第17話 閉ざされた井戸の名
井戸の柵は、外から入る者ではなく、内から出る者へ棘を向けていた。
バシュは斥候の報告図を、火の近くへ寄せた。
セダル村の中央井戸を囲む二重柵。北に騎兵十二、南に歩兵二十。井戸脇の家を仮屯所にし、村人を東の家畜囲いへ集める。村外へ出した者は、涸れ谷に面した裸地へ置く。
柵の杭は斜めに打つ。横木の結び目は内側。門は一か所だけ。
命令札の文面も報告に写されていた。
――軍用水の無許可取得は、軍需物資の窃盗とみなす。
八年前と、一語しか違わなかった。
あのときは、軍用水ではなく伯領水と書かれていた。
村の名はネヴァ。
セヴラン領の南端で、税を二季遅らせた小村だった。表向きの命令は盗賊討伐。実際には、村人が徴発した穀物を隠したと疑われ、井戸を閉ざして出させる作戦だった。
若い兵站兵だったバシュは、柵の形を提案した。
外から奪還されにくく、内側の村人が夜に井戸へ近づけば、一本の道へ集まる形。家畜道だけを開けておき、逃げる者をそこで捕らえる。排水溝には、音の出る小石を敷いた。
三日で村は従うと言われた。
三日目、老婆が一人、家畜道で倒れた。
四日目、母親が空の水差しを抱いて柵へ来た。追い返した。
五日目の夜、子供の泣き声がしなくなった。
バシュが鍵を奪って井戸を開けたのは、六日目だった。
遅かった。
柵を作った日には命令へ従い、死人が出てから英雄の真似をした。上官を殴り、馬を盗み、南へ逃げた。それから八年、脱走兵だったことだけを話し、なぜ逃げたかは話さなかった。
セダル村の報告図には、あのときバシュが教えた家畜道まで描かれている。
同じ仕組みが、別の井戸を閉ざしている。
カイに図の癖だけ教えれば、井戸は開けられるかもしれない。過去まで話す必要はない。今までのように、有能な副長でいられる。
だが、役に立つ情報と、それを誰から得たかを分ければ、カイが判断材料を隠したのと同じになる。
バシュは副長の印を外した。
短刀とともに卓へ置き、夜明けの戦時評議会へ持っていく告白書を書き始めた。
*
バシュが武器を持たずに会議へ来たことを、カイはすぐに不自然だと思った。
いつもなら壁を背に取り、出入口と窓を一度ずつ見る。今朝は中央へ立ち、六席の戦時評議員、セダル村の代表、記録役のミラへ顔を向けた。
「井戸を閉じた兵の配置を知っている」
バシュは言った。
「似た陣を見たからではない。八年前、自分で作った」
会議所の外では、出動準備の槌音がしていた。
その音だけが残った。
「セヴラン領のネヴァ村。井戸封鎖命令に従った。柵の設計、見張りの交代、家畜道の誘導を提案した」
バシュは告白書を卓へ置いた。
「村人が死んだ。名前を記録した者だけで九人。記録されなかった者がいる。六日目に命令へ背いて井戸を開け、上官を傷つけて逃亡した」
「六日目」
セダル村の代表が繰り返した。
五十ほどの女で、今も姉夫婦と孫が井戸の柵内にいるという。
「人が死ぬ前は、閉めていたのか」
「はい」
「喉が渇いた子供を見たか」
「見ました」
「それでも」
「追い返しました」
バシュは目を逸らさなかった。
カイは、卓の下で拳を握っていた。
最初の井戸汚染で、北方軍の結びを見たとき。セヴラン領の刃を知っていたとき。聞けば、バシュは昔見たとしか言わなかった。
カイは深く追及しなかった。有能な副長を失いたくなかったからだ。
「なぜ今まで言わなかった」
「脱走した後の行動で、前を消せると思った」
「消えたか」
「消えなかった」
ヴァラド代表が立ち上がった。
「軍務中の住民死亡を、八年隠した。直ちに拘束すべきだ」
「敵が来ている」
タルサの斥候が反論した。
「セダルの柵を知っているのは、バシュだけだ」
「役に立てば九人は消えるのか」
「今いる村人まで死なせるのか」
声が重なった。
カイは、バシュの短刀と副長印を見た。
八年間、背中を預けた男だった。斥候隊をまとめ、橋の迂回を調べ、伏兵を見つけ、ケルマでは追撃を捨てて戻った。
カイ個人なら、六日目に井戸を開けたことを見たいと思った。
だが、ネヴァ村の死者を知らない自分が、赦すことはできない。
使えるから何も問わず、明日も副長に置くのも違う。役に立つ者の過去だけ消えるなら、規則は弱い者にしか働かない。
「副長職から外す」
カイは言った。
バシュは頷いた。
「武器を預かり、評議会の許可なく会議所を出ない。ネヴァ村の生存者と、当時の軍記録を探す。告白を三通写し、三都市と村地区へ封印して送る」
「処罰は」
ヴァラド代表が聞いた。
「今ここで、被害者の証言なしに決めない。戦後の公開審理へ残す」
「戦後まで生かして使うのか」
その問いが、最も重かった。
「使うかは、セダル村の判断も聞く」
カイは村代表へ向いた。
「バシュの経験なしに作戦を組むこともできる。時間はかかる。危険も増える。使うなら監視を付け、決めた範囲だけで働かせる。どちらを選んでも、過去の審理とは別に記録する」
村代表はすぐに答えなかった。
会議を一度止め、セダルから逃げてきた者たちと話すことを求めた。
バシュは会議所の隣室へ移された。
戸口にはヴァラド兵と西村地区の見張りが一人ずつ立った。つい昨日までなら、二人へ見張りの立ち位置を直す側だった男が、壁際の腰掛けへ武器もなく座る。
カイは声を掛けなかった。
「知らなかった」と言えば、自分だけが軽くなる。「なぜ話さなかった」と責めれば、聞く機会を選ばなかった八年間を隠すことになる。
ミラは告白書を写しながら、ネヴァの死者欄に空きを残した。
「九人、と書かないのか」
カイが聞いた。
「確認できる名が九人以上です。九人で閉じたら、記録されなかった人を二度消します」
名前の分からない死者を数えるため、空欄が必要だった。
カイは、作戦図の隅にも同じ空白を作らせた。セダルの柵内人数は百人近く。歩けない者、乳児、兵に別の家へ移された者は、逃げてきた十七人にも正確には分からない。
救出人数を最初から一つに決めれば、数から漏れた者を置いてくる。
斥候へ出す確認項目に、空き家、床下、家畜小屋、戸籍に載らない寄留者を加えた。
*
正午までに、セダル村から追い出された十七人が集められた。
井戸の柵内には、まだ百人近くが残っている。北へ逃げれば兵に捕まり、南へ出れば水のない裸地。辺境伯軍は登録札を受け取る者だけ、一家に一桶を与えていた。
追放された者の中に、十二歳の少年がいた。
「昨日まで、あの人が斥候の副長だったのか」
少年はバシュを指した。
「そうだ」
カイが答えた。
「明日は?」
「副長ではない」
「悪いことをしたから?」
「悪いことをしたと、自分で話した。まだ、したこと全部を調べている」
「じゃあ、井戸は誰が開ける」
カイは答えに詰まった。
村代表が、少年の肩へ手を置いた。
「この男が開け方を知っている」
「なら開けさせて」
少年は言った。
「開けた後で、悪いことを調べればいい」
子供の言葉だけで決めるわけにはいかない。
それでも、村人たちの話は同じところへ集まった。
意見が一つになるまで、半刻以上かかった。
井戸の内側に夫を残した女は、バシュを縄で先頭へ立たせろと言った。兄を北へ連れていかれた男は、作戦図だけ吐かせて地下へ閉じ込めろと求めた。ネヴァの生存者が見つかる前に、セダルが処罰を決めること自体が間違いだという者もいた。
カイは輪の外で聞いた。
総指揮官として結論を急がせれば、出動は早くなる。だが、バシュを使う危険を引き受けるのは、カイだけではない。柵の中に家族を残す者と、監視に付く村人だった。
やがて村代表は、出た意見を一つずつ記録役へ戻した。反対が消えたのではない。誰が何を恐れたかを残したうえで、今の救出に限る同意を作った。
赦さない。副長へ戻すとも約束しない。だが、今閉じられている井戸を開けるため、知っていることを全部話させる。逃げないよう村人二人と他都市の斥候二人を付ける。
村代表は、その判断を自分の言葉で記録させた。
「ネヴァ村の代わりに赦すのではない。セダル村の生きている者を助けるため使う」
カイは署名した。
バシュにも署名させた。
「死ぬ役を選ぶな」
署名を終えた後、カイは言った。
「最初に柵へ入って、全部の矢を受ければ償えると思うな」
「思っていた」
「生きて戻れ。戻って審理を受けろ」
バシュは、預けた短刀を見なかった。
「了解した」
*
監視付きで、バシュはセダル村の守備図を調べた。
指で柵の門、井戸、家畜囲いをなぞる。見張りの交代、騎兵の繋ぎ場、矢の届く範囲。報告された小さな物まで、村人へ何度も確かめた。
犬は何頭いるか。夜、家畜をどこへ寄せるか。井戸から捨てた水は、どの溝へ流れるか。兵が配水を始めるのは日の出前か後か。
答えが食い違うたび、バシュは都合のよい方を選ばなかった。二本の線を残し、両方に見張りがいた場合の退路を書き足す。
以前の彼なら、経験で一つへ絞っただろう。
今は、その経験がどこから来たかを全員が知っていた。
「正面は囮だ」
しばらくして、バシュが言った。
「村道から来れば、二重柵の間へ入る。井戸脇の家と南櫓から挟んで射る」
「別の入口は」
「二つある」
彼は、地図にない線を引いた。
「西の旧家畜道。柵をわざと弱く見せ、突破した者を袋地へ入れる。俺が八年前に教えた」
もう一本は、井戸から東の涸れ溝へ伸びていた。
「排水溝。中から鉄格子を落とし、溝底へ小石を敷く。人が這れば屯所の壺が鳴る」
「そこから入るのか」
「逆だ」
バシュは、柵内の家畜囲いへ指を置いた。
「先に村人を外へ出す。敵が人質にできる者をなくしてから、井戸を取る」
彼の指は、旧家畜道と排水溝と北の低い壁、三方向を結んだ。
「この癖を知っている。俺が作った癖だ」




