第15話 追わない指揮官
ケルマ村は、麦藁の匂いで燃えていた。
カイが東の丘を越えると、低い土壁の内側から炎が噴き上がった。刈り入れ前の畑はまだ青みもなく、火が走るものはない。敵は家の屋根と、収穫倉の古い藁へ油を撒いていた。
村の北では、六台の穀物車が横倒しになっている。
二台は燃え、二台は車輪を外され、残る二台を騎兵が北へ引いていた。荷台の大麦袋にはネレイ向けの封印が見える。
敵は二手に分かれていた。
村内で火を放つ徒歩兵が二十人ほど。北へ穀物車を運ぶ騎兵が十二、三人。そのさらに先、黒い馬に乗った男が尾根から全体を見ている。肩には狼の歯を並べた短い外套。兜の額に、銀の横帯が光った。
「指揮官だ」
イルヴァンが言った。
「あれを取れば、井戸も伏兵も吐かせられる」
カイにも分かった。
北の騎兵は、重い荷車を二台引いている。こちらはタルサから連れてきた騎兵二十四。斥候十二人に、街道護衛と村の若者を加えた。穀物車を捨てさせ、尾根の手前で回り込めば、黒馬の男へ届く。
そのとき、村の南門が開いた。
人が溢れ出した。
老人、子供、背負われた病人。ケルマ村には、北の小集落から逃げてきた者が三十人以上いた。土壁の中が安全だと集められていたのだろう。火を避けて南へ走り、乾いた灌漑溝で転ぶ。村内の敵が、その背へ矢を向けた。
「二手に分かれます」
イルヴァンが言った。
「半分で指揮官、半分で村へ」
「半分では、どちらも足りない」
バシュが地形を見た。
「敵将を追うなら二十騎。村へ入るなら全部だ。火と敵兵を同時に相手にする」
黒馬の男が、こちらを見た。
距離があっても、目が合ったように感じた。
男は片手を上げ、北へ合図した。騎兵が穀物車を捨て始める。身軽になれば追いつけない。
今なら、まだ間に合う。
カイは短槍を抜いた。
「全員、村へ下りる」
「指揮官は」
「追わない」
二度目だった。
井戸では道を選んだ。今は、燃えている家と、火の前を走る人間を選ぶ。
「イルヴァン、南門の避難。敵を追って村から離れるな。バシュ、北倉を取る。残りは俺と中央へ。水を持つ者は戦うな、火へ回れ!」
黒馬の男が尾根を越えた。
追えない背を、カイは一度だけ見た。
それから馬首を火へ向けた。
*
南門へ近づいた敵兵が、避難民へ二射した。
最初の矢は土壁に当たり、二本目は男の肩へ刺さった。イルヴァンたちは馬を横一列に入れ、短弓を放つ。敵は倒れた一人を残し、家の間へ逃げた。
カイは馬から飛び降りた。
路地は騎乗で戦える幅がない。煙で目が開かず、火の粉が頭巾へ落ちる。角を曲がると、革鎧の男が油壺を抱えていた。
相手は壺を投げた。
カイは壁際へ身を寄せた。壺が石へ割れ、油が脚衣へ飛ぶ。火はまだない。男が曲刀を抜く前に、短槍の石突きで手首を打った。刃が落ちる。槍を返し、穂先で肩を突く。
男は倒れたが、カイは止めを刺さなかった。
「南門へ這え。火に巻かれたくなければ」
理解したかは分からない。
その先の中庭では、屋根が落ちかけていた。二人の女が、動けない老人を敷物ごと引いている。梁の端へ火が回り、戸口を塞いだ。
カイと斥候二人で裏壁を崩した。
乾いた土煉瓦は槍の石突きで割れた。穴から老人を引き出した直後、屋根が内側へ落ち、熱風が背を押した。
「受水槽はどこだ!」
カイが叫ぶと、村人が中央広場を指した。
小さな槽しかない。三都市協定の工事用に水を貯めていたが、家四軒へかければ空になる量だった。
水を火へ撒けば足りない。
カイは、家を一軒ずつ救うのをやめた。
「東の三軒を壊す! 屋根を落として火を切れ!」
「まだ荷がある!」
家主が叫んだ。
「人は出たか」
「出た。だが織機が——」
「壊す」
斥候と村人が、燃えていない三軒の屋根布を剥がし、梁を落とす。家主は泣きながら自分の槌を振った。家を守るため、その家を壊すしかなかった。
できた空地へ、槽の水で濡らした敷物と土を並べる。火は二軒を飲み込み、三軒目の裸の壁で止まった。
*
北倉では、別の火が広がっていた。
バシュの隊は敵兵を村外へ押し出したが、追わずに戻っていた。倉の正面扉へ火が付き、中では大麦袋が煙を噴いている。
「食べる分は南倉だ」
ケルマの村長が咳き込みながら言った。
「ここは種籾だ。冬蒔きまで残す分だ」
扉を開ければ、空気が入って一気に燃える。閉じたままなら、梁が落ちて全部を失う。
カイは土壁を回った。
北側に、鼠穴を塞いだ新しい煉瓦がある。そこだけ土が柔らかい。
「下から出す。扉は開けない」
槌と鍬で煉瓦を抜いた。人一人が這える穴を作り、煙の下へ入る。中では上段の袋が焦げ、穀粒が熱で弾けていた。
濡れ布を口へ巻いた者が、一袋ずつ床を引く。穴の外で縄を掛け、村人が列になって運ぶ。子供まで小さな袋を抱えた。
梁が鳴るたび、カイは中の人数を数えた。
残り十二袋。
八袋。
四袋。
「出ろ!」
最後の一袋を押し出したところで、天井から火の付いた土が落ちた。カイは這って穴を抜けた。背後で梁が折れ、倉の屋根が沈んだ。
外の土の上に、種籾袋が積まれている。
焼けたものもある。濡れ、煙を吸った袋もある。それでも冬蒔きに必要な分の大半が残った。
バシュが北を見た。
尾根にはもう、黒馬の男も騎兵もいない。
「追えば、誰か分かった」
カイは救い出した種籾の袋へ掌を置いた。
「追ったら、この袋は灰だった」
バシュはそれだけ答えた。
*
日没までに、火は消えた。
村の家は三分の一が焼け、さらに三軒を防火のため壊した。死人は二人。肩を射られた男と、最初の放火で逃げ遅れた老婆だった。負傷者は十二人。敵兵は四人を捕らえ、三人が死んだ。残りは北へ逃げた。
失われなかった家の方が多い。
避難民は全員、南門から出た。ネレイ向け穀物車六台のうち二台は焼け、二台は壊れたが、袋を別の車へ積み替えられた。持ち去られかけた二台も、敵が捨てている。
村人は、カイが敵将を逃したことを責めなかった。
夜、焼け残った広場へ十一村の代表が集まった。
誰も、勝ったとは言わなかった。
ケルマの村長が、焦げた種籾を一握り、三都市開路協定の写しへ置いた。
「この紙には、道と井戸が壊れたときのことは書いてある」
「ああ」
「人が壊しに来たとき、誰が村を守るかは書いていない」
村長は、集まった代表を見回した。
「十一村は、防衛の条文を求める。都市の兵を寄越せと言うだけじゃない。村が出す見張り、馬、弓、避難先。その代わり、どこか一村が襲われたとき、三都市が自分の壁の外だと言わない約束だ」
代表たちは、家印を連ねた請願書を差し出した。
カイの名を指揮官にせよとは、どこにも書いていない。
ただ最後に、ケルマ村を見捨てなかった者の立会いを求める、とあった。
戦果ではなく、追わなかったことが、次の役目を連れてきた。
*
襲撃者が残した荷を調べると、油壺の底から折り畳んだ測量図が出た。
タルサの地下泉には、日ごとの取水量。
ネレイには、売水所、備蓄倉、南の通用門。
三都市の迎雨標には、協定帳簿にしかない工期が書き込まれている。
北方の斥候が外から測っただけでは、知り得ない数字だった。
誰かが、共同帳簿の中を見ている。
*
ロデリク・セヴランは、焼け残った種籾の数を報告書で読んだ。
村を焼け。穀物隊を奪え。救援が敵将を追うか、住民を守るかを確かめろ。
命令の三つのうち、成功したのは最後だけだった。
回廊の路守は、追わなかった。
「臆病ではありません」
戻った襲撃隊長が言った。銀帯の兜を卓へ置き、焼けた手袋を外している。
「兵をまとめ、村を救った。十一村があの男へ寄ります」
「村は水と穀物へ寄る」
セヴランは答えた。
「男へではない」
そうでなければならなかった。
一人の英雄なら殺せる。水と道を守れば助けが来るという約束が村々へ広がれば、殺す相手が十一になる。
卓上には、セルド王からの書簡が開かれていた。
南辺境の警戒は認める。雨の帰還は未確認。王国評議会と周辺諸国の見解が定まるまで、境界を越える軍事行動を禁ずる。
国王は待つつもりだった。
雨が戻ったと諸国の水判官が認め、ラウゼル公国の穀物商が入り、東のザレーン商人が街道へ信用を付けるまで。その後で、旧境界と国際法を持ち出し、交渉するつもりだ。
遅い。
雨が戻ってからでは、回廊は無主地ではなくなる。
タルサ、ネレイ、ヴァラドが署名を重ねるほど、先占する費用は増える。来年には水路が直り、再来年には穀物を自分たちで作る。王が交渉を始めるころには、取れる土地ではなく、承認を求めてくる隣国になっている。
「王命に背くことになります」
家令が言った。
「王国軍は動かさない」
セヴランは書簡を閉じた。
「南辺境伯として預かる自領軍と、私の兵を動かす。雇兵は王国軍ではない」
「二千五百を集めれば、言い逃れはできません」
「勝てば、王は水の戻った領地を受け取る。負ければ、命令に背いた辺境伯を切ればいい」
それは国王にとっても悪い賭けではない、とセヴランは考えた。
家令へ、召集状を渡した。
自領歩兵。騎兵。工兵。水荷駄。三つの雇兵団。
回廊を征服するとは書かない。統治者なき危険地の井戸を保護し、略奪者を排除し、住民へ水を保証する、と書いた。
「雨の前に、西峠を越える」
命令が各砦へ走った。
夜、北西の稜線に狼煙が一つ上がった。
続いて二つ、三つ。
二千五百人の召集を告げる火が、暗い山並みに連なった。




