第二話 父の帳面は答えない
本日は3話投稿予定です。
次は19:00更新となります。
ミラ・アディールは、夜明け前の井戸で水を汲ませなかった。
「先に触らないで」
馬から降りたカイへそう言うと、彼女は第三観測井の周りを一周した。
東の空はまだ灰色で、石の輪郭だけが薄闇に浮かんでいる。夜の冷気は残っていたが、地平の下ではもう日差しが身構えているようだった。あと半刻もすれば、土も測器も人の考えも熱に乱される。
ミラは頭布の端を肩へ払い、井戸縁の砂を細い刷毛で除いた。現れた基準溝へ測り綱を当て、結び目がずれていないか両端から確かめる。腰の革鞄から巡察簿と白紙を出し、別々の板へ留めた。
「一度目はあなたの帳面を見ないで測る。二度目に照らす。異論は?」
「ない」
「昨夜はあった顔をしていたけど」
カイは答えず、父の帳面を入れた革袋を肩から外した。
昨夜、水利役所の戸を叩いたとき、水判官見習いのミラはまだ仕事をしていた。西門の配水記録と、空だった二つの水鉢への補給命令を突き合わせていたのだ。カイが硝子羽の蛾を入れた網箱を見せても、彼女は雨という言葉を使わなかった。
代わりに、採水した時刻、銅皿の大きさ、秤の分銅、風向、蛾を見つけた順番を尋ねた。
その面倒さが必要だった。
同じ都市で働いていれば、互いの名と役目は知る。カイは、水を多く求める者の声に押されず記録を読み上げる彼女を、何度か配水審理で見ていた。親しく話したことはほとんどない。それでも、父の帳面を最初に見せる相手には、慰めてくれる者より、数字が違えば違うと言う者を選びたかった。
「測り綱を下ろします」
ミラが宣言し、同行した斥候の一人に時刻を書かせた。
鉛錘が暗い井戸へ消える。結び目が細い指の間を滑り、やがて底から水音が返った。
ミラは手を止め、その位置を読み上げた。もう一人の斥候が復唱する。綱を上げ、基準溝を変えずにもう一度。二度目も同じだった。
「先月より上がっている」
「どのくらいだ」
「今は言わない。あなたの値を先に書いて」
カイは自分の巡察簿へ、第一、第二観測井から割り出した予測値を書いた。紙を伏せる。ミラの測定板と並べると、差は結び目の半分にも満たなかった。
次に、採水筒を二本下ろした。片方をミラ、片方をカイが扱う。同じ目盛りまで銅皿へ注ぎ、二つの携帯炉へ載せた。
水が煮える間、ミラは細い測量棒を井戸脇に立てた。棒の上端に結んだ白と赤の布が、どちらも東へ伸びる。
「西風。強さは?」
「昨夜より弱い」
「弱い、では記録にならない」
彼女は砂時計を返し、決めた時間に布の先が測量棒の横線を何度越えたか数えた。カイにも同じことをさせた。風は目に見えない。だからこそ、二人が別々に見ても同じ値になる形へ変えるのだ。
井戸の石垣が明るくなるにつれ、硝子羽の蛾が現れた。
最初の一匹は水面近くの暗がりから上がり、迎雨標の溝にとまった。次の二匹は西から飛んできた。透明な羽の縁が、まだ低い朝日を銀色に返す。
ミラは声を上げなかった。一定の時間ごとに、西から入った数、井戸から上がった数、去った方角を分けて記した。カイが昨日捕らえた一匹も網箱から出し、羽脈と大きさを確かめてから放した。
銅皿の水が消えた。
二人は残留物をそれぞれ量った。先月の記録より軽く、父の帳面から割り出した範囲には収まっている。飲用にはまだ適さない。だが第三観測井でも、水位は上がり、塩は退いていた。
「最後に、あなたの分ね」
ミラが井戸縁から離れた。
カイは右手を、六つの溝が集まる鉢の刻印へ置いた。
冷たい石の奥に意識を沈める。
初めは何もなかった。斥候が馬をなだめる声も、器具を片づける音も遠ざけ、ただ掌の下を探る。
やがて、低い震えが来た。
昨日より細く、それでも途切れてはいない。西から第二の井戸を抜け、この第三の標へ届き、さらに東へ道を探っている。どこまで続くかは分からない。流れの主が何を望むかも分からない。
ただ、大きな精霊流が近づいている。
カイは目を開けた。
「来た」
「何が分かった?」
「反響が西からここまでつながった。方向は東。昨日の第二井より弱い」
「それだけ?」
「それだけだ」
ミラはその答えを、そのまま書いた。雨、大精霊、帰還という言葉を勝手に足さなかった。
すべての測定が終わってから、カイは父の帳面を開いた。
石の上へ布を敷き、第一観測井から今朝までの記録を並べる。ミラは父の文字とカイの巡察簿を交互に読み、時折、指で日数を数えた。
「順番は合っている」
彼女は言った。
「三つの井戸で水位が上がって、塩が減った。蛾も西から移っている。反響も同じ。偶然が三種類、同じ順で重なる可能性は低い」
「なら、半年後だ」
「違う」
即座に返された。
ミラは父の帳面の余白を指した。帝国以前の路守が残した複数の観測例。そのうち最短では、第三井戸の変化から大雨まで五か月余り。最長は七か月近い。間に残る例も、同じ日数ではなかった。
「五か月から七か月」
「その真ん中が半年だ」
「真ん中は約束じゃない」
「評議会で五か月かもしれない、七か月かもしれないと言えば、誰も動かない」
「半年後に来ると言えば、六か月目の同じ日に人を危険な場所へ置く」
カイは口を閉じた。
まだ遠征の人員も、工事の内容も決まっていない。カイはようやく、ミラが数字の先に何を数えているか理解した。曖昧な言い方が、いずれ誰かの立つ場所を決めるのだ。
「失敗する条件もある」
ミラは白紙の一段を空け、項目を分けた。
地下水の変化が回廊全体でなく、この地域だけに留まる場合。硝子羽の蛾が季節外れの西風に運ばれただけの場合。壊れた里程標が精霊流を途中で見失う場合。古い記録にない遅れが起こる場合。
「全部が同時に起きるとは思わない。でも、起きないと確かめてもいない」
「その一覧を最初に出せば、反対する理由だけを渡すことになる」
「賛成させるために測ったの?」
「間に合わせるためだ」
声が強くなった。
井戸屋の外で斥候たちが動きを止める気配がした。カイは息を吐き、声を落とした。
「タルサを見ろ」
父の帳面に挟まれた古い水路図を開く。
回廊の西端。廃都タルサの地下には、雲生み山地から押し出された水が最初に溜まる泉がある。六都市の受水庭は、そこから東へ連なる。父は西端の頁へ、短い注記を残していた。
――西の鉢を人が開かなければ、雨路は南へ折れる。
大精霊は人の都を救うために戻るのではない。壊れた受水庭も、埋まった水路も、人の事情として待ってはくれない。タルサの器を開けなければ、雲と水の流れは回廊へ入らず、南の荒地へ逸れる。
「五か月なら、もう時間がない」
カイは言った。
「七か月でも、廃都の水路を調べて直すには短い。評議会が幅の話だけで止まれば、全部失う」
ミラは水路図を見下ろしていた。やがて、手を差し出した。
「第一井戸から全部見せて」
「今見ている」
「写した数字だけじゃない。元の巡察簿、蛾を見なかった日、測れなかった日、壊れた標、あなたが反響を感じなかった日も。空白まで全部」
うまくいった記録だけでは足りない。彼女はそう言っている。
カイは革袋の底から、綴じ紐でまとめた紙を出した。雨に関係がないと思って除いていた巡察記録も、崩れた橋のため回れなかった日の報告もあった。父の帳面も閉じずに渡す。
ミラは受け取り、一枚目から読み始めた。
そこまで見せれば、彼女はカイと同じ材料を持つ。違う結論へ進むこともできる。
その不安を押し込めるように、カイは言った。
「記録は全部見せる。ただし、評議会へどう伝えるかは俺が決める」
ミラの指が止まった。
「あなたの発見だから?」
「路守として報告するのは俺だ」
「報告する人が、幅を消していい理由にはならない」
「消すとは言っていない」
「では、残すと約束して」
カイは答えなかった。
ミラは追及しなかった。ただ父の帳面と、黙ったカイを順に見た。その目に同情はなかった。警戒だけが、測量線のようにまっすぐ引かれていた。
*
ヴァラドの西門へ戻ると、水利役所の使いが待っていた。
馬から降りるより先に、封をした報告板をミラへ差し出す。深井戸の朝の測定値だった。
ミラが封泥を割り、数列を追う。歩きながら読んでいた足が止まった。
「何だ」
彼女は板をカイへ渡した。
ヴァラドを支える主深井戸の水位が、前年の同じ時期より大きく下がっていた。補助井戸も二本が弱り、汲み上げ量を保つため、より深い層へ綱を延ばしている。
末尾には、水利役所の試算があった。
現在の配水を続け、次の二年も前年並みの乾き方をすれば、二年後には下段取水口を維持できない。配水をさらに絞っても、三年が限界。
五か月か、七か月か。
その幅を争っている間にも、故郷の水は確かな速さで減っていた。
「評議会に出す」
カイは報告板を返した。
「どちらを?」
「全部だ」
答えてから、父の帳面を入れた革袋へ手を置く。
「ただし、話すのは俺だ」
ミラは頷かなかった。
城門の向こうでは、朝の配水を知らせる鐘が鳴り始めていた。




