第18話 井戸を開ける者
セダル村の井戸を開ける作戦は、井戸へ近づかないところから始まった。
夜明け前、村人十二人と工兵六人が東の涸れ溝へ入った。全員、槍ではなく短い鍬と縄を持つ。先頭はバシュ、その前後にセダル村の監視役とヴァラド斥候が一人ずつ付いた。
カイは北の低い壁へ斥候十人を回した。
西の旧家畜道には、三都市から集めた兵四十人を見えるように置く。日が出れば、そこが主攻に見える。敵が西へ集まった間に、東から村人を逃がす。
「井戸を取るのは最後だ」
カイは出発前、全員へ繰り返した。
「先に住民を出す。敵が退いても追わない。油壺、灰袋、死骸を井戸へ近づけさせるな。水へ何か入れようとした者だけは、他の敵より先に止める」
命令は板へ書き、三隊の責任者が読み上げた。
バシュにも一枚を渡した。
「死なないことも、命令に書くか」
カイが聞いた。
「書いても守らない兵はいる」
「お前は」
「今は監視が二人いる」
バシュは短槍を借りていた。副長印も自分の短刀も持っていない。
「戻って審理を受ける」
「それでいい」
カイも、バシュと二人の監視役の後ろから東の排水溝へ入った。西の囮隊とは角笛で、北壁の斥候とは鏡で合図を交わす。
*
東の排水溝は、人の肩幅しかなかった。
上に乾いた葦が覆い、底には拳ほどの小石が敷かれている。踏めば石が転がり、溝の奥に渡した細紐を引く。紐の先では、空壺が屯所の壁へ当たって鳴る仕組みだった。
バシュは小石へ足を置かなかった。
工兵に濡らした羊毛布を渡し、一枚ずつ底へ敷かせる。石を布で包み、その上を膝で進む。途中の紐は切らず、細い木片で張力を保ったまま脇へ寄せた。切れれば、それも警報になる。
鉄格子は、排水口の内側から落とされていた。
横木を鋸で切れば音が出る。工兵は溝壁の柔らかい目地へ水を含ませ、土を一握りずつ掻き出した。格子そのものではなく、片側の石枠を外す。
東の空が白くなり始めたころ、人一人が通れる隙間が開いた。
村内側には、セダルの少年が待っていた。
前日の会議に来た十二歳の少年だった。本人が夜のうちに柵へ戻り、排水溝の時間を知らせ、家畜囲いの内側で待っていた。
「家畜囲いに八十七人」
少年は囁いた。
「動けない人が六人。兵は朝の水を配る前に数を取る」
「井戸に油は」
「屯所の裏に壺が二つ。灰袋もある」
敵は、奪われるなら汚す準備をしている。
バシュは村人二人を排水溝へ通した。中で家族を十人ずつに分け、東の家から順に出す。動けない者は戸板へ乗せ、縄で引く。
排水溝を抜けた者は、声を出さず涸れ谷の陰へ伏せた。工兵が一人ずつ手首へ炭の線を引き、十人ごとに板へ刻む。家畜囲いを出た人数と、溝の外へ着いた人数が合うまで、次の組を動かさない。
幼い子の口を母親が肩布で覆い、咳の出る老人には濡らした布を噛ませた。戸板は格子跡で何度もつかえ、そのたび後ろの列が止まる。急げば板から落ち、遅れれば朝の点呼が来る。
十二歳の少年は最後の組に残り、家畜囲いと隣の納屋を二度確かめた。戸籍札のない寄留者も、兵に別の家へ移された者も、数から落とさないためだった。
「八十七人。中にはもういない」
内側の板と外側の板が、初めて同じ数になった。
最初の子供が格子を越えたとき、西の家畜道から角笛が鳴った。
カイの囮隊が、攻撃を始めた。
*
東の排水口まで、西の柵で横木が折れる音が届いた。
柵へ槌を二度入れれば横木は折れる。だが、兵が三人入れば、その先の道が急に狭くなる。両側の土壁に射撃穴があり、井戸脇の屋根からも弓が向く。
バシュの図のとおりだった。
カイは前夜、囮隊の責任者へ、一人も袋地へ入れるなと命じていた。
命令どおりなら、西では柵外に盾を並べ、壊した横木をその場で立て直すように見せている。弓手は土壁の上へ矢を返しても、前進しない。直後、角笛が命令どおりの二度を鳴らした。
「臆病者!」
敵兵が壁の陰から西へ叫ぶ声が、屋根の間を抜けてきた。
「井戸を取りに来たんじゃないのか!」
「水を汚させないために来た!」
囮隊の責任者が返した。
敵が西へ二十人を集めれば、その分、東の家畜囲いが薄くなる。
朝日が半分上がったころ、北壁の斥候から鏡の合図が来た。
一度。住民の半数が脱出。
もう一度。動けない六人が溝へ入った。
三度目の光は、上がらなかった。
代わりに、村内で壺が割れる音がした。
*
最後の一家が家畜囲いを出る前に、敵の歩哨が排水溝の格子へ気づいた。
叫び声が上がり、屯所から兵が走る。
バシュは隠れるのをやめた。
「北を開けろ!」
合図の鏑矢を上げる。
北壁で待っていた斥候が、縄梯子を掛けた。西の囮隊も柵を倒す。三方向から人が入った。
敵の半数は、村人を追うか井戸を守るかで動きを止めた。
屯所から、幅広の男が出てきた。
兜を脱いだ額に、古い刃傷がある。バシュを見ると、驚きより先に笑った。
「井戸開けの犬か」
男は長剣を抜いた。
「八年逃げて、また柵の中へ戻ったな」
バシュの槍先が、一瞬下がった。
「知り合いか」
監視役の村人が聞いた。
「昔の隊の曹長だ」
「今度はどちらを裏切る、バシュ・オルダン!」
曹長は井戸と反対の路地へ下がり、長剣を構えた。
「来い。ネヴァで死ねなかった分を、ここで終わらせろ」
バシュなら、一対一で追えば倒せるかもしれない。
その路地は狭く、他の兵を入れられない。昨日までバシュが求めかけていた死に場所へ、相手が誘っていることはカイにも分かった。
屯所の裏で、別の兵が油壺を持ち上げた。
バシュは曹長へ背を向けた。
「油を止める!」
監視役二人と井戸へ走る。カイも後を追った。
曹長が罵声を上げ、後ろから追った。北壁から入ったイルヴァンが横矢を放つ。矢は曹長の腿へ刺さり、足を止めた。
油壺を持つ兵は、井戸まで六歩だった。
バシュは槍を投げなかった。外して壺を割れば、水へ流れる。体ごと男へぶつかり、井戸と反対側へ押し倒した。壺が土の上で転がる。村人が濡れ布を被せ、口を縄で縛った。
灰袋も、投げ込まれる前に工兵が押さえた。
井戸の水面には、朝の光だけがあった。
カイが井戸へ着いたとき、縁の周りには血と油壺が近すぎる距離で並んでいた。
工兵は壺を動かす前に地面へ灰で輪を描き、見つかった位置を記録した。水利役が井戸縁、釣瓶縄、最初に汲んだ桶を調べる。匂いを嗅ぎ、油膜がないか薄い銅皿へ広げ、封印試料を二本取った。
奪還の歓声より先に、水を飲めるか確かめなければならなかった。
判定を待つ間、救出された八十七人には味方が持参した水を配った。井戸を取り戻したのに、その井戸の水をすぐ与えないことへ不満の声が出たが、セダルの長老が自分の杯を列の最後へ回した。
「急いでまた閉ざすより、確かめて開ける」
陽が井戸底へ差すころ、試験桶に異常なしの札が付いた。
最初の一杯は、排水溝で戸板を引いた村人たちへ回された。
*
戦いは半刻で終わった。
敵兵三十四人のうち、死者六人、負傷・捕虜十九人。九人が北へ逃げた。こちらは死者一人、負傷七人。排水溝を通った村人八十七人は全員、生きて東へ出た。
曹長も捕虜になった。
「一騎打ちから逃げたな」
縛られながら、まだバシュを嘲った。
「任務が違う」
バシュは答えた。
その声に、死に損ねた悔しさはなかった。
屯所の文書箱から、占領後の命令書が見つかった。
セダル村の全世帯へ番号を振る。働ける成人は、井戸維持、街道修理、軍糧運搬へ割り当てる。登録外の者には配水しない。家畜と穀物は軍の必要量を先に引き、残りを戸籍人数で配る。抵抗した世帯は分け、別の占領村へ移す。
水を保証するという保護宣言の中身だった。
村へ戻った長老は、井戸の縁を確かめた後、バシュの前に立った。
「ネヴァ村のことを、わしは裁けん」
「はい」
「赦すとも言わん」
「はい」
「だが、今日は井戸を汚さず、人を先に出した」
長老は、立会い記録へ指跡を押した。
「この男は、今度は開けた。そう証言する」
バシュは頭を下げた。
戦時評議会は、その証言と監視役の記録を受け、バシュを現場指揮へ暫定復帰させた。副長職は戻さない。作戦ごとに権限を書き、村側監視を付け、戦後審理を消さない。
役に立ったから過去が消えたのではない。
過去を残したまま、今の責任が一つ増えた。
*
勝利の報告と同じ日に、西峠から烽火が上がった。
辺境伯軍本隊が、峠北側の集結地へ到達した。
三都市は、決戦に出せる人員を数え直した。
経験兵百八十。
選抜民兵三百七十。
輸送、工兵、救護二百。
合計七百五十人。
それ以外の警備隊と民兵は、三都市、十一村、井戸、避難家族を守るため残す。全員を一か所へ集めれば、敵と戦う前に自分たちの町が空になる。
西峠は狭く、守る側に有利だった。
タルサの城壁も、半年かけて塞いだ穴と、直した水路がある。ここへ七百五十人を集めれば、最初の一撃は耐えられる。
評議員たちの発言は、そこで一致していた。
カイは地図のタルサから、兵を示す駒をすべて東へ動かした。
「西峠では戦わない」
戦時評議会の全員が、言葉を失った。
「タルサを明け渡す」




