第25話 敵にも水を
戦いが終わった朝、井戸へ向かう足音が増えた。
辺境伯軍の兵たちは、隊列を作っていなかった。
剣を持つ者。盾を捨てた者。負傷した仲間を外套へ乗せ、四人で運ぶ者。軍馬の手綱を引く者。泥まみれの人影が、西と南の丘から、ネレイの城門と三つの街道井戸へ集まってくる。
指揮官を失っても、渇きは止まらない。
三都市側の兵は、井戸の前へ槍列を作った。
受水門の戦いから戻ったばかりの者たちだった。隣に立っていた仲間を失い、鎧へその血を残している。向かってくる敵の中には、同じ雨の下で剣を振った顔もある。
「門を閉じろ」
アシムと同じ隊にいた兵が言った。
「鉢も井戸も閉じればいい。昼までに、向こうから武器を捨てる」
「井戸を開けたままなら、飲んでまた戦う」
別の村兵も続いた。
「俺たちの食料は三十日分も残っていない。捕虜まで養うのか」
間違った心配ではなかった。
街道井戸の水量は、二千人近い敵兵と軍馬へ無制限に与えられない。食料はさらに足りない。雨が降っても、今日の麦袋は増えない。
それでも、公の鉢を閉ざしたハリムを昨夜捕らえたばかりだった。
敵に対してなら閉ざしてよいと決めれば、次に誰を敵と呼ぶかで最低水量が変わる。
「武器を持ったままの者には、渡さない」
カイは井戸へ崩れてくる敵兵の列を見た。
「井戸の手前に武装解除線を置く。剣、弓、槍、盾を置いた者だけ、一人分を受け取る。負傷者は所属より先に治療する」
「それで降伏しなければ」
「水を渡す条件と、渡せる量を見せる。選ぶのは向こうだ」
「アシムを殺した奴にもか」
問いを受けたカイは、すぐには答えられなかった。
アシムの鉢は、炊事場に空いたまま残っている。
「殺した本人だと証拠があり、降伏後に捕らえたなら、審理へ送る」
カイは言った。
「それでも、審理までの水は渡す」
*
降伏条件は、カイとミラが別々に書き、合同戦時評議会で一行ずつ読んだ。
一、辺境伯軍は集団として戦闘を停止し、武器、軍馬、荷車、軍需物資を指定場所へ引き渡す。
二、将校は部隊名簿と命令書を提出する。上級将校は捕虜として拘留する。
三、井戸汚染、住民追放、略奪、放火、内通への直接関与が疑われる者は、個人ごとに記録して公開審理へ送る。所属部隊だけを理由に全員を同じ罪へ問わない。
四、一般兵には、武装解除後、住民と同じ最低飲用量、負傷に応じた治療、登録後の段階帰還を保証する。
五、帰還時は王国境までの水と最低食料を持たせ、三都市・十一村への再武装侵入をしない誓約を取る。捕虜を奴隷、強制移住者、カイ個人の兵にしない。
「一般兵を帰せば、また王国軍になる」
西村地区の代表が言った。
「ここへ置けば、一日ごとに食料を使う」
ミラが答えた。
「家族も仕事もない土地へ千人を残せば、武器を取り上げても略奪が始まります」
「王国は、辺境伯の独断だと言って切り捨てるかもしれない」
「なら、一般兵を返すことは、王国と辺境伯の責任を分ける証拠にもなります」
ラウゼル公国の観戦使節とザレーンの商人保護官は、傍聴席にいた。
発言権はない。だが、条件文、反対意見、採決をすべて記録している。
「敵にも同じ最低水量を使うことを、外国に見せたいのか」
ネレイ代表がカイへ尋ねた。
「見せるために決めるんじゃない」
「だが、見られている」
「だから、見られなくなった後も使える文にする」
条件は六席中五席で承認された。
反対した西村代表も、決定文へ反対理由を残し、執行妨害はしないと署名した。
決めた文を実行するため、三つの井戸を同じ形へ組み替えた。
外側に武器を置く線。その内側に登録台。さらに槍二本分を空けて配水台。飲み終えた者が列へ戻らないよう、出口は別の道へ取る。治療天幕は武装解除線の外にも一つ置き、歩けない者だけは武器の有無を確かめる前に運べるようにした。
敵が一度に押し寄せれば、槍列では止められない。
ミラは井戸ごとの現在水量と一刻あたりの汲上げ量を測り、最低量を何人へ渡せるか板へ書いた。雨水は飲用槽へ直接入れず、沈殿と煮沸へ回す。軍馬の分を人と同じ列へ混ぜれば、昼までに水場が踏み荒らされるため、引渡し後に別の浅槽へ誘導する。
「数字まで見せたら、足りないと知って奪いに来る」
守備兵が言った。
「隠せば、先着だけでなくなると信じて押し寄せます」
ミラは板を井戸の外側へ向けた。
全員を満足させる量ではない。だが、誰まで渡し、いつ次の桶が上がるかは、敵にも味方にも同じ文字で見えた。
*
白旗を持つ使者へ、最初の水を一袋渡した。
空の袋で降伏を勧めれば、罠だと思われる。満杯の水を渡せば、条件が実行できる証拠になる。
使者は、辺境伯軍の副将が集めた残存部隊へ向かった。
返答は一刻後に来た。
副将本人が、将校四人と白旗の下へ出た。兜と剣は持っていない。
「辺境伯閣下の遺体を確認したい」
最初の要求だった。
カイは受水門へ案内した。
セヴランの遺体は、濡れた外套の下に安置されていた。印章、長剣、鎧、傷、発見時刻、立会人の記録が添えられている。
副将は片膝をつき、目を閉じた。
「首を晒さなかったのか」
「死体を壊しても、したことの証拠にはならない」
「我々を帰すというのも、同じ理由か」
「千五百人を渇かせて死なせても、井戸を汚した命令者は分からない。武器と名簿を出せ。命令した者と従った者、拒んだ者を分ける」
副将は条件書を読んだ。
「一般兵を段階帰還。将校は拘留。犯罪関与者は審理」
「そうだ」
「降伏した全員へ水を出せるのか」
「最低量だけだ。洗身も家畜の全量も無理だ。負傷者は治療分を加える。軍馬は引き渡し後、こちらの管理で生かすか、戻せないものは苦痛を長引かせない」
「食料は」
「今日と登録期間の最低分。帰還隊ごとに国境までの分を渡す。長く捕虜になりたい者はいないはずだ」
副将は、井戸へ集まる自軍を見た。
その視線の先で、指揮系統が壊れているのはカイにも見えた。今ここで降伏を拒めば、各部隊は別々に水場を襲うだろう。三都市軍は井戸を守って戦い、さらに死者が増える。
「辺境伯閣下は、降伏を拒んだ」
「聞いた」
「私が命じれば、反逆と呼ぶ者もいる」
「死んだ指揮官の最後の選択を、生きている全員へ強制するのか」
副将は長く黙った。
「兵を集める。一刻くれ」
「一刻後も条件は変えない」
*
降伏は、街道の上で行われた。
西から来た部隊、南へ散った騎兵、本営に残った負傷者。各部隊が、名と所属を告げ、武器を地面へ並べる。
槍は十本ずつ縄で束ねた。剣は持ち主の名札を付けた。弓弦を外し、矢を別の車へ積む。軍馬と荷車は、双方の係が数えて二つの帳面へ記した。
武装解除線の先に、水の列を作った。
住民用と同じ大きさの鉢を使い、一人に同じ量を渡す。将校も一般兵も、列を変えない。傷の重い者だけ、治療係が別へ運んだ。
昨日まで敵だった兵が鉢を受け取り、両手で飲んだ。
最初の百人が通る間に、三度、列が止まった。
一度目は、外套の下へ短剣を隠した兵がいた。見つけた三都市兵は柄へ手を掛けたが、男が自分で短剣を地面へ置くまで待った。登録札に違反を書き、列の最後へ回した。
二度目は、負傷兵を運ぶ仲間が水を先に寄越せと配水台へ踏み込んだ。治療役が傷を見て、飲用ではなく洗浄と熱冷ましの量を別桶から出した。
三度目は、ケルマ村の男が敵兵の顔を知っていると叫んだ。
「北倉へ火を投げた」
敵兵は否定した。男は鉢を持つ手を掴み、水が半分こぼれた。
カイは二人の間へ入り、敵兵の所属、ケルマにいた日、火傷の痕、同じ隊の証言者をその場で記録させた。嫌疑札を付け、一般帰還列から審理列へ移す。
「今ここで聞けば分かる!」
村の男は拳を上げた。
「今ここで殴れば、殴ったことしか残らない」
カイは、こぼれた分と同じだけ水を敵兵の鉢へ足した。
ケルマの男は背を向けた。それでも配水役の持ち場を離れなかった。
水を配る側には、ケルマ村の者も、セダル村の者もいた。泣く者、顔を背ける者、鉢を投げたいと呟く者もいた。それでも、決めた量を減らさなかった。
外国使節の記録官は、井戸の石へ腰を下ろし、配水量、順番、負傷者の扱いを書き続けていた。
夕方までの集計で、捕虜は約千五百七十人。
そのうち、負傷して動けない者が約三百二十人。無傷か軽傷で降伏した者が約千二百五十人。
西峠や南の荒地へ退却・逃亡した者は約七百五十人。
戦死者約百八十人を合わせると、侵攻した二千五百人の行方が帳面の上で初めて閉じた。
数字の一つひとつに、名前が追いつくのはこれからだった。
*
雨は一日中、降り続いた。
夕暮れ、雲の奥で何かが動いた。
初めは、黒い雲がさらに重なったように見えた。
やがて地平から地平へ、長い輪郭が伸びた。鯨の背にも、空を泳ぐ蛇の胴にも見える。頭と思った場所は次の稲光で尾になり、ひれに見えた乳白色の水脈は、雲の内側へ溶けた。
誰かが大精霊の名を叫んだ。
影は答えなかった。
人の戦いも、降伏も、井戸の列も見ていないように、西から東へ進んだ。
タルサの迎雨標が低く鳴る。
次にネレイ。
最後にヴァラド。
修理した受水庭へ雨が入り、地下槽へ落ちる。初水は汚れた溝を洗い、沈泥穴へ流された。その後の水だけが、空だった槽を満たし始める。
兵も住民も、捕虜も、同じ空を見上げていた。
跪く者がいた。
古い祈りの句を忘れ、同じ一節を繰り返す老人がいた。幼い者は、雲の影よりも初めて頬へ落ちる雨を追った。捕虜の一人は北方の守護聖人の印を切り、隣のネレイ人は六つの溝を指でなぞった。
どの祈りにも、影は近づかなかった。
勝者の旗の上で止まりもせず、セヴランの遺体を避けもせず、捕虜の列を祝福もしない。
人が水をどう分けたかを褒めるために戻ったのではなかった。
だからこそ、次に鉢を閉じるか開くかを、大精霊の答えへ預けることはできない。
カイは奇跡だと思った。
同時に、共同倉庫の残り日数を思った。
満ちた貯水槽から、今年の麦は生えない。焼けた種籾は戻らない。壊れた家も、失った四十五人も戻らない。
雨の帰還は、復興の終わりではない。
ようやく、始められるということだった。
*
勝利の翌朝、合同戦時評議会は最初の議題を掲げた。
戦勝祝賀ではなかった。
予備水路を権限なく開いたミラ。
過去の井戸封鎖を告白したバシュ。
組合決裁なしに私財と信用を動かしたナディア。
敵へ門と水路を売ったハリム。
予測幅を隠し、監督条件付きで指揮を続けたカイ。
敗者を裁く前に、勝った側が使った権限と失敗を、同じ卓へ載せることになった。




