第11話 反響の外
毒された井戸が、三日後に開いた。
油の染みた上層石を替え、汲み出しと湧き直しを繰り返し、タルサとネレイで分けた試料がどちらも飲用可となった。最初の一杯は井戸守が飲んだ。次に護衛、最後に隊商の家畜へ与えた。
それでも、井戸の縁から油の臭いが消えたようには思えなかった。
カイの長衣と髪に染みついた臭いを、記憶が井戸へ戻しているだけかもしれない。
共同隊商は、予定から四日遅れてネレイへ向かった。
大麦を下ろしたナディアの空車には、タルサの修理注文、割れた水路石の見本、売却用の羊毛が積まれている。ネレイから来た商人二組も加わり、荷車は十七台になった。護衛はタルサの斥候八人、隊商側の六人。先頭にカイとバシュがつく。
井戸汚染で失った時間を取り戻すなら、日暮れ前に東の石橋を越えなければならない。
「昼休みを削れば届く」
ナディアが馬上で言った。
「騾馬が先に倒れる」
「井戸で三日休んだでしょう」
「休んだのは荷車だ。騾馬は水樽を運んでいた」
「では、話を短くして」
ナディアが指した先に、第三里程標が立っていた。
二日前、汚染犯から押収した測量図には、この標から北へ外れたところまで薄い線が引かれていた。街道ではない。雨季だけ水が走る涸れ谷だった。
捕虜は、もう一隊が道の外にいると言った。
脅しだけかもしれない。捕虜自身、場所を知らない可能性もある。だが、共同隊商が再び襲われれば、一か月の試験契約は半月も持たずに終わる。
カイは馬を下り、里程標へ右手を触れた。
石の中で、低い震えが幾重にも重なる。
今朝この道を通った自分たちの車輪。西へ向かった小さな家畜群。昨日、ネレイから来た荷車。さらに遠く、東の仮橋に残る補強材の軋み。
大きな断絶はない。
多数の馬が街道を横切った強い乱れも感じない。
「どう」
ナディアが聞いた。
「道はつながっている。ここを通った大きな一団も——」
カイは言葉を止めた。
言えるのは、標同士の反響に大集団の通過らしい乱れがないことだけだ。
谷底を歩いた十五人は、大集団か。二十人なら。馬を引き、石の多い斜面を一人ずつ進めば、どれほど標へ響くのか。
反響がないことを、安全と置き換えかけていた。
「何もいない?」
隊商護衛の一人が尋ねた。
「分からない」
「今、いないと言いかけたぞ」
「俺に分かるのは、標と井戸の間で道がつながっていること、大きな損傷の方向、最近の大きな集団通過らしい揺れだ」
カイは標から手を離した。
「人数は分からない。誰かも、敵意があるかも分からない。街道から離れた谷は、何も分からない」
「それでは何のための路守だ」
護衛は苛立った。
「荷車を守るためだ。分からない場所を、分かると言って進ませないためでもある」
ネレイまで急げば、今日の市場に間に合う。ここで通常の偵察を出せば、少なくとも半日は失う。東の石橋を夜に渡るか、街道上で野営することになる。
「先行斥候を涸れ谷へ回す」
カイは決めた。
「隊商はここで止める」
荷車の列から不満の声が上がった。
ナディアは計算玉を取り出し、一つ、二つと動かした。遅れた日の宿代、餌代、市場の値下がりを数えているらしい。
「私には、今の説明を帳面へ書ける形でして」
「説明した」
「もっと短く」
カイは考えた。
「反響は危険を見つけることがある。危険がないとは証明できない」
ナディアはそのまま蝋板へ刻んだ。
「半日遅れね」
「そうなる」
「損失も記録する。伏兵がいなくてもよ」
「書いてくれ」
「伏兵がいたら、護衛料を値切らない」
*
バシュは斥候四人を連れ、涸れ谷の西口へ回った。
カイは別の二人を東口へ出す。谷の中へ両側から入らず、高みから見下ろすよう命じた。残りは荷車を木陰のない街道脇へ寄せ、車輪留めを入れる。
正午の日差しが、止まった一行を焼いた。
日除け布の下でも空気は熱い。騾馬は口の端へ泡をつけ、御者たちは水袋を一口ずつ回した。空車であっても、十七台は長い。最後尾から先頭の合図は見えない。
「いつ動く」
「斥候が戻ってからだ」
同じ問いに何度も答えた。
そこへ、羊の群れが東から来た。
痩せた羊を追う老人は、街道を塞いだ荷車を見て舌打ちした。
「市場へ行かないなら、半分空けろ」
カイは荷車を寄せさせ、老人に涸れ谷のことを聞いた。
「北の白岩谷か。羊も入れん」
「水がないからか」
「狼から見えないからだ。上は狭いのに、底へ入ると枝が三つある。昔、盗賊が荷を隠した」
老人はサミルと名乗った。タルサとネレイの中間にある小集落から、羊毛を売りに行く途中だという。
「東から谷底へ入る道はあるか」
「人ならある。荷車は無理だ。南の尾根に羊道がある。白い石の割れ目を抜ければ、谷を上から見られる」
地図には、その羊道がなかった。
カイは残る斥候二人へ、サミルと南尾根を確かめるよう頼んだ。
「わしの羊はどうする」
「隊商の最後尾を空ける。見張りも付ける」
「羊は荷車の番など信用せんぞ」
「俺より賢そうだ」
サミルは鼻を鳴らし、杖で南を示した。
*
最初の合図は、南尾根から上がった。
鏡が二度光る。人影あり。数は不明。
続いて東口の斥候から、谷の外へ出る足跡を見つけたと伝令が来た。街道へは達せず、礫の斜面を戻っている。
最後にバシュが戻った。
「十六人。弓が六、短槍が十。谷の西枝で待っている。街道へ出るところを横から射るつもりだ」
「見つかったか」
「まだだ。あいつらは里程標を避けて、北斜面から入った」
反響が何も告げなかった理由が、谷の形として目の前へ出た。
こちらは護衛十四人。数だけなら戦える。だが、荷車を守りながら谷口を抜ければ、最初の矢で騾馬が暴れる。空車一台が横転すれば、後ろの十六台も止まる。
「南の羊道を使えるか」
カイが聞いた。
サミルは首を振った。
「車は通らん」
「人だけ南尾根を越え、東の街道へ出られるか」
「日が落ちる前なら」
カイは地面へ線を引いた。
荷車を戦わせる必要はない。伏兵に、荷車が来ると思わせたままにすればいい。
日除け布を巻いた棒を騾馬へ載せ、遠目には小さな荷列に見せる。バシュと護衛六人がそれを率い、西から谷口へ近づく。射程へ入る前に止まり、発見したことを示す。
その間に、本隊は一里戻って南へ折れ、硬い塩地を迂回する。道ではないが、サミルが冬に羊を通す平地なら車輪は沈まない。
「敵を追い払える」
護衛の一人が言った。
「追い払うだけでいい」
カイは答えた。
「荷車をネレイへ入れるのが仕事だ」
*
迂回には、予想より時間がかかった。
塩地の割れ目へ車輪が落ちるたび、全員で持ち上げた。羊毛を詰めた布で轍を埋め、騾馬を二頭ずつ付け替える。西の谷口から角笛と、遠い怒声が聞こえた。伏兵は囮へ気づいたが、南尾根を越えて車列を追う時間はない。
バシュたちは一矢も受けずに離れ、本隊へ合流した。
東の石橋へ着いたとき、日はもう地平に触れていた。
市場には間に合わなかった。夜間通行を避け、橋の東で野営した。失ったのは半日分の餌と、翌朝までの商機だった。
失わなかったのは、荷車十七台と、そこに乗る全員だった。
「護衛料は値切らない」
火の前で、ナディアが言った。
「伏兵がいたからか」
「分からないと言えたから」
カイは返事をしなかった。
路守だから信じられたのではない。路守にできないことまで話した後で、判断を選んだ。そのことを信じられたのだと、少し遅れて分かった。
*
翌朝、共同隊商は一台も欠けずにネレイへ入った。
門内では市場の呼び声より先に、武装した水役家の者たちが待っていた。
中央に、白い長衣と銀の帯を着けた男が立っている。五十を越えた顔は日に焼けておらず、整えた顎髭にも砂が付いていない。
ナディアが小さく言った。
「ハリム・サーレク。水役家の当主」
ハリムは商業評議会の印を掲げた。
「路守カイ・レヴァル」
声は、門前の群衆へ聞かせる大きさだった。
「偽りの雨で民を動かし、穀物市場と水利秩序を乱した疑いにより、公開審理まで身柄を拘束する」
共同隊商の行く手へ、槍が交差した。




