第23話 三日目の雨
雷の後も、すぐには降らなかった。
空は雲で塞がれ、風だけが市場を通り抜けた。火事の灰が石畳から舞い上がり、公の鉢の水面へ細かな輪を作る。
三つの観測班が、別々の入口から戻ってきた。
タルサ班は、地下泉の水位と西峠の雲を測った。ネレイ班は、迎雨標の響きと風向を記した。ヴァラド班は、第三観測井の塩分と、小精霊、硝子羽の蛾の飛来を確認した。
誰も、カイの板を見ていない。
合同戦時評議会の卓へ、三組の記録が置かれた。
「タルサ地下泉、昨夕から一尺の五分上昇。塩分は変わらず」
「ネレイ迎雨標、西から連続反響。風は夕刻から西南西。雲底は下がっている」
「第三観測井、小精霊は平時の四倍。蛾は西向きに静止せず、すべて東へ流れている」
最短、最頻、最長。
三枚の板は、同じ答えではなかった。
タルサ班は雨の始まりを今夜前半へ寄せた。西峠で雲の下がる速さが増したからだ。ネレイ班の最頻は夜半。迎雨標の反響は強いが、南西風にまだ乾いた息が混じる。ヴァラド班は明け方へ寄せ、井戸水位の上昇が父の帳面にある最も速い例より遅いと記した。
「どれを採る」
村地区の席が尋ねた。
「一つにしない」
カイは三本の時刻線を、一枚の板へ重ねた。
重なった範囲は狭くなったが、消えはしない。最短は日没後、三班の最頻は夜半の前後に散り、最長は明朝。ヴァラド班だけが遅い理由も、誤りとして削らず横へ残した。
全員が同じ数字を出すことが、独立観測の目的ではなかった。
違う数字が、どの証拠から生じたかを比べられることに意味があった。
三班とも、初雨が今夜から明朝までに始まる範囲へ印を置いた。根拠が崩れる条件も書いてある。西風が止む。地下泉が下がる。迎雨標の連続反響が切れる。そのどれかが起きれば、決戦案を止める。
「今回は、二夜目とは言わないのか」
西村地区の代表が聞いた。
「言わない」
カイは三枚の観測板を順に見た。
「最も可能性が高い時刻は、夜半前。遅ければ明け方。降らない可能性も残る」
「降らなければ」
カイは代替案の板を出した。
百二十人の前進は旧導水路の第二点検口まで。雨が始まらなければ、鐘二つで撤退。敵本営へ接近しない。別働隊は補給線への示威だけで戻り、夜明け前にネレイ外周へ収容する。
「雨が少なければ」
「受水門を全開にしない。偵察が粘土低地の沈み方を測り、ダリヤが流量を調整する」
「多すぎれば」
「人を入れない。門を閉じ、敵も味方も高地へ警告する」
六席は、決戦案を四対二で承認した。
反対の一席は、降雨量が少なければ百二十人を暗渠へ入れる危険に見合わないと述べた。もう一席は、ネレイ市内の火災直後に守備を減らすべきでないと主張した。
賛成した席も、雨が確実だからではなかった。
敵水荷駄が減り、辺境伯が三日以内に総攻撃を迫られていること。今夜を逃せば、ネレイの避難区画が次の攻撃に耐えないこと。雨なし、少雨、多雨の停止条件が、前線責任者へ渡されていること。
六人は、それぞれ別の危険を選んだ。
反対した二席も、記録板を受け取った。反対したから情報を減らされることはない。
*
百二十人は、三都市の経験兵から選んだ。
タルサの受水門と地形を知る者。ネレイの路地と西側水路を知る者。ヴァラドの工兵と弩兵。そこへカイの斥候隊を加える。
バシュは前衛の現場指揮を任された。
副長へ戻ったわけではない。作戦書には、受水門到達まで、撤退条件、監視役二人と範囲が書かれている。
ダリヤは工兵二十四人を率い、旧導水路の開閉を担当する。
出発前、工兵は兵一人ずつの腰縄を点検した。暗渠で転べば、鎧を着たまま流れへ顔を沈める。弩の弦には油布を巻き、予備弦を胸元へ入れた。松明は使わず、蓋付きの油灯だけを十人ごとに持つ。
百二十人分の飲用水は、いつもの半分にした。
雨の中を行くのに、水袋を減らすのかと若い兵が聞いた。
「空から落ちる水は、すぐには飲めない」
ミラが答えた。
「屋根の煤も、鳥の糞も、二十三年分の溝の泥も流れてきます。帰るまでの水は自分で持って」
最初の雨は、渇きを消す祝福である前に、蓄積した汚れを一度に動かす水でもあった。
兵たちは水袋を戻し、代わりに矢を二本ずつ減らした。
残る六百三十人は、一群にならない。
ネレイ守備と救護。西街道の水荷駄遮断。南の村道から敵本営後方へ火と角笛を見せる別働。ヴァラドへ通じる東路の確保。四つの役に分かれた。
敵から見れば、三都市軍は東西南の三方向にいる。
本営の辺境伯は、西の水輸送を守るか、ネレイを攻め直すか、南から荷駄を狙う村兵へ向くか、選ばなければならない。
「全部、カイの合図を待つのか」
ネレイ守備の指揮官が聞いた。
「待たない」
カイは答えた。
「各隊に撤退条件と目的を渡す。連絡が切れたら、自分の観測で変えろ。変更は生きて戻って記録する」
自分の仕事として残したのは、百二十人を受水門まで入れ、偵察報告を見て流量と攻撃時刻を決めることだけだった。
全員の結果を、自分の手へ握らない。
その代わり、自分にしかできない前線の判断からは逃げない。
*
夜半前、最初の一滴が落ちた。
カイの頬に当たり、砂の筋を引いた。
二滴目は手の甲。
三滴目を数える前に、旧導水路の石蓋が黒い斑点で埋まった。
誰かが笑った。
別の誰かが泣いた。
雨粒を舌で受けようとした兵の顎を、隣の水利役がすぐ下げさせた。子供のころの癖で外套を広げた者は、そこへ黒い煤が筋になって流れるのを見て手を止めた。
ネレイの城壁では、桶を置く音が連なった。だが、公の鉢へ入れる水は別の布を通し、最初の濁りは排水溝へ捨てる。火災の灰が混じる市場では、水利役が裸足で走り、飲用路と洗浄路の板を掛け替えていた。
空を見上げる時間と、足元の水を分ける仕事が同時に始まった。
二十三年間、雨を知らなかった若い兵は、空へ両手を伸ばした。年長の兵は、子供のころ聞いた音を思い出したように目を閉じた。
乾いた土へ水が入り、埃と石と、長く眠っていた草の匂いが一斉に立ち上がる。
カイも、動けなくなりかけた。
父の帳面にしかなかった雨だった。
「測れ!」
ダリヤの声が、歓声を切った。
「喜ぶのは桶を置いてからだ! 降り始め、風、溝の流れを記録しろ!」
工兵が受水皿を並べ、時刻縄へ印を付ける。観測役は一刻ごとの深さを別々に測る。カイは顔の雨を拭い、第二点検口へ手を掛けた。
作戦は、雨が来れば始まるのではない。
どれだけ来たかを測ってから始まる。
*
旧導水路は、人一人が腰を屈めて通れる暗渠だった。
ネレイ西方の受水庭から、八キロ先の粘土低地まで続く。二十三年の間に三か所が埋まり、三都市協定で人だけ通れる幅まで泥を出していた。雨水はその脇の細溝を流れる。
百二十人は、一列で進んだ。
灯りは十人に一つ。足元の水は初め踝にも届かなかった。だが、背後で雨脚が強まるにつれ、暗渠の音が変わる。細いせせらぎが、石壁を震わせる流れになる。
第二閉塞の手前で、一つの灯が消えた。
前を歩く兵の踵が、泥の下の穴へ落ちた。腰縄が張り、後ろの二人が石壁へ肩を当てる。流れはまだ弱いのに、濡れた鎧は人の体を簡単に横へ倒した。
列を止め、工兵が泥へ腕を入れた。外れた敷石の下に、横穴が開いている。二十三年前にはなかった崩れだった。
「埋めるか」
カイが聞いた。
「今は印だけです。水が増えれば、ここから地下へ逃げる」
ダリヤは白い石片を壁へ打ち、帰路に避ける側を全員へ触らせた。先頭から末尾まで印が伝わるのに、数分かかった。
水が流れ始めた古い施設は、図面どおりに目覚めるわけではない。
先頭のバシュから、結び紐で報告が戻った。
第一閉塞、通過。
敵見張り、なし。
第二点検口、外に敵騎兵八。雨を避けて天幕へ移動中。
カイは全員を止めた。
雨なしの撤退線はここだった。今は降っている。だが、予定したほど強くない。
ダリヤが受水皿の目盛りを灯りへかざした。
「一晩で二十ミリへ届くかどうかだ」
計画は二十から三十ミリを前提にしている。全開門すれば、流れは低地へ届く。けれど水深が足りなければ、広く薄く散り、硬い粘土の表面を濡らすだけになる。
「全開で集めるか」
ダリヤが聞いた。
「まだだ。偵察を待つ」
予定では、降雨開始後すぐ主門を全開にする。遅らせれば、敵が動く前に泥を作る時間が減る。
カイは予定を伏せ、現場報告を選んだ。
*
イルヴァンの代わりに先頭へ入った若い斥候が、低地から戻った。
「本営中央は水が浮き始めてる。馬の蹄、半分。荷車の轍は指二本」
「北側は」
「砂利が多く、まだ硬い。東の点検橋へ近いほど窪む」
「敵の動き」
「騎兵を西と南へ分けた。歩兵は本営。荷車を北へ移し始めてる」
別働隊の角笛と火を見て、辺境伯は部隊を三つへ分けた。
西へ水荷駄護衛。
南へ村道を押さえる騎兵。
本営とネレイ攻撃のため残る主力。
連絡騎兵は低地を横切らなければならない。
「全開にすれば、北の硬い道まで濡らせる」
工兵が言った。
「俺たちの退路も水に入る」
バシュが返した。
全開なら、計画図どおり広い泥地になるかもしれない。雨が少ない分を、貯めていた上流槽で補える。
同時に、百二十人が使う点検橋の下まで流れが回る。敵を殺す洪水にはならなくても、こちらも動けなくなる。
「主門は半分」
カイは決めた。
「北の分水板を閉じ、中央と東の窪地へ絞る。敵騎兵の連絡路と荷車置場だけを泥にする」
「計画より狭い」
「狭くていい。敵全員を沈める必要はない」
ダリヤは反論しなかった。
「工兵、主門二目盛り。分水板は北を閉、中央三、東二。十五分ごとに地盤報告」
開門具へ六人が取りついた。
石と木が、二十三年分の錆を擦る。最初の目盛りで濁った水が噴き、暗渠の壁を叩いた。二つ目で流れが腰近くまで上がる。
北の分水板を閉じると、水は中央の古い受水溝へ集中した。
低地へ向かって、雨と人が直した水路の水が走った。
*
敵本営の灯りが揺れた。
荷車を動かそうとした馬が滑り、前脚を折る。助けようと集まった兵の靴が粘土へ沈む。重装歩兵は乾いた高みへ上がろうとするが、東の点検橋では車輪が一台横を向き、後ろを塞いでいた。
洪水ではない。
水は膝まで来ない。立っている者を流しもしない。
ただ、一歩ごとに足を奪った。
百二十人は暗渠の第三口から出た。
先頭が敵の伝令路を切り、弩兵が点検橋の向こうを押さえる。西の別働隊は水荷駄と本営の間へ火を上げ、南の村兵は角笛を移しながら大軍がいるように見せた。
本営と三つの部隊の連絡が切れた。
それは、三都市側の連絡も細くなるということだった。
西から届いた伝令は、村兵が水荷駄を止めたが、敵弓兵に押されて一つ目の尾根を退いたと報告した。南では騎兵が乾いた丘を回り込み、槍列の右端が見えなくなった。ネレイ北門では、逃げ込もうとする避難民と追ってくる敵兵を分けきれず、門を半開のまま保っている。
どの隊も、助けを求める文面にはしていなかった。
渡した目的と撤退条件に従い、自分たちで位置を変え、その結果だけを知らせている。
カイは増援を動かさなかった。
一か所の苦戦へ百二十人を割けば、受水門が止まり、すべての隊の足元が変わる。見えない戦場を救うため、見えている役目を捨てたくなる衝動を押さえた。
「敵を泥へ追い込むな!」
カイは命じた。
「硬い道から退かせる。降伏路を一つ残せ!」
泥へ落ちた兵を矢の的にすれば、殺せる。
だが、逃げ道をなくした二千人は、死ぬまで戦う。必要なのは全滅ではなく、指揮と移動を奪うことだった。
雨の中、敵本営の大旗が倒れた。
旗手が死んだのではない。泥へ沈んだ台座を起こせず、自分たちで切り離したのだ。
その向こうで、狼の歯の旗だけが東へ動いた。
黒い馬を引き、近衛を伴って、受水門の点検橋へ向かってくる。
「辺境伯だ」
バシュが言った。
本営を捨てたセヴランは、退路を開くため、水を動かしている門そのものを奪いに来た。




