても三年で維持不能になる。ここまでは水利役所の確定報告だな」
「はい」
ミラが答えた。
水判官見習いとして証言台へ立つ彼女は、父の帳面ではなく、水利役所の印がある報告板だけを示した。
「ただし、タルサの水が戻っても、ヴァラドの深井戸がすぐ回復する保証はありません。雨路が再接続するまでの時間も、地下水が東へ届く量も未確認です」
「味方の話を補強しに来たのではないのか」
商人組合の席が皮肉を投げる。
「記録を補強しに来ました。カイの味方かどうかは議題ではありません」
ミラは顔色を変えなかった。
カイは、その答えに助けられたと感じた。同時に、少し腹も立った。どちらも口にはしない。
「提案を述べます」
カイは水路図の西端を指した。
「タルサへ先行隊を送ります。地下泉と受水庭を調査し、直せる箇所から応急修理する。水と安全を確認できしだい、希望者を追加で募り、家族と職人を移します。五か月目までに西の受水庭を開ける人数が必要です」
「追加で何人だ」
穀倉組合の席が聞いた。
「必要なだけ」
「食料も必要なだけ持っていくと?」
「水が戻れば、タルサ周辺の井戸も――」
「水はパンにならない」
言葉を切られた。
「今年の種を今から播いても、収穫は遠い。廃都へ百人送れば、百人分の穀物をここから運ぶ。さらに家族を呼べば、働けない子供と老人の分もだ。戻る保証のない雨を待って、ヴァラドの倉を先に空にするのか」
反論できる計算を、カイは持っていなかった。
彼が数えていたのは、水路を掘る手と運べる石の量だ。その手を毎日動かす穀物までは、穀倉組合ほど正確に見ていない。
石工組合の席が、古い水路図へ目を細めた。
「そもそも、直せるのか。旧帝国の線を紙でなぞるのと、二十三年埋まった水路を開くのは違う」
「それは私が答えよう」
傍聴人の前列から、ダリヤ・マレンが立った。
四十六歳の水利技師は、細かな石粉が染み込んだ長衣のまま証言台へ進んだ。礼のために着替えるより、作業場から直接来ることを選んだらしい。太い指には、新しい擦り傷がいくつもある。
ダリヤはカイの図面を一度も見なかった。自分で持ち込んだ、タルサ受水庭の古い断面図を卓上へ広げる。
「結論から言う。直せるかどうかは、今は分からない」
会堂の空気が重くなる。
「旧施設は魔法の箱じゃない。石樋、沈殿槽、地下水路、水門、越流溝の集まりだ。原理は分かる。だが崩落が一つなら四十人で直せても、主水路の天井が百歩落ちていれば都市一つの人手でも足りない」
「ならば反対か」
「調べずに決めることへ反対だ」
ダリヤは図面の三か所へ石片を置いた。
「三十日あれば、地下泉が生きているか、受水庭へ水を通す細い流路が残っているか、主水路の修復が人の手に負えるかまでは判定できる。安全な範囲の泥出しと、試験用の細水路なら作れるかもしれない。都市を復活させるとは言わない。復活できるか確かめる」
カイの提案から、未来の約束が一つずつ削られていく。
だが、代わりに輪郭が生まれていた。
何人を出すか。何日で戻るか。どこまでなら成功で、どこから先は次の決定にするか。
「タルサに今も人が住んでいた場合はどうする」
西街区の席が問うた。
「大半は廃墟と報告されているが、周辺の井戸集落まで無人とは限らない。『直した者が持つ』と言って、水源や住居を割り当てる気か」
「割り当てるのは誰だ」
東街区の席が重ねた。
「路守で、斥候隊長で、雨の戻る場所を知っている者が遠征隊長にもなる。人も水も土地も一人の判断へ集めれば、本人にそのつもりがなくても、タルサに新しい領主を作ることになる」
「領主になる気はない」
「気がないことと、できない仕組みは違う」
「働いた者に何も保証せず、誰が行く」
カイは答えた。
「住める家と工房は必要だ。修理した土地を使えるようにもする」
「使うことと、永く所有することは違う」
ミラが割って入った。
カイは振り向いた。
「水を見つけた者、直した者、先に住んでいた者。今ここで誰か一人の権利を永久に決めれば、残りを追い出す根拠になる。タルサの現状を確認するまで、土地、水源、水路、住居の恒久権利を凍結すべきです」
「凍結して、誰が作業を命じる」
「期限付きの遠征隊長。調査、警備、応急修理だけを命じる。移住と所有は命じない」
その言葉が、カイの胸へ引っかかった。
期限付き。
調査だけ。
彼が見ているのは、五か月後に開いていなければならない巨大な受水庭だ。ミラが示すのは、三十日後に返さなければならない権限だった。
「ネレイの問題もある」
商人組合の席が言った。
「ヴァラドからタルサへ荷車を送れば、必ずネレイを通る。宿、水、通行、護衛。向こうはすべてに値を付ける。こちらがタルサの水路を押さえると見れば、通過そのものを止めるかもしれん」
「だから少人数では足りない」
「軍に見える人数なら、なお悪い」
「武装なしで廃道を通れというのか」
声が重なり始めた。
エドランが木槌を二度鳴らした。
「条件をまとめる」
第一評議員は各席を見渡し、それからカイを見た。
「成人四十人。うち街道斥候十二人、残る二十八人は水利、石工、木工、農業、治療、輸送の実務者。期間は出発から三十日。目的はタルサの水、住居、安全の調査と、ダリヤが安全と認めた範囲の応急修理に限る」
一条件ごとに、書記が板へ刻む。
「家族、子供、高齢者は連れていかない。追加移住は、三十日後の報告を受けて改めて決める。土地、住居、工房、水源、水路の恒久権利は凍結する。タルサに残る住民がいれば、侵入者として排除せず、権利関係の当事者として記録する」
ミラが続けた。
「食料、水、資材、発見物、労働日数を毎日記録します。三日ごとに写しをヴァラドへ送り、帰還後は公開審査にかける。監査担当は遠征隊長の命令から独立させてください」
「監査が作業を止めるのか」
カイは聞いた。
「目的外の徴発、恒久権利の割当て、記録の拒否があれば止めます。工法と警備はあなたとダリヤの仕事です」
線が引かれた。
カイが決められることと、決められないことの間に。
この条件では、三十日でタルサを都市に戻すことはできない。家族を呼ぶことも、修理した家を褒美として渡すこともできない。最短五か月という期限だけを見れば、遅すぎるように思えた。
だが無制限の案は、穀物も権利も責任も、すべて「必要なだけ」という言葉の中へ押し込んでいた。その言葉で安心できるのは、決める側にいるカイだけだ。
「受け入れるか」
エドランが問うた。
カイは七席を見た。
信じてくれ、と言うだけなら簡単だった。失敗すれば自分が責任を負う、と続けることもできる。だがカイが死んでも、食べた穀物は戻らず、決めてしまった土地の権利は争いを残す。
「受け入れます」
口にすると、敗北より重いものが胸へ収まった。
「四十人、三十日。目的は調査と応急修理。恒久権利を決めず、記録と監査を受ける。それでタルサへ行きます」
エドランが採決を命じた。
七席はそれぞれの印板を、賛成か反対の布へ置く。初めの六席は、三対三に分かれた。
最後にエドランが、自分の印板を賛成へ置いた。
「四対三。条件付き遠征を承認する」
会堂の空気が一度に動いた。
安堵、舌打ち、相談の声。カイはどれにも応えず、公の水鉢の前で承認条件へ署名した。父の帳面ではなく、自分の名を記す。
*
会堂を出たときには、太陽が中庭の半分を焼いていた。
階段下で、書記から最初の志願者名簿を渡される。斥候十二人の名は既にそろっていた。残る欄には、水利、石工、木工、農業、治療、輸送へ必要な人数だけが割り振られ、名前の枠は空いている。
カイは上から確かめ、最後の一枠だけに書かれた名で手を止めた。
ミラ・アディール。
振り返ると、本人が会堂の柱にもたれていた。
「監査担当は、遠征隊長の命令から独立するんじゃなかったのか」
「だから一緒に行くの」
「俺を信用していない?」
「あなたの証拠ではなく、結果を監査する」
ミラはそう言い、名簿の空欄を指した。
「あと二十七人。三十日を無駄にしたくないなら、今日中に選び始めて」
カイは名簿を折らなかった。
四十人という数字が、初めて四十人の顔を持ち始めていた。




