第10話 毒された道
街道井戸の上には、油が薄い虹を作っていた。
カイが着いたとき、最初の共同隊商は井戸から百歩離れた風上に止まっていた。荷車は半円に並べられ、中央の日陰に人が三人寝かされている。その周囲で騾馬が二頭、腹を地面へ打ちつけるようにもがいていた。
「飲んだのは」
「人が三人、騾馬が四頭。臭いに気づく前だ」
先に戻った斥候が答えた。
治療係は、意識のある者の口を清水で洗い、少量ずつ飲ませていた。年嵩の御者は吐き、少年は腹を抱えて震えている。残る一人は唇を噛み、吐き気に耐えていた。
カイは少年の脇へ膝をついた。
「名は」
「ルハン」
「どれだけ飲んだ」
少年は片手で示した。掌一杯か、二杯か。震えていて分からない。
「桶に死骸は見えなかった」
ルハンは、責められると思ったらしい。
「汲んだときは、少し灰色だっただけだ」
「お前のせいじゃない」
言いながら、カイは井戸を見た。
石積みの縁には、タルサとネレイ双方の封印紐が切れて落ちている。共同隊商のため、二日前に水量を調べたときは異常がなかった。今は、引き上げた桶の内側へ黒い油が貼りつき、灰と獣毛が水面を回っていた。
井戸の傍らには山羊の死骸が一頭、腹を裂かれて押し込まれている。底にはもう一つ、白くふやけたものが見えた。
「自然に落ちたんじゃないな」
バシュが言った。
井戸から北へ、複数の足跡が伸びている。乾いた斜面を上がり、低い丘の裏へ消えていた。馬は三頭。徒歩は少なくとも五人。油壺を置いた丸い跡と、灰袋を引きずった筋も残っている。
日の高さを見れば、夜明け前の仕事だった。
「まだ追いつける」
斥候の一人が言った。
同じことを、カイも考えた。
敵は重い壺と袋を捨て、北の荒地へ逃げている。こちらには休ませた馬がいる。バシュと六人を連れれば、日暮れ前に丘陵の出口で捕まえられるかもしれない。
捕らえれば、誰が命じたか聞ける。
西峠で商人を装っていた者たちと結べる。井戸を毒した者を、住民の前へ連れて帰れる。
「追撃は八人で足りる」
バシュが足跡を見たまま言った。
「残りで患者を運べ」
カイは答えず、隊商を見回した。
車列には、この井戸で一日分の水を足す予定だった空樽が並んでいる。次の井戸まで進めても、四十頭を越える馬と騾馬へ飲ませる水がない。来た道を戻ればタルサまで半日。倒れた三人は荷車の揺れに耐えられないかもしれない。
井戸を封じたままなら、明日来る別の旅人が、封印紐の切れた理由も知らずに飲む。
「敵を見つけたら、何人残っている」
「ここに十二人。御者を数えなければ」
「井戸を直す者は」
「……いなくなる」
「追わない」
カイは汚れた井戸へ視線を戻した。
斥候たちの顔に、納得できない色が出た。
「井戸を封鎖する。倒れた者をタルサへ運ぶ。飲める水を別の樽から回し、汚れた層を今日のうちに出す」
「毒を入れた奴が見えているんだぞ」
「見えていない。足跡があるだけだ」
「丘の向こうまで半刻だ」
「半刻追えば、戻るのは一刻後だ。戦って負傷者が出ればもっと遅れる。道を殺しに来た連中を追って、俺たちが道を捨てるな」
言い切ると、胸の奥に鈍い痛みが残った。
父を死なせた砂嵐にも、追える足跡はなかった。今はある。逃げる背を捕らえ、答えを吐かせる場面が、まだ見えない丘の向こうにあるように思えた。
それでもカイは、井戸の縁へ封鎖の赤布を結んだ。
*
追撃の代わりに、イルヴァンともう一人だけを遠見へ出した。
「戦うな。丘を越えた方角と人数を見る。離れた者がいて、二人で安全に取れるときだけ捕らえろ」
「全員を追うな、ですね」
イルヴァンは二十一歳の斥候で、十二人の中では一番馬を疲れさせずに走らせる。命令を繰り返してから、北の丘へ向かった。
残った者は井戸を二重に囲った。
外周には赤布と、旧帝国共通語と地域語で「飲むな」と書いた板を立てる。文字を読めない者のため、黒く塗った桶を逆さに描いた。東西の街道へ二人ずつを走らせ、次の里程標にも警告を結ばせた。
患者は荷車の寝台へ固定した。一台を空にするため、大麦袋を三台へ積み替える。ナディアは自分の荷の縄を切らせ、治療係の指示どおり清水樽を出した。
「この樽は売り物よ」
彼女が言った。
「記録する」
ミラが答える。
「値段も?」
「緊急使用量と、平時の売値と、あなたが実際に請求する額を別々に」
「なら、無償と書いて。共同隊商の護衛範囲で出た患者よ」
ナディアは少年へ水を含ませる治療係を見ていたが、その内心をカイには読めなかった。
井戸の復旧は、死骸を引き上げるところから始めた。
口と鼻を布で覆い、縄に鉤を結ぶ。山羊の死骸は水を吸って重く、石壁へ擦れるたび毛と脂が剥がれた。もう一つは野犬だった。腹へ灰を詰め、脚に石を縛ってある。
ダリヤがいないため、カイは井戸守の経験があるオルムの手順を思い出した。油の浮いた上水を汲み、土を盛った穴へ捨てる。飲用の流れへは戻さない。水位を急に下げすぎれば井戸壁が崩れるため、一定の高さで止め、底から新しく湧く水を待つ。
石積みに油が染みた上層は、一つずつ外した。
外した石を灰で洗うことはできない。灰も井戸へ入れられている。砂で擦り、煮沸できる道具は煮沸し、油臭の消えない縄と桶は焼却用に分けた。
「今日中に飲めるか」
御者が尋ねた。
「飲ませない」
カイは答えた。
「臭いが消えても、試料をタルサとネレイで別々に確かめる。それまでは封鎖だ」
「それじゃ道が止まる」
「別の水を運ぶ。荷を減らして水樽を積む」
食料を運ぶ車から食料を下ろし、水を運ぶ。道を生かすために運べる量が減る。敵が一壺の油で奪ったのは、井戸の水だけではなかった。
*
午後、タルサから交代の作業員と空樽が来た。
患者を載せた荷車はその護衛とともに先に戻した。少年はまだ青い顔をしていたが、自分で水を飲めた。騾馬の一頭は立てず、日陰で荒い息をしている。残る三頭は脚を震わせながらも起きた。
カイは井戸脇に残り、汚染水を汲む列へ入った。
桶を下ろし、引き上げ、離れた沈め穴へ運ぶ。同じ作業を何十回も繰り返した。掌の皮が剥け、油の臭いが髪と長衣へ染みついた。
敵を捕らえたという知らせは、なかなか来なかった。
日が西へ傾き始めたころ、丘の上に馬が二頭現れた。イルヴァンたちだった。その間を、手を後ろへ縛られた男が歩いている。
「一人だけ離れました」
イルヴァンが報告した。
「足を痛めた馬を捨てようとしていた。残りは北西へ七人。追っていません」
捕虜は二十代半ばに見えた。商人の褐色外套を着ているが、下の革鎧は同じ幅の札でそろい、靴底には北方軍が凍土で使う横鋲が打たれていた。
持ち物を、ミラが立会人二人の前で一つずつ並べた。
水袋。火打石。銀貨七枚。柄に狼の歯形を刻んだ短い刃。細く畳んだ測量図。荷を縛るには短すぎる、青と灰色の紐。
バシュが、その紐を見た瞬間だけ息を止めた。
「知っているのか」
カイが聞いた。
「北方の軍用結びだ。濡れても解ける。青が水、灰が妨害済みの印」
バシュは短い刃を裏返した。
「これはセヴラン領の支給品だ。兵站兵へ配られる」
「なら、辺境伯の兵か」
「刃は盗める。紐は真似できる。死体から剥いで、俺たちに持たせることもできる」
「だが、お前は迷わず用途まで分かった」
バシュの指が、刃の背から離れた。
「昔、似た物を見た」
それ以上は言わなかった。
測量図には、タルサからネレイへ続く道と三つの街道井戸が描かれていた。汚した井戸には斜線。残る二つには丸。地図の端に部隊名も命令者の印もない。
証拠は北を指していた。
だが、誰の命令かまでは指していなかった。
*
捕虜へ、同じ質問を別々に三度した。
名、所属、井戸へ入れた物、命令者、残る人数。
男は名を言わなかった。刃は街道で拾った、測量図は売るために持っていた、井戸のことは知らないと答えた。
日没前、井戸から汲み上げる水の表面から、目に見える油はほぼ消えた。臭いは残っている。封印は解けない。
カイが赤布を増やしていると、捕虜が初めて笑った。
「道ばかり見ているんだな、路守」
カイは振り返った。
「何がおかしい」
「追わなくて正解だった。追っても、片方しか見つからない」
バシュが男の胸倉を掴んだ。
「もう一隊、どこにいる」
「道の外だ」
男は歯を見せた。
「お前たちの石が、何も言わないところにいる」
カイは井戸の縁へ手を置いた。
路の反響は、街道を通った大きな揺れを低く返している。タルサへ戻る荷車。東へ進めずにいる隊商。北へ逃げた一団。
井戸から離れた涸れ谷の沈黙は、何も返さなかった。




