第22話 公の鉢を閉ざす者
ネレイの通用門から、敵兵が入った。
最初の一列は商人の外套を着ていた。門内へ入ると外套を捨て、短槍と丸盾を出す。続く兵が門番を倒し、南壁の巻上げ機へ縄を掛けた。
門は、人が二人並べる幅しかない。
それでも内側から開けば、一列は十列になり、十列は百人になる。
カイは外陣の騎兵を南へ向けた。
「門外を塞ぐ。入った敵を追って市内へ突っ込むな!」
兵たちは一瞬、命令を疑った。
市内ではすでに警報鐘が鳴り、炎が上がっている。今すぐ入れば、住民と一緒に戦える。
「後続を止める。中はネレイ警備隊へ任せる。北門と東門を開け、避難路を残せ!」
敵前衛の後ろには、さらに騎兵が来ていた。こちらが市内へ入れば、通用門から際限なく兵を押し込まれる。
カイは経験兵百二十を三つに分けた。
一隊は通用門外の街道を遮断する。一隊は南壁に沿って西へ回り、辺境伯軍本隊から来る増援を止める。残りは北門・東門へ伝令を出し、市民と警備隊の退路を守る。
「ネレイの水役家が開けた!」
敵兵が叫んでいた。
「評議会は降伏した。抵抗する者は賊だ!」
嘘だった。
城壁上のネレイ警備兵が、門内へ矢を射ている。市場からは車大工と鍛冶が槌を持って走り、宿の主人たちが荷車を横倒しにして路地を塞いだ。商業評議会の鐘は、降伏ではなく総員警報を鳴らしていた。
内通したのは、都市ではない。
誰かが都市の鍵を使った。
*
捕らえた敵兵は、同じ札を持っていた。
南通用門から入り、水役家の青布を巻いた案内人に従う。公の鉢を閉じ、予備水路を確保する。市場北の水役家倉庫を味方拠点とし、夜明けまでに門を広げる。
「ハリムだ」
ナディアは札を読み、声を落とした。
「まだ本人の署名はない」
ミラなら、そう言うはずだった。
カイは札を証拠袋へ入れた。
市内から逃げてきた水売りが、さらに知らせを持ってきた。
「公の鉢が閉じられた。三か所全部だ」
「壊されたのか」
「水役家の封印で栓をした。予備水路も閉まってる。ハリム様の命令だ、敵へ水を渡すなって」
水売りの顔には煤が付いていた。
「市場南で火が出た。避難民の天幕へ燃え移ってる。消す水がない」
公の鉢を閉じれば、敵もすぐには飲めない。
同時に、逃げてきた住民と火を消す職人も飲めない。
「予備槽は」
「母水だ。水判官と評議会の許可がないと開けられない」
「ミラはどこにいる」
「市場の水利会所へ行った」
カイは市内へ入ろうとした。
そのとき西の街道から、辺境伯軍の角笛が聞こえた。後続二百人余りが、通用門を目指している。
ここを離れれば、門外を塞ぐ者がいない。
ミラへ命令を出すこともできない。市内の水利は臨時総指揮権の対象外で、状況を見ずに母水を開けろと言えば、昨夜犯したことを別の形で繰り返す。
「伝令を入れる」
カイは言った。
「ミラへ、外の状況を全部伝えろ。敵後続約二百、公の鉢三か所閉鎖、南市場火災。判断は現場責任者に任せる、と」
伝令は北門へ走った。
カイは南の道へ向き直った。
*
ミラが着いた水利会所には、鍵がなかった。
予備水路の正鍵はハリム、副鍵は水役家の上席管理人が持つ。上席管理人は南通用門で倒れ、正鍵の行方は分からない。鍵箱の中には、開門記録簿だけが残っていた。
「評議会を集めて」
ミラは最初に命じた。
平時法では、母水を収めた予備槽を開くには水役家当主か上席管理人の操作と、商業評議会四席の承認が要る。二十三年、最低水位を守るために作られた手続だった。
戻った使いは、一人ずつ足りない名を告げた。
隊商席は西外陣。倉庫席は北門の避難指揮。車大工・鍛冶席は市場で戦っている。牧畜民席は負傷。小商人席と宿・厩席の二人しか、会所へ来られない。
定足数にならない。
「待てば、あと二人来るかもしれない」
宿・厩席が言った。
会所の外で、火災鐘が鳴っていた。
市場南の避難区画には、タルサから来た家族、ケルマとセダルの避難民、ネレイ西街区の住民がいる。屋根のない広場へ日除け布を張り、乾いた藁床を敷いていた。火には最悪の場所だった。
「あと何分、待てますか」
ミラは火消し頭へ聞いた。
「二本目の路地へ移るまで半刻。そこを越えたら、油商の倉だ」
「手持ちの水は」
「飲用桶を集めて二十。火へ投げれば、避難民が飲む分がなくなる」
公の鉢は、水役家の封印鎖で閉じられている。
予備槽には水がある。
乾季を越えるため、最低線より二尺近く上まで残していた。上部の水を消火路へ出しても、母水は残る。だが、正式な鍵と四席の承認がない。
ミラは、六つの誓いを順に思い出した。
標を維持する。
初水を返す。
器を清く保つ。
母水を残し、最低水位より下まで汲み切らない。
雨路と下流への余水を塞がない。
公の鉢を開き、旅人と住民の最低限の水を閉ざさない。
平時法は、第四誓を守るために鍵と定足数を置いた。
今、その手続を待てば、第六誓に反して住民の水を閉ざし、火が予備槽の建屋へ移れば第四誓の母水そのものも失う。
どちらかの誓いを捨てる必要はない。
最低線を割らない量だけ、今開けばいい。
「石蓋を壊します」
ミラは言った。
「正鍵なしの開門は、水利法違反です」
小商人席が青ざめた。
「分かっています」
「評議会も足りない」
「分かっています」
「カイの命令か」
「違います」
ミラは記録簿を開いた。
「私が決めます」
*
立会人を四人置いた。
小商人席、宿・厩席、火消し頭、水利会所の若い書記。
開門前の水位を、二人ずつ別の尺で測る。母水の最低線へ赤い紐を張る。壊すのは主門でなく、副排水路の石蓋。水量を目盛り一つずつ開き、公共広場と消火水路へ分ける。
「時刻」
ミラが言った。
書記が鐘の回数を記した。
「理由。公の鉢三か所閉鎖、南市場火災、評議会定足数不足、正副鍵なし。上位法の第四誓と第六誓を同時に守るため、最低線より上の水だけを緊急開放」
石工が槌を上げた。
一打目で封印石に亀裂が入る。
二打目で、水音が変わった。
三打目。石蓋の下から、白い水が噴き出した。
水は細い消火路を走り、二つに分かれた。一方は市場南へ。もう一方は閉ざされた公の鉢の裏へ回る。
ミラは流量板を見続けた。
火消し頭が、もっと開けろと叫ぶ。
「一目盛りずつです」
「火が待つか!」
「母水を切らしたら、明日の火も、明日の飲み水もありません」
水位が一目盛り下がる。
二目盛り。
最低線まで、まだ余裕がある。
「もう一つ」
ミラが命じた。
水が広場の石溝から溢れ、避難民が桶を差し出した。火消しの列ができ、濡れた敷物が屋根へ運ばれる。
公の鉢の封印鎖は、鍛冶が切った。
最初の鉢へ水が落ちる。
水を求めた者たちは押し合いかけたが、小商人と宿屋の者が列を作り、子供と負傷者から飲ませた。
ミラは開放量、時刻、水位、立会人の名を記した。
最後に、一枚の書面を自分で書いた。
――水判官見習いミラ・アディールは、正規権限者・評議会定足数を欠くまま予備水路を開いた。上位法適合性、必要量、代替手段の有無について、事後の公開審理を求める。
署名した。
正しいことをしたから、審理が要らないとは書かなかった。
*
会所の裏口が開き、レシア・ヴェンが入ってきた。
両腕に、革表紙の帳簿を三冊抱えている。
「ハリムはどこ」
ミラが聞いた。
「西の水役家倉庫。地下搬入口から出るつもりです」
「その帳簿は」
「公開帳簿ではありません」
レシアは一冊を開いた。
北方へ送った塩と革水袋。辺境伯の信用符。通用門の見取り図。予備水路を閉ざす時刻。敵兵一人につき銀貨と、占領後もサーレク家の配水権を認めるという約束。
「持ち出せば、戻れません」
ミラが言った。
「戻る場所を、当主が敵へ売りました」
レシアは答えた。
「逃げ道を塞ぐのを手伝ってください」
*
城壁の外にいるカイにも、水が流れたことは分かった。
市場南の炎が、一度大きく上がり、それから低くなった。市内で上がる声が、悲鳴だけでなく号令へ変わる。北門から来た伝令が、濡れた長衣のままカイの前へ転がり込んだ。
「ミラが予備水路を開けました。正鍵なし、評議会二席の立会い。六誓第四、第六を根拠に、最低線より上だけ」
合同戦時評議員がカイを見た。
「総指揮官の緊急命令だったことにすれば、審理を避けられる」
「しない」
「彼女を守らないのか」
「ミラの判断を、俺の判断に書き換えない」
カイは伝令へ言った。
「開門量と最低線を守れ。判断者はミラ、責任記録もミラのまま。外の状況を追加記録して、俺が判断を支持した時刻を別に残せ」
失敗後に加えた条件で、現場責任者は事前命令を変えられると決めた。
最初にそれを使ったのがミラだった。
カイができるのは、その判断を奪わず、外から成立させることだった。
*
辺境伯軍の後続が通用門へ突入した。
カイたちは門外の狭い道で受けた。
先頭の騎兵を槍列で止め、後ろへ矢を浴びせる。道脇の売水溝へ板を外し、空荷車の車輪を落とす。敵の列が詰まったところへ、バシュの現場隊が南壁沿いから横へ入った。
市内ではネレイ警備隊と職人が、入った前衛を市場から南へ押し戻している。
敵にとって、通用門だけが退路だった。
カイは門を奪い返さず、外側へ半円の道を開けた。
「武器を捨てて西へ出る者は通せ!」
「逃がすのか」
「市内へ戻らせない」
前衛の一部が、盾と槍を置いた。両手を上げ、門から外へ出る。名を記録する余裕はない。武器を蹴り分け、西の空地へ走らせた。
降伏しない兵は門内へ戻ろうとし、ネレイ警備隊と挟まれた。
夜明け前、最後の集団が武器を置いた。
*
ハリムは、水役家倉庫の地下搬入口で捕らえられた。
逃走用の荷車は、車大工たちが車輪を外していた。通路の出口には、レシアと小商人、倉庫人足が帳簿箱を積み、壁を作っていた。
「家の帳簿を盗んだな」
ハリムはレシアへ言った。
「公の水を、家の帳簿へ隠したのはあなたです」
レシアは三冊を離さなかった。
敵の札と、帳簿の取引印が一致した。
通用門を開けた腹心二人も、負傷した一人を除いて拘束された。商業評議会、警備隊、職人、商人の大半は最後まで敵と戦った。ネレイ全体が内通したという言葉は、誰にも使わせなかった。
市内から敵前衛を排除した直後、ミラが予備水路を閉めた。
水位は赤い母水線より、掌三つ分上で止まっていた。
火災は市場南の二路地と天幕二十張りを焼いたが、油倉へは届かなかった。
東の空が白み始めた。
カイは市場広場で、ミラと顔を合わせた。
「開けました」
「聞いた」
「審理を求める書面も出しました」
「それも聞いた」
「止めますか」
「何を」
「審理を」
「止めない」
ミラは疲れた顔で、わずかに頷いた。
「判断は正しかった」
カイは続けた。
「でも、正しかったかを俺一人の言葉で終わらせない」
「はい」
それで十分だった。
広場の公の鉢から、水が一滴落ちた。
同時に、地面の下から低い音が返った。
タルサ、ネレイ、ヴァラド。
三つの迎雨標が、西から順に響いた。
誰も声を上げないうちに、乾いた空を白い光が裂いた。
最初の雷が鳴った。




