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雨の回廊 ―四十人、三十日。廃都の水から国をつくる―  作者: 八夜巡


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第13話 三つの井戸の契約

 三つの都市は、同じ井戸を三通りに数えた。

 タルサにとって街道井戸は、二百人を越えた町へ食料を運ぶ命綱だった。

 ネレイにとっては、通る荷車から利益が生まれる市場だった。

 ヴァラドにとっては、貸した石材と工具と四十人が、帰ってこないまま西へ吸い込まれていく穴だった。

 ネレイ商業評議会の会館に、三都市の図面を並べると、それがよく見えた。

 タルサの図面は、ダリヤが泥と油の付いた指で直したものだった。地下泉、細水路、三つの受水庭。最も西の迎雨標は半分が土へ埋まり、標から受水門へ続く溝は家二軒分ほど崩れている。

 ネレイの図面は、色の違う帳簿紐で綴じられていた。三つの街道井戸、隊商宿、売水所、倉庫。迎雨標は市場北の水庭にあるが、二十三年前から水役家の鍵で閉ざされている。

 ヴァラドの図面は、一番整っていた。深井戸、石工場、東西水路、城壁内槽。迎雨標の石柱は立っている。ただし、標へ雨水を導く屋根水路が市街の増築で六か所も切られていた。

「六十日あれば、一つは開く」

 ダリヤの見積書を読み、カイは言った。

「三都市の人員を一つにまとめれば、三つとも間に合う」

 エドランが、すぐに顔を上げた。

「誰の指揮へまとめる」

「工事はダリヤ。護衛と輸送は俺が持つ」

「ヴァラドの石工と警備兵もか」

「期限の間だけだ」

「期限を付ければ、他都市の人員を指揮する権限が生えるわけではない」

 会館の空気が硬くなった。

 カイは、エドランが慎重なだけではないと知っている。四十人遠征を認めたのも、三十日、目的限定、監査付きという囲いを作ったからだ。その囲いの外へ出たカイが、今度は三都市の指揮権を求めている。

「北方の斥候は、すでに井戸を汚した」

「だから共同作業には賛成する。統一指揮には反対する」

「命令が三つあれば、間に合わない」

「一つにした命令が間違ったとき、三都市がまとめて失敗する」

 エドランは図面の端へ指を置いた。

「君を信用するかという話ではない。ヴァラドが、いつ他都市へ人員を渡すと決めたのかという話だ」

 カイは答えられなかった。

 タルサの評議会は、自分を六十日の執政官に選んだ。三十日目の審査を経て務め切ったその任期も、もう終わっている。ヴァラドは選んでいない。ネレイに至っては、昨日まで拘束するかを審理していた。

 危険が近いほど、一人の命令へ集めた方が早い。

 それは、カイにとって都合のよい正しさでもあった。

     *

 交渉は、迎雨標の話から通行料へ移り、そこで止まった。

 ファリヤは、タルサが西の受水庭と崩落橋へ払った労働を、今後の通行料から先に返すよう求めた。

「道が開けば、ネレイの荷車が一番多く通る。タルサの屋根を直す手を橋へ回した分は、誰が負う」

 ネレイの小商人席は、都市ごとの徴収を拒んだ。

「ヴァラドを出るとき払い、ネレイの門で払い、タルサの橋でも払うなら、古い帝国税と同じだ。荷は別の道へ逃げる」

 エドランは、ヴァラドから出した資材目録を卓へ置いた。

「軽荷車八台、馬十六頭、工具、石灰、木材。調査任務へ貸した物だ。タルサの恒久財産にするとは決めていない」

「返せば水路工事が止まる」

 ファリヤが言った。

「全部返せとは言っていない。使用量と返還時期を、ヴァラド抜きで決めるなと言っている」

 ネレイの宿・厩席は、護衛費を通行料へ入れるなら、自前の護衛を雇った隊商は免除すべきだと主張した。牧畜民席は、商人の荷車と羊飼いの家畜を同じ一台料金で測れないと言った。ハリムは、迎雨標の開門は水利役家の世襲権限だと譲らない。

 正午までに、卓上の杯は空になった。

 誰も、水を注ぐ者を決められなかった。

「このままでは、三都市が国になる前に、三都市分の帳簿ができる」

 カイが言うと、ミラが首を振った。

「国を作ろうとするから決まらないんです」

「作らないのか」

「今日、必要なのは六十日以内に雨を受けることです」

 ミラは白紙を一枚、図面の中央へ置いた。

「誰が上か、誰の兵か、どの都市法が優先か。それを全部決めれば、一年かかります。六十日だけ、三都市が一緒にしなければできない仕事だけ書きます」

 紙の一番上へ、彼女は題を書いた。

 ――三都市開路協定。

     *

 最初の条文は、期限だった。

 署名日の翌日から六十日。延長には三都市すべての再承認が要る。自動延長しない。

 二つ目は、共同工事。

 タルサ、ネレイ、ヴァラドの迎雨標と、それを結ぶ三つの街道井戸、橋、緊急通報用の里程標を対象とする。各都市は自分で出せる人員、資材、荷車を先に記し、現場ごとに工事責任者を選ぶ。ダリヤは全体の工法を照合できるが、各都市の職人へ直接命令はしない。

「それで工法が割れたら」

 カイが聞いた。

「その現場を止め、三都市の技術者一名ずつで判定します」

「時間を失う」

「一人の判断で水路を壊しても失います」

 ミラは筆を止めなかった。

 三つ目は通行料。

 同じ隊商、同じ積荷から、協定区間内で重ねて通行料を取らない。出発地か最初の協定門で一度払い、収入は実際に使った橋、井戸、護衛へ、公開した計算で分ける。都市内の市場使用料、宿代、売水は別だが、通行料という名へ付け替えて二重徴収することを禁じる。

「交易自由とは、無料という意味ではない」

 ナディアがネレイ側へ言った。

「次も通れる値段が、先に見えるという意味よ」

 四つ目は緊急通報。

 井戸汚染、橋の崩落、武装集団、疫病の疑いを確認した都市・村は、最寄りの二方向へ同時に伝令を出す。知らせを止めて価格や軍事上の利益を得た者は、協定違反として扱う。

 五つ目は紛争処理だった。

 協定が扱うのは、共同工事、共通通行料、街道井戸、緊急通報だけ。それ以外の水利、税、警備、土地、商取引は各都市へ残す。争いが起きたときは三都市が一名ずつ裁定人を出し、二名以上の一致で仮決定する。六十日を越える権利は決められない。

「軍は」

 カイが尋ねた。

「書きません」

「敵が来ている」

「護衛は各都市と隊商が出します。共同防衛の指揮権は、この場で誰からも委任されていません」

 エドランが、初めて文面へ頷いた。

 カイは納得していなかった。

 伏兵は、都市の境で止まらない。油は、どの水役家の帳簿も読まずに井戸へ広がる。敵が百人で来たとき、三人の裁定を待てない。

 それでも今、三都市が渡そうとしているのは、三つの標を開くための手と石と道だけだった。

 渡されていない権限まで掴めば、協定そのものがなくなる。

「統一指揮の要求を取り下げる」

 カイは言った。

「六十日で、三つの迎雨標を開く。軍の話は、必要になったとき別に決める」

「必要にならないことを願う」

 エドランが言った。

「願うだけでは守れない」

「だから、今日決められるものを決める」

     *

 条文は、三日かけて削られた。

 タルサの再建費は、共同通行料のうち橋・西側井戸の実費分から返す。ネレイ商人は同条件で自由に参加でき、組合独占を認めない。ヴァラドの荷車と工具は、六十日間の貸与へ切り替え、失われた物と修理不能になった物は共同帳簿へ記す。返還か買い取りかは期限末に三都市が決める。

 ハリムは、迎雨標の鍵を水役家が持つ条文を求めた。

「鍵は持ってよい」

 ミラは答えた。

「開閉時刻、流量、立会人を共同帳簿へ記す。緊急通報を受けたとき、理由なく開閉を拒めない。鍵を持つことと、記録を独占することは別です」

 ハリムは署名を水役家席の評議員へ任せ、自分は印を押さなかった。

 三都市の正式代表が、順に署名した。

 タルサ再建評議会。ネレイ商業評議会。ヴァラド七席評議会。

 カイの署名欄はなかった。

 代わりに、工事調整者の欄へ名前を記した。命令者ではなく、現場同士をつなぐ役だった。

     *

 協定の写しは、街道沿いと水路沿いの村へ運ばれた。

 六十日の工事へ参加する村は、都市の配下になる必要がない。自分たちが使う井戸、橋、枝水路を一つ選び、出せる人数と日数を記す。その代わり、同じ区間の通行料配分、緊急通報、三都市裁定を使える。

 羊飼いサミルの集落は、白岩谷を見張る者と、街道井戸へ石を運ぶ驢馬を出した。

 タルサ南の三村は受水溝の泥出しを選んだ。ネレイ東の農村は橋梁材を切り、ヴァラド西の石切り村は迎雨標の補修石を出す。

 最初の週に十一村すべてが、文字か家印か、証人前の指跡で参加を記した。

 地図の上では、三都市の間にまだ境界がある。

 工事割には、井戸から井戸へ人の名がつながった。

 一度に国を作らなくても、六十日の約束が荷車を動かし、その荷車が次の約束を運ぶ。カイは、自分が上から引く一本の線より、ばらばらの線が同じ場所で結ばれる方が、簡単には切れないことを知った。

     *

 最初の共同帳簿は、喜びではなく不足を運んできた。

 ネレイの倉庫監査人が、水役家の公称備蓄と実在量を照合した。

 帳簿上、大麦換算で千八百四十袋。

 封印を開け、倉庫ごとに数えた実在量は、千三百二十六袋。

 五百十四袋が、どこにもなかった。

 書き間違いでは済まない量だった。

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