第24話 受水門
雨は、鎧の重さを倍にした。
ネレイの西から街道井戸まで、七百五十人は一つの戦場で戦っていなかった。
西の水荷駄路では、村兵が敵の荷車を谷へ入れずに止めている。南では、分かれた騎兵を槍列が乾いた丘へ押し返す。ネレイの城壁では、敵前衛を退けた警備隊が、もう一度通用門を閉ざしていた。
粘土低地では、辺境伯軍本隊が泥の中で三つに裂けていた。
命令は角笛で届く。
雨音に消え、一本目と二本目が重なる。伝令馬は蹄を取られ、荷車は車軸まで傾く。兵はまだ多い。三都市側の三倍以上いる。それでも、同じ方向へ動けない数は力にならなかった。
三都市軍にも、全体を見ている者はいなかった。
西では西村地区の角笛、南ではヴァラド式の太鼓、城壁ではネレイの鐘を使う。同じ一度でも、進め、退け、門を閉じろと意味が違う。合図表を腕へ巻いていても、泥と雨で文字は滲んだ。
伝令は命令だけでなく、時刻と見た範囲を口で伝えた。
「南の槍列、半刻前は維持。右端は丘裏で未確認」
「西の荷駄二列停止。三列目は北へ迂回、現在位置不明」
分からない場所を、勝っていることにはしなかった。
カイの百二十人は、受水門の東側へ半円を作った。
弩兵が点検橋を押さえ、槍兵が暗渠口を守る。ダリヤと工兵は門の流量を十五分ごとに変え、味方の足元へ水が回りすぎないよう分水板を調整していた。
「東路、敵歩兵およそ二百!」
斥候アシムが、雨の中から戻った。頬に浅い切り傷がある。
「近衛は五十。狼旗と銀帯。残りは本営から逃げた連中です」
「西の連絡は」
「切れたまま。南騎兵も戻れてません」
敵は三つに分かれたまま、受水門へ来るのは一群だけだ。
それでも二百五十対百二十。
「点検橋の手前で止める」
カイは言った。
「泥へ押すな。北の硬い道を空けておけ。武器を捨てた者はそこへ出す」
アシムは命令を復唱し、自分の位置へ走った。
*
セヴラン辺境伯は、馬を捨てて来た。
黒馬は泥へ脚を取られ、従者が後ろで引いている。辺境伯自身は札鎧の上に濡れた狼外套を着け、長剣を抜いていた。兜の下から流れるのが雨か血か、遠目には分からない。
近衛は盾を重ね、東の点検橋へ進んだ。
「門を取れ!」
セヴランの声は、雨の中でも届いた。
「水を北へ戻せ。本営を硬い道へ上げる!」
受水門を閉じれば、粘土低地への流れは止まる。
北の分水板を開けば、敵荷車が逃げようとしている道の泥も薄くなる。辺境伯にとって、門は退路を作る装置だった。
敵近衛の最初の突撃が、点検橋の入口へ当たった。
盾と槍がぶつかる。
アシムの列は三歩下がり、四歩目で止まった。橋は二人並ぶ幅しかない。敵が横へ広がれず、後ろの兵は前の背を押すだけになる。
カイは弩兵へ合図した。
狙うのは先頭の胸ではなく、盾の下の脚だった。二人が倒れ、後続が詰まる。敵は死傷者を引き、すぐ別の二人を出した。
二度目。
三度目。
橋板は血と泥で滑り、倒れた者を引くたび列が一人分薄くなった。後列は負傷者の帯を腕へ巻き、どちら側から降ろしたかを救護役へ叫ぶ。名前を聞く余裕がない者には、盾の印と見つけた位置だけを板へ刻んだ。
弩兵は濡れた弦を二射ごとに替えた。外した弦を外套の内側へ入れ、体温で乾かす。矢筒の底には雨が溜まり、羽根を指でしごかなければ真っ直ぐ飛ばない。
工兵の一人が、戦列へ背を向けたまま分水板を動かし続けていた。すぐ後ろで人が倒れても振り返らない。水位を一目盛り誤れば、橋を守る全員の足場が変わる。
ここでは、敵へ槍を向けない仕事も戦列だった。
セヴランは兵を休ませなかった。
こちらも休めない。
アシムの隣にいた槍兵が喉を射られた。後列が穴を埋める。敵の剣が盾縁を越え、アシムの肩へ入った。それでも彼は橋を空けず、折れた槍を敵の膝へ押し込んだ。
「交代!」
カイが叫ぶ。
「まだ立てる!」
「立てるうちに下がれ!」
現場責任者は命令を変えられる。
アシム自身が後列へ交代を命じ、血の付いた盾を次の兵へ渡した。
*
敵陣の中央から、白い布が上がった。
長い槍へ、濡れた下衣を結んでいる。辺境伯軍の副将らしい男が、近衛二人と前へ出た。
「閣下、退路は北に残っています」
男はセヴランへ向いて言った。
「門を取らずとも、重装を捨てれば千は抜けられる。負傷者を置き、停戦を求めるべきです」
「本営旗を捨てて、何を率いて戻る」
「生きた兵を」
「回廊を取るため、王命に背いた」
セヴランは雨に濡れた剣を副将へ向けた。
「二千五百を失い、借りた軍資金も雇兵への支払いも残る。水も土地も持たず王前へ戻れば、私だけでなく家臣も領民も、王家の徴収で潰される」
「ここで死ねば、もっと残りません」
「門を取れば残る」
辺境伯は白布を剣で切り落とした。
「水を持つ者が、この土地の主だ」
副将は動かなかった。
セヴランは近衛へ、四度目の突撃を命じた。
その選択を、カイは点検橋の向こうで聞いていた。
副将が白布を拾おうとすると、近衛二人が槍を向けた。
同じ軍の中で、命令が割れた。
退きたい兵は北の硬い道を見た。近衛は狼旗を見た。後列には、何を話しているか聞こえず、前進の角笛だけが届いている。
カイが今ここで矢を放てば、副将も近衛も倒せるかもしれない。
弩兵は、合図を待っていた。
カイは手を上げなかった。
停戦交渉の白布を持って出た者を射れば、後でどんな降伏条件を掲げても信じられない。セヴランが布を切ったことと、三都市軍が交渉者を殺さなかったことを、橋の両側にいる兵へ見せる必要があった。
副将は近衛の槍を避け、後列へ退いた。
その背後で、戦うためでなく北へ抜けるため、盾を捨てる兵が出始めた。
*
四度目で、橋の入口が破られた。
敵は負傷者を前へ押し出し、その陰から短弓を射た。こちらの盾列が乱れた一瞬に、近衛十人が橋へ入る。
アシムが一人目を槍で止めた。
二人目の斧が、アシムの盾を割った。
カイが横から短槍を入れ、斧兵の脇を突く。引き抜く前に三人目の剣が来た。槍を捨てて身を沈める。剣先が肩当てを裂き、熱い痛みが走った。
狭い橋の上では、人数を足せない。
敵二人、味方二人。それ以上は前の者の死を待つしかない。
橋の外では、数十人が押し合っていた。
前へ出れば矢と槍。後ろへ戻れば、セヴランの近衛が押す。泥へ降りれば膝まで沈む。戦う意思のない兵まで、後ろの体に押されて橋口へ運ばれてくる。
カイは槍列へ、倒れた者を跨いで追うなと叫んだ。
橋口から落ちた敵兵が泥へ片脚を取られ、盾を捨てて両手を上げた。味方の一人が槍を引き、北の硬い道を指す。その脇を、まだ剣を持つ近衛が走り抜けた。
殺す相手と通す相手を、一息ごとに選ばなければならなかった。
雨で顔も旗も見えにくい。間違えれば、降伏者を刺すか、近衛を列の内側へ入れる。
勝敗が決まりかけた場所ほど、戦場は単純にならなかった。
バシュがカイの隣へ入った。
「ここは俺が持つ。門へ戻れ」
「監視は」
「後ろに二人いる」
「死ぬな」
「同じ命令を何度も言うな」
バシュは敵の剣を盾で受け、橋縁へ流した。
カイは工兵側へ下がった。
アシムが橋の中央で膝をついている。肩だけでなく、腹にも矢が刺さっていた。治療兵が引こうとするが、彼は橋板を掴んで離さない。
「列が——」
「次が立ってる」
カイはその手を外した。
「戻れ。命令だ」
アシムは何か答えたが、雨音で聞こえなかった。
担架へ乗せられたときには、もう目を閉じていた。
*
辺境伯自身が橋へ入った。
近衛は残り十数人。セヴランの剣と鎧は、兵のものよりよかった。狭い足場でも長剣を短く持ち、盾の縁、手首、腿を正確に狙う。
バシュが一合受け、盾ごと腕を痺れさせた。
「下がれ」
カイは曲刀を抜いた。
「正面では勝てない」
バシュが言った。
「知っている」
セヴランはすでに長く戦っている。泥を歩き、四度の突撃を指揮し、濡れた鎧を着たまま橋へ来た。それでも剣の速さは、カイより上だった。
カイの肩も、すでに上がりにくかった。
最初の突撃で短槍を受けた衝撃が手首に残り、濡れた曲刀の柄が掌の中で回る。頬の傷へ雨が入り、片目を開けるたび灯が二重に見えた。
セヴランの疲労を待てば、自分も同じだけ鈍る。
違いは、相手が門を奪うため前へ出なければならず、カイは狭い橋を一歩ずつ譲れることだった。
一撃目を曲刀で受けると、肘まで衝撃が抜けた。
二撃目は避けきれず、左の袖を切った。
三撃目を橋の手摺へ流す。長剣が木を削り、すぐ返ってくる。
カイは後退した。
点検橋の下で、半開の主門から水が鳴っている。
セヴランは前へ出た。
「逃げて町を渡し、雨の陰に隠れた男が、国を名乗るか」
「まだ名乗っていない」
「名乗る前に死ね」
剣が上段から落ちた。
カイは横へ避け、曲刀を鎧の脇へ入れようとした。浅い。札一枚を切っただけで、柄頭が頬へ当たった。
視界が白くなった。
膝をつく。
セヴランの剣先が喉へ来る。
受水門の歯車が、一度、大きく鳴った。
ダリヤが流量を一目盛り変えた音だった。
橋全体へ、低い振動が走る。
セヴランの足が半歩ずれた。
カイは剣を狙わず、その前足へ体当たりした。
二人で橋板へ倒れる。長剣の柄が手摺に挟まり、セヴランは手を離した。すぐ拳がカイの顔へ入る。鎧の重さで上から押さえられ、息が出ない。
橋縁の向こうで水が白く砕けていた。
セヴランを押し落とせば、それで終わる距離だった。外套を引き、重い鎧ごと欄干の外へずらせばいい。
だが、流れの先には工兵がいる。遺体が開閉具へ挟まれば門も止まる。
カイは橋の内側へ体を返した。
剣技では勝てない。
カイは曲刀も捨て、セヴランの外套を掴んだ。
雨で濡れた狼外套を橋の支柱へ巻き、体を反対へ転がす。セヴランの首と肩が引かれ、重い鎧が横を向いた。
立ち上がろうとした足が、橋へ上がった泥で滑った。
カイは落ちていた短槍を拾った。
穂先を、鎧の脇下へ入れた。
セヴランの手が槍柄を掴む。
「水は……軍が持つものだ」
「違う」
カイは柄を押した。
「軍がなくなった後も、残るものだ」
セヴランの指から力が抜けた。
*
辺境伯旗が落ちた。
近衛の何人かは最後まで戦い、残りは武器を捨てた。副将が再び白布を上げ、受水門周辺の兵へ退却を命じた。
カイはセヴランの遺体から、印章と指揮札を立会人の前で外した。
鎧も剣も、その場で奪い合せない。名前、発見位置、傷、所持品を記録する。遺体は外套で覆い、点検橋の高い側へ移した。
「旗首を市場へ出せば、敵が崩れる」
兵の一人が言った。
「出さない」
「井戸を焼いた男だぞ」
「だから、したことを記録して裁く。死体を壊しても、井戸は戻らない」
夜明けまでに、粘土低地の戦いは終わった。
*
三都市側の死者は、四十五人。
負傷者は、軽重を合わせ百三十五人。
救護天幕には寝台が足りず、濡らした敷物の上へ負傷者を並べた。家族名、所属、傷、治療、行方を一人ずつ書く。
同じ人間を二度数えないため、治療を終えた者の手首へ布を結んだ。赤は直ちに手当てが要る者、白は移送できる者、黒は息を確かめ終えた者。布が尽きると、裂いた敵味方の外套を同じ幅へ切った。
敵の布だから敵だけに使う、という分け方はしなかった。
カイは死亡欄を読み、実際に顔を確かめられた者、仲間の証言だけの者、泥地に残り未収容の者へ印を分けた。四十五という数字は、夜明け時点の確定であって、悲しみの上限ではない。
救護天幕の外では、家族を探す者が名を叫んでいた。
アシムの名は、死亡欄の十二番目にあった。
セダル井戸で格子を外した工兵。ケルマで種籾袋を運んだ村人。ネレイ通用門を内側から押し戻した車大工。カイが顔を知る名が、四十五行の中へ続いた。
朝の配給で、返事のない名があった。
火の消えた炊事場に、持ち主の戻らない鉢が並んだ。
敵側の本営には、さらに多くの死者と負傷者が残った。
辺境伯を倒した瞬間に、戦争は終わっていない。
指揮を失った兵が、泥地から硬い道へ溢れていた。西へ逃げる者、南の丘へ散る者、東のネレイへ向かう者。千数百人が、水を求めて街道井戸と城門へ動いている。
「井戸を閉じろ」
三都市軍の中から声が上がった。
「門も鉢も全部閉めろ。水がなければ、今日中に降伏する」
雨は降っている。
それでも、飲める水は限られていた。




