第19話 タルサを明け渡す
カイがタルサを明け渡すと言ったとき、最初に立ち上がったのはファリヤだった。
「もう一度言ってみろ」
再建評議会の卓へ、彼女の拳が落ちた。
「西峠では戦わない。住民を東へ避難させる」
「ここを直すために、何人死んだ」
「三人」
作業事故と、ケルマ村からの延焼を止めたときの負傷がもとで死んだ者。カイは名前まで覚えていた。
「名前を知っていて、置いていくのか」
「生きている者まで、城壁と一緒に死なせないためだ」
会議所の外にも人が集まっていた。
四十人で始めた修理は、半年で町の形になった。細水路は三本へ増え、泥に埋もれていた受水庭の一つは空を映している。崩れた家には屋根が戻り、東西の門には新しい木扉が入った。
その城壁を使わず、戦う前に出る。
臆病、裏切り、ヴァラドの町を守るためタルサを捨てるのかという声が、開いた窓から入った。
カイは地図へ、二千五百を示す石を置いた。
「西峠へ七百五十人を集めれば、最初は止められる。狭い道で、向こうの数を使わせずに済む」
「なら、そうしろ」
オルムが言った。
「止められるのは、最初だけだ」
カイは峠の北斜面を指した。
「辺境伯軍には工兵と荷駄がいる。道を広げ、別の斜面を探し、交代で戦う。こちらは七百五十人しかいない。負傷者を下ろす道と、食料を上げる道も同じだ」
「城壁まで下がればいい」
「タルサで囲まれる。ネレイとヴァラドの兵をここへ閉じ込めれば、自分の町は空になる。辺境伯は別働隊で東へ行ける」
エドランは、反論せず地図を見ていた。
「どこで戦う」
「ネレイ西方まで引く」
会議所がざわめいた。
「西峠から七十キロだぞ」
「だからだ。二千五百人と人馬を、七十キロの道へ乗せる」
辺境伯軍は一日に、人馬を合わせ最低二十二から二十六立方メートルの水を使う。食料と飼葉は五・五から六・五トン。タルサの泉は、修理を重ねても今は日量十四立方メートルほどだった。
住民が最低限に使い、工房と家畜を絞ってようやく町を支える水だ。
二千五百人の軍と軍馬には足りない。
「タルサを取れば、敵は水を得る」
カイは言った。
「だが、全軍を養えると思って取れば、西峠から水袋を運び続けることになる。東へ進むほど、その荷車は長くなる」
「そのために、私たちの町を餌にするのか」
ファリヤの声は低かった。
「そうだ」
言い換えなかった。
「俺が決める。反対と損失を、俺の名で記録してくれ」
ミラはすぐに筆を取らなかった。
「反対者の名も残します」
「俺の命令で十分だ」
「十分ではありません。命令者の責任と、住民が同意しなかった事実は別です」
ファリヤ、オルム、タルサ旧住民席。西峠で抗戦すべきだと主張した者の名が、撤退命令の下へ並んだ。
続いて、見込まれる損失を書いた。空き家を含む住居、工房、冬支度の薪、運べない石材、果樹の若木、家畜小屋、再建中の浴場。敵軍に使われる可能性と、破壊される可能性を分けた。
数字にすると、町を捨てるという一言が、何百もの物へほどけた。
カイは全項目の末尾へ署名した。
戦時権限で命じられるのは避難と軍の配置までだ。失った家と道具を、勝手に戦勝の必要経費として消すことはできない。帰還できたとき、補償の順位を決める負債として残す。
この日は、臨時総指揮権の二十九日目でもあった。
ミラは数日前から、撤退命令とは別に期限の審査書を三都市へ送っていた。届いた再批准書には、タルサ、ネレイ、ヴァラドの各評議会が別々に採決した印があり、十一村の西、中央、東、三地区の代表も署名していた。
延長は翌日の失効時から、さらに三十日。目的はセヴラン軍を三都市と十一村から排除することだけ。都市内政、水利、裁判、土地へ命令を広げず、敵の撤退か降伏が先ならその日に終わる。次の自動延長もない。
カイは再批准書を、反対者と損失を書いた撤退記録の上へ置かなかった。期限を延ばされたことは、タルサを捨てる判断への同意を意味しない。二つの記録は、別々の板へ掲示された。
*
次に争いになったのは、水路を壊すかだった。
「敵へ水を残すな」
タルサの若者が、主水路の開閉具を壊す槌を持ってきた。
「泉を埋めろとは言わない。吐水口を落とせば、軍はすぐ使えない」
ダリヤは水路図を見た。
「落とせる。西の受水門も、楔を抜けば天井ごと潰せる」
「直すのにどれくらいかかる」
カイが聞いた。
「今の人数と資材なら、半年。雨が先に来たら、受水庭へ流れない」
「壊さない」
「敵が飲むぞ」
「帰ってきた住民も飲む。大精霊の雨も、壊した門を待たない」
「帰れる保証がどこにある!」
若者が槌を投げた。
「ない」
カイは答えた。
「壊せば、帰る場所がないことだけは確かになる」
井戸も泉も、受水庭も破壊しない。毒も入れない。取水量、槽の位置、修理図面は持ち出し、開閉具は通常の停止位置にする。敵が軍用水へ変えるのを助ける書類は残さないが、水そのものを死なせない。
この判断も、カイの名で記録された。
*
避難は四段階に分けた。
第一陣は子供、高齢者、病人、治療係。荷車に飲用水と七日分の食料を積み、ネレイを通過して、東側の村とヴァラドへ分散する。一か所へ集めず、受入先ごとの水量と屋根数を先に確認した。
第二陣は、住民登録、配水帳、三日契約、再建評議会の決定書、迎雨標の工事記録。原本と写しを別の車へ載せる。片方を失っても、誰が何を決めたかが消えないようにした。
第三陣は、穀物、工具、薬、替え車輪、運べる金属部品。石材と梁は置く。欲張れば車列が遅くなり、人を失う。
最後に、働ける住民と撤退部隊が出る。
持ち出せる家財は一世帯一荷までとした。
門前に置いた測り縄を越える荷は、その場で減らした。
ある家族は寝具を二枚にするか、祖父の石臼を置くかで日が傾くまで決められなかった。陶工は焼成前の器を割り、粘土だけを袋へ詰めた。鍛冶は炉を冷ますため、前夜から炭を足さず、使いかけの鉄を砂へ埋めた。
山羊を連れていけない老人は、首輪へ自分の登録番号を刻んだ木札を結んだ。
「敵の肉になるだけだ」
そう言いながら、最後まで縄を離さなかった。
受入先にも限界があった。ネレイは市場倉庫の二階と隊商宿を空けたが、水桶と便所が足りない。ヴァラドは西街区の空き家を開け、十一村は一戸につき何人まで眠れるかを返書で知らせた。
一家を別々の土地へ送れば、屋根は増える。
カイはそれを禁じた。受入数が減っても、子供をヴァラド、親を村へ分けない。先に出た者の到着印が戻るまで、次の車列を門から出さなかった。
急ぐ撤退ほど、行方不明は名簿の間から生まれる。
市場では、敷物を持つか鍋を持つかで家族が争った。二十三年前からファリヤが守ってきた家には、欠けた水鉢、母親の織機、乾燥した種袋があった。彼女は水鉢と種袋を選び、織機を置いた。
「戻ったとき、残っていると思うか」
「思わない」
カイは言った。
「なら、なぜ水路だけ残す」
「織機は、別の職人でも作れる。タルサの地下泉と迎雨標は、ここにしかない」
「町は物だけじゃない」
「だから人を出す」
ファリヤは答えず、織機の木枠を一度撫でた。
彼女は織機の横木へ小刀で日付を刻んだ。
「残っていたら、続きを織る」
残っていなければ、誰が壊したかを尋ねるための日付だった。
カイは、置かれた物を放棄品と記させなかった。
所有者、置いた理由、最後に確認した場所を一荷札ずつ作り、家の戸へ写しを打った。敵がその紙を守るとは思わない。それでも、帰還した者同士が他人の家財を戦利品と呼ばないための記録にはなる。
*
バシュが撤退の順番を組んだ。
西門の夜営火を、避難後も同じ数だけ残す。人形へ外套を着せ、城壁上を動く見張りに見せる。炊事鍋には少量の豆を入れ、明け方まで煙を出す。
最後尾の荷車三台は、車軸が傷んだように見せて東門外へ遅らせる。敵斥候が見れば、追えば取れると思う位置へ置く。ただし、荷は砂袋。御者は斥候で、東の曲がり角に替え馬を隠す。
「追撃を誘うのか」
カイが聞いた。
「追えると思わせる」
バシュは答えた。
「実際に追いつかせない。先頭を急がせれば、敵の隊列は伸びる。水荷駄と歩兵の間が空く」
作戦ごとの現場指揮書には、セダル村の監視人も署名した。
撤退開始から二日目の夕方、城壁内に住民はいなくなった。
カイは最後に受水庭へ行った。
水面に、空の町が映っている。最初に見たときは泥と鳥の死骸だけだった庭だ。今は石縁が白く洗われ、吐水口から細い流れが落ちている。
飲める水を一口作ることから始めた。
その水を、敵へ残して出る。
庭の周りには、持ち出せなかった修理の跡があった。
ダリヤが選んだ白い目地。オルムの知る古い換気穴。四十人のうち最初に腰縄を結んだ石工が残した鑿跡。泥出しの日、死骸を運んだ籠の擦れ。
町を占めるとは、城壁へ旗を立てることだけではない。
他人が積んだ石の間で眠り、他人が戻るために残した水を飲み、それを初めから自分のものだったと呼ぶことだった。
カイは、その呼び方まで防ぐことはできない。
できるのは、誰が直し、誰が出て、なぜ壊さなかったかを別の場所へ残すことだけだ。
正しいと説明できても、胸の内側にあるものは敗北とよく似ていた。
カイは水を一杯だけ飲み、鉢を伏せずに置いた。
*
辺境伯軍がタルサへ入ったのは、翌朝だった。
東の丘から、カイたちは占領を見た。
敵騎兵は、城壁上に人がいないと分かるまで半刻かけた。次に西門と南門を押さえ、泉へ兵を走らせた。水を見つけると角笛が鳴り、後続が一斉に動いた。
敵は、遅れた三台の荷車も見つけた。
騎兵二十が東門から追い、バシュの斥候が曲がり角で馬を替えて逃げる。敵は一里追った後、砂袋だけを残して戻った。
追撃で死者は出なかった。
その日の午後、タルサの門外には水を待つ列ができた。
泉から汲む桶では足りない。兵、人足、軍馬、荷駄獣。西峠から来た水車が、占領したはずの町へ水を運び込んでいる。
「十四立方メートルでは、全軍を養えない」
ダリヤの見積りどおりだった。
夕刻、南東から一騎の使者が敵陣へ入った。
ナディアが遠眼鏡で、鞍袋に付いた青い縁飾りを見た。
「サーレク家の優先通行札」
「中身は」
「ここからは見えない」
使者は文書筒を持っていた。敵陣の書記へ渡し、その夜のうちに西ではなく東へ帰った。
二日後、辺境伯軍はタルサへ守備隊を残し、本隊を東へ進めた。
先頭がネレイ西方へ達しても、最後尾の水荷駄は西峠近くにいた。
敵の補給線は、約七十キロへ伸びた。




