第21話 来なかった雨
一夜目、雨は来なかった。
空には西から薄い雲が伸びた。風は湿り、硝子羽の蛾が灯りの周りへ集まった。兵たちは空を見上げたが、カイが告げたのは二夜目だ。落胆する者はいなかった。
観測班は、ネレイ西方の古い見張り塔へ出た。
塔の上からは、辺境伯軍の本営になる粘土低地と、タルサから伸びる街道の両方が見える。観測役三人、イルヴァンを含む斥候四人。周辺の二集落から残った家族を、雨の前に東へ案内する避難班も合流する予定だった。
雨が来る二夜目の夕刻まで観測し、最初の降り始めを確認して撤退する。
敵の斥候は雨で足跡を失い、こちらは修理した枝水路沿いにネレイへ戻る。
それがカイの命令だった。
「二夜目の夕方、雨がなくても戻すべきです」
イルヴァンが出発前に言った。
「降り始めを見なければ、水路を開く時刻が分からない」
「雲が遅れたら」
「遅れない」
カイは答えた。
最も早ければ一夜目、最も遅ければ三夜目。
その幅を知っているのは、カイだけだった。
*
二夜目の朝、雲は低くなった。
風が西から東へ続き、昼には土の匂いが変わった。小精霊は迎雨標の欠けた溝へ集まり、水のない石の上を淡い光で走る。
兵たちは、来ると信じた。
観測塔からの鏡は、正午まで異常なしを伝えた。
避難班は二集落の住民三十四人を連れ、塔の東へ集めた。荷車二台、歩けない老人三人、子供七人。夕刻の雨を待って街道を横切り、暗くなる前にネレイ外周へ入る計画だった。
日が傾いた。
雲の底は黒い。
雨は落ちなかった。
「あと半刻」
カイは迎雨標で観測板を握った。
西風はある。井戸水位も下がっていない。蛾の群れはむしろ増えている。記録の幅なら、まだ誤りではない。
だが、戦時評議会へ伝えた時刻なら、もう遅れていた。
塔から鏡が三度光った。
敵騎兵を確認。
続いて二度。
退路に敵影。
避難班が、動き始めたところを見つかった。
「救出隊を出す」
カイは待機していた騎兵三十を立たせた。
「雨が来れば敵も動けない」
ヴァラドの指揮官が空を見た。
「来ない場合は」
その問いに、用意した答えがなかった。
雨なしの退避案を作っていない。二夜目に来ると伝えた以上、作れば自分の確信を疑わせると思った。
「今から作る」
カイは空いた図板を引き寄せた。
その時間から、もう失っていた。
*
観測塔は、三方を敵に塞がれていた。
西に騎兵。南の街道へ弓兵。北は崩れた受水溝で、荷車が越えられない。イルヴァンは避難民を塔内へ入れ、石段へ荷を積んで入口を塞いでいた。
カイの救出隊は、北の受水溝から近づいた。
工兵が持ってきた板を崩れ目へ渡し、人だけを通す。馬は置く。斥候十人を南へ回して弓兵へ矢を浴びせ、避難民が北へ出る時間を作る。
雨が降れば、溝は短時間で水路になる。
降らなければ、敵騎兵も渡ってくる。
どちらに備えるかを、現場で決めなければならない。
「老人から出せ!」
塔の小窓へ叫ぶと、イルヴァンが顔を出した。
「東の階段が割れてます。上に六人取り残された!」
避難民の多くは一階へ下りていた。観測役二人、子供二人、その母親、脚を痛めた村人が上階に残っている。敵の火矢が屋根へ刺さり、乾いた梁から煙が出ていた。
イルヴァンは中へ戻った。
カイも入口の荷を崩し、塔へ入る。
煙で上が見えない。石段は中ほどから落ち、壁に沿った梁一本だけが上階へ届いていた。
「俺が行く」
イルヴァンが梁へ足を掛けた。
「二人で行く」
「梁が持たない」
「先に子供を下ろせ」
イルヴァンは梁を這い、上へ出た。縄を柱へ回し、子供を一人ずつ布袋へ入れる。下でカイたちが受け取った。
三人目を降ろしたとき、外壁に何かが当たった。
敵の投石器ではない。騎兵が縄を掛け、すでに割れていた塔の角を馬で引いている。
石粉が落ちた。
「全員、外へ!」
最後の観測役が縄へ手を掛けた瞬間、上階の床が傾いた。
イルヴァンがその背を押した。
観測役は下へ落ち、待っていた兵が受け止めた。イルヴァン自身は梁と壁の間に挟まれた。
塔の角が崩れた。
カイの目の前へ石と木が降った。
*
イルヴァンを掘り出すまで、どれほどかかったか分からない。
雨は、来なかった。
敵騎兵が北溝へ回り始め、バシュの援護隊が西から姿を見せた。敵は塔を完全に囲む前に退いた。追撃する余力はなかった。
避難民三十四人と観測班は、全員が塔から出た。
イルヴァンの右脚は、膝の下で不自然に曲がっていた。背には折れた梁が刺さり、呼吸のたび血が泡になった。
「喋るな」
カイが言った。
「雨は」
イルヴァンが尋ねた。
「まだだ」
「遅れたんですか」
答えられなかった。
担架を四人で持ち、北溝を越えた。敵が戻る前に全員を東へ動かす。脚を傷めた村人は別の担架、老人は荷車。子供たちは、誰も泣かなかった。泣けば敵に見つかると思っているのか、声の出し方を忘れたのか分からない。
ネレイ外陣へ戻ったのは、夜半だった。
治療係はイルヴァンの脚を添え木で固定し、背の木片を抜いた。出血が止まるまで、カイは天幕の外にいた。
明け方、命は助かると告げられた。
脚が元どおり動くかは分からない。背の傷が治っても、斥候へ戻れる保証はない。
*
ミラは、カイの観測板を一枚ずつ並べた。
一夜目。二夜目。三夜目。
推定幅を書いた行だけが、戦時評議会へ出した写しにはなかった。
「いつから知っていましたか」
「水輸送隊を襲う前の夜」
「二夜目に確定した観測は」
「ない」
「計算を間違えたんですか」
「違う」
言葉にするたび、逃げ道が消えた。
「三夜の幅があると知っていた。最も可能性が高いのが二夜目だった」
「なぜ、それを出さなかった」
「三夜分の退避をすれば、敵に読まれる。兵が疲れる。作戦を決められないという声が出る」
「だから、他の人が何を危険に置くか、あなたが決めた」
「俺が総指揮官だ」
「作戦を決める権限はあります」
ミラの声は静かだった。
「材料を隠す権限はありません」
カイは反論しようとした。
イルヴァンを塔へ送ったのは自分だ。責任を負うのも自分だ。だから、判断材料を絞って決めることも責任の一部だと。
「イルヴァンは、出発前に聞きました。雲が遅れたらどうするか」
ミラは続けた。
「三夜目もあり得ると知っていれば、夕方前に避難民を渡したかもしれない。護衛を増やしたかもしれない。塔へ残ると自分で選んだかもしれない。どれを選ぶにしても、その権利がありました」
カイの頭に、父マレクの最後の帳面が浮かんだ。
行き先を書かなかった頁。危険を誰にも告げず、一人で砂嵐へ入った旅。
「父上も、あなたを守るつもりだったのかもしれません」
ミラは言った。
「危険を一人で抱え、失敗すれば一人で死ねばいいと考えた。でも、残されたあなたには、探すか、止めるか、同行するかを選ぶ材料がなかった」
「同じだと言うのか」
「同じです」
その一言の方が、罵声より深く入った。
カイは父の死を、答えを残さなかったことを、二十三年間の沈黙を責めてきた。
同じ形で、イルヴァンの脚を折った。
「予測が外れたことを責めているんじゃありません」
ミラは三枚の板を押し戻した。
「私たちから、外れる可能性を奪ったことを責めています」
*
朝、合同戦時評議会が開かれた。
カイは軍印を外し、卓の中央へ置いた。
全観測板を持ち込んだ。父の帳面の該当頁。未観測日。壊れた標。測定者の違い。三夜の推定幅。二夜目を最頻とした計算。雨が来ない場合の失敗条件を、作らなかった事実。
「予測を誤ったのではない」
カイは言った。
「幅を隠した。俺の判断に従う者が迷わないようにしたつもりだった。実際には、危険を選ぶ材料を奪った。イルヴァンの重傷と、避難班が取り残された責任は俺にある」
「辞任するのか」
ネレイ代表が聞いた。
「俺が決めない」
「逃げるつもりか」
「続けたいと言えば、地位にしがみついたことになる。辞めると言えば、審査の前に自分で罰を決めたことになる。続けさせるか、権限を止めるか、評議会へ委ねる」
六席は、イルヴァンの治療報告と救出隊の証言を読んだ。
審議は日暮れまで続いた。
二席が解任を求めた。
「一度隠した者へ、次も全記録を出せと言って信じられるか」
セダルを含む西村地区の代表が言った。
四席は留任へ票を入れた。
「今、道と敵補給を最も知る者を外せば、別の危険が増える」
エドランはそう述べた後、カイを見た。
「これは信頼が戻った票ではない。監督できる条件を作った上で、役割を続けさせる票だ」
条件は四つ付いた。
三都市から一名ずつ観測担当を出し、同じ試料と原記録を別々に読む。
全予測は、最短、最頻、最長と、根拠が崩れる条件を併記する。
雨を使う作戦には、雨が来ない場合の退避時刻と代替経路を必ず決める。
現場責任者は観測と状況が違えば、カイの事前命令を変更できる。変更を後で記録すれば、許可を待つ必要はない。
カイは条件を読み、署名した。
軍印は戻された。
以前より重かった。
同じ指揮権でも、一度失った信頼の上では、意味が違う。
*
その夜も、雨は来なかった。
最長の三夜目へ入っていた。
ネレイ西側の外陣で、三都市の観測担当が同じ空を見上げた。カイの板だけでなく、自分の測定値を持っている。
遠くで、鐘が鳴った。
雨の鐘ではない。
ネレイ南壁の警報鐘だった。
暗い城壁の一角で、松明が二度、内側へ振られた。
通用門の閂が外れた。
雨より先に、門が内側から開いた。




