第一話 乾いた井戸の雨音
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乾いた井戸の底から、雨の音がした。
頭上には雲ひとつなかった。白く灼けた空が、崩れかけた井戸屋根の隙間から覗いている。街道の向こうでは、風に剥がされた土が薄煙のように流れていた。
カイは井戸縁へ置いた右手を動かさず、息を止めた。
石の奥で、低い響きがもう一度うねった。水滴の軽い音ではない。遠い地下水路へ大量の水を流したときのような、重く、長い震えだった。それは西から来て、掌の下を通り、東へ消えた。
路の反響。
耳で聞いたのではない。手を離せば、たちまち失われる感覚だ。
「何かあったか」
背後からバシュが尋ねた。
カイはまだ答えなかった。井戸の外輪石には、六つの浅い溝が一つの鉢へ落ち込む古い刻印がある。砂と風に削られ、今では意味を知る者も少ない迎雨標の印だった。その上へ指をずらす。
もう響きは返らない。
分かったのは、大きな精霊の流れが西にあり、古い標同士のどこかが一瞬つながったということだけだ。何が来るのか。誰が通ったのか。それが味方か敵か。路は何も教えない。
だから、井戸屋の裏で小石が鳴ったとき、カイは反響ではなく自分の耳でそちらを向いた。
バシュの手が腰の曲刀へ下りる。カイは指を二本立て、抜くなと命じた。
崩れた日陰壁の向こうに、女と子供がいた。
女は細い綱を両手に巻きつけ、井戸へ垂らしている。埃に染まった長衣の裾から、擦り切れた旅靴が見えた。傍らの男の子は七つか八つほどだろう。頭巾の下の顔が熱に赤く、唇だけが白く乾いていた。
井戸を封じていた赤い縄は切られていない。結び目を苦労して外し、脇へ置いてある。女は警告を知らなかったのではない。飲用禁止を示す、ひび割れた鉢の印も、井戸縁に深く刻まれていた。
「その水は飲めない」
女の肩が跳ねた。
綱から片手を離し、子供を背へかばう。武器は持っていなかった。代わりに、細く骨張った手が綱をいっそう強く握った。
「罰なら、わたしに」
声は掠れていた。
「水を飲む前に死ぬよりはましです」
「罰の話はしていない。底の水は塩と泥が多い。熱のある子に飲ませれば、余計に渇く」
「昨日の夕方から、一滴も飲んでいません」
バシュが黙ってカイを見た。ヴァラドまで戻る分を考えれば、斥候の水にも余りはない。そのことを確かめる視線だった。
カイは腰の水筒を外した。栓を開け、革袋の口から公用の木椀へ水を注ぐ。椀の底が隠れたところで一度止め、さらに親指の幅だけ足した。
「一気に飲ませるな。口を濡らして、少し待て」
女は椀を受け取ろうとしなかった。
「払えるものはありません」
「巡察用の公用水だ。売っているんじゃない」
それでも動かない女の前で、カイは子供の高さまで膝を折った。
「飲めるか」
男の子は母親を見上げた。女がようやく頷く。子供は両手で椀を持ち、最初のひと口を舌の上へ乗せるように飲んだ。喉が動く。それを見ただけで、カイ自身の口の中まで急に乾いた。
女は子供が残した水を飲もうとせず、椀へ布をかぶせた。次に熱が上がったときのために残すつもりなのだろう。
「どこから来た」
「西の小村です。井戸が苦くなって、三日前に出ました。道の水鉢は二つとも空でした」
カイは返事を飲み込んだ。空の公の鉢は、道を守る側の不始末だ。女が封を破った事実だけを切り取れば罪にできる。だが、その前に破られている約束がある。
「この井戸の水を見たのは今日が初めてか」
「はい。けれど、聞いていたほど臭くなかった。桶も、思ったより深く落ちなかったんです」
カイは井戸を振り返った。
「バシュ。測り綱を」
「巡察簿では、ここは先月と同じだ」
「先月のままなら、桶はもっと落ちる」
バシュは眉を寄せたが、荷鞍から麻綱と鉛錘を出した。
ここはヴァラド西方、旧街道沿いの第二観測井だった。もとは旅人と家畜に水を与えた井戸だが、帝国が崩れてから塩が濃くなり、今では飲用を禁じられている。それでも路守は封を確かめ、水位と水質を測ってきた。役に立たない井戸ほど、変化を見落とすと手遅れになる――父はそう言っていた。
カイは鉛錘を井戸へ下ろした。
結び目を一つ、二つ、三つと指の間へ送る。暗い底から、ぽちゃん、と小さな音が上がった。
手が止まる。
前回の記録より、結び目二つ分も早い。
綱を引き上げると、鉛錘の上まで濡れていた。水位の上昇だけなら珍しくはない。離れた場所で降った雨が、何週間もかけて地下へ染みることはある。地層が崩れ、一時的に水を押し上げることもある。
カイは二度測った。井戸縁の基準溝へ綱を合わせ、バシュにも読み取らせる。二度とも同じ位置で錘が水を打った。
「上がっているな」
「水位だけだ」
自分へ言い聞かせるように答え、採水筒を下ろした。
汲み上げた水は薄く濁っていた。腐臭はない。カイは指先につけた一滴を舐めたい衝動を抑えた。渇いた場所では、味見という近道が人を殺す。
決まった量を小さな銅皿へ移し、携帯炉の炭火にかける。水が消えるまでの間に、採水時刻、風向、井戸縁から水面までの綱目を巡察簿へ書いた。文字を持たない熱風が、紙をめくろうと何度も指の間へ入り込んだ。
やがて銅皿の底へ白い跡が残った。
カイは小秤を組み、塩の残りを量った。先月の値より明らかに軽い。飲める水にはまだ遠い。それでも、第一観測井で数週間前に始まった変化と同じだった。
水位が上がり、塩が退く。
西から、順に。
「羽が光ってる」
男の子の声がした。
熱でぼんやりしていた目が、井戸屋根の裏を追っている。
カイは顔を上げた。
一匹の蛾が、梁の影にとまっていた。
閉じた羽は爪ほどの大きさしかない。だが陽を受けた縁だけが、磨いた硝子のように透き通っている。羽脈を走る銀色の筋が、呼吸に合わせて明滅した。
もう一匹が、井戸の内壁から上がってきた。さらに一匹。湿った石の継ぎ目を探り、細い口吻を差し入れている。
硝子羽の蛾。
カイは生きた姿を初めて見た。旧い挿絵なら知っている。湿気と小精霊の流れを追い、かつては巡雨期の前に西から渡ってきたという。二十三年前を最後に、回廊では見られなくなった虫だ。
「珍しい虫か」
バシュの声が低くなった。
カイは数を数えた。見える範囲で七匹。時刻と場所を書き、うち一匹を傷つけないよう網箱へ移す。証拠は、驚きより先に記録しなければならない。それも父から教わった。
水位。塩。蛾。そして、さきほど西から届いた反響。
三つが揃った。
だが、まだ第二の井戸だ。
「雨が来るのか」
女が尋ねた。
その言葉に、男の子まで顔を上げた。バシュも黙ったままカイを見ている。ひと言、戻る、と告げれば、この場にいる全員の顔は明るくなるだろう。ヴァラドへ帰るまでに噂となり、夕刻には門前の水汲み列へ届く。明日には、残り少ない穀物を売る者と買い占める者が現れる。
そして外れれば、今より多くの人間を渇かせる。
「分からない」
期待がしぼむのを見ながら、カイは言った。
「ここで分かったのは、水が上がり、塩が減ったことだけだ。この虫が西から来たのかも確かめる。雨の話にするのは、その後だ」
女は落胆を隠さなかった。それでも、子供の椀を抱いて頷いた。
カイは封鎖縄を結び直し、自分の印を添えた。女が解いたことも、空の水鉢からここへ追い込まれたことも、両方を巡察簿へ書く。片方だけを書けば、次に井戸を調べる者は間違った罰を与える。
「二人はヴァラドまで連れていく。残りの公用水は帰路で分ける。今日見るはずだった南の橋は後日だ」
バシュが井戸と網箱を見比べた。
「巡察を変えるのか」
「父の帳面を確かめる」
口にしただけで、胸の奥に乾いた痛みが走った。
父の遺品は、受け取った日から路守詰所の箱へしまったままだった。必要な巡察表だけは写した。だが最後の旅の頁には触れていない。
先代路守は、帰還の兆候を一人で確かめに出た。砂嵐の三日後、崩れた石壁の下から遺体と帳面が見つかった。誰にも行き先を告げず、危険を自分だけで背負った結果だった。
カイは父と違うつもりでいた。
それでも今、三つの兆候を斥候へ説明せず、まず自分で帳面を読むと決めている。
その矛盾を、まだ弱さとは呼べなかった。
*
ヴァラドへ戻った頃には、城壁の上から日が半分落ちていた。
西門の公の鉢には夕刻の配水を待つ列ができ、空の壺を抱えた人々の影が石畳を横切っていた。カイは親子を門番へ預け、子供を治療所へ運ぶよう頼んだ。封鎖井の件は自分の巡察記録として扱うとも伝えた。
路守詰所へ入り、戸を閉める。
机の下の木箱を引き出すと、錠前には薄く砂が積もっていた。
鍵を二度取り落とした。
箱の中には、油布に包んだ革表紙の帳面が一冊だけ入っている。角は潰れ、背には乾いた泥が染みついていた。カイは布をほどき、最初の頁ではなく、父が帝国以前の路守記録を書き写した箇所を開いた。
井戸の水位。残留した塩。風向。虫と鳥。小精霊の痕跡。里程標の反響。
同じ場所で、同じ時刻に、同じ手順で測ること。
結論ではなく、確かめ方だけが、癖の強い父の文字で並んでいた。
カイは今日の巡察簿を横へ置き、第一観測井の数週間分と、第二観測井の値を一つずつ照らし合わせた。
水位が上がった順。
塩が退いた間隔。
硝子羽の蛾が現れた時期。
西から東へ移った反響。
最初の二地点まで、すべてが一致していた。
偶然という言葉が、急に頼りなくなる。
頁の下には、第三観測井の欄があった。父の線は途中で止まり、測定値は空白のままだ。その余白には、古い記録に残る地点間隔と、「第三井は夜明け前に測る」という注記だけがある。
明朝、日の出前。
古い記録と同じ間隔で第三の井戸を測れるのは、そこしかない。
カイは帳面を閉じなかった。
乾いた部屋の静けさの中で、掌だけが、まだ遠い雨の音を覚えていた。




