13-6 風船が爆ぜるような音
木崎教諭は、この突然現われた女生徒に戸惑っていた。
床に寝転がって居る全裸の男子と、同じく裸身の女生徒が傍らに在り、更に隣に男性教師までもが居る。どう見たって真っ当な光景じゃない。普通なら絶句して立ち竦むか、声を荒げ問い詰めたりするものではないのか。
だがこの女子は取り乱したりなどしない。落ち着き払い、素っ気なく教室内を見回す余裕すらあった。そしてじっとコチラを見定め、値踏みするのである。
なんだ、この生徒は。
普通じゃないと何かが囁き、肌が粟立った。理由は分からない。だが頭の芯から血の気が失せる感触が在った。
「邪魔だ」と少女は呟いた。目線は木崎を見据えたまま。だが、言の葉の先は明らかに素裸の女生徒に向けられていた。
「でもまだ、わたしはその子を吸い上げていない」
「それとも一緒に狩られたいか。おまえたちは便利だが喰わない訳じゃないぞ」
「……下がってます」
霧林という名の女子は教室の隅、暗がりの中へと引き下がっていく。戸惑う木崎は視線だけで彼女を追い、目の前の女子にはただ問いかけることしか出来なかった。
「おまえたち、顔見知りか。ひょっとしてこの有様、何か知っているのか」
「ただの優先順位、強いか弱いかの差だけです。先生はもう何も気にする必要はありません。ただそこに立っていれば良い。直ぐに済みます」
唇を蠢かしながら、女生徒はするすると歩み寄って来る。日本語を話しているのに外国語を聞いているような違和感があった。
意味は確かに通ずる、だが、ただ不規則に鳴る無意味な音の連なりにしか聞こえない。
いや、もっと正確に言うのならヒトが話しているのかすら怪しかった。見た事もないイキモノがヒトの声を真似て唸っている、それが一番順当な表現であるのやも。
「いったい、何を云っている」
呟くように木崎は問う。知らぬ間に、じわりと自分の足が後退っていた。
足音もしない静かなその足の運び。教室の窓からは校庭の端に立つ常夜灯の明かりが差し込み、ボンヤリと自分と少女を照らしている。
暗がりの中から歩み寄る正体不明の、「何か」。
不意に自分の中の何かが警鐘を鳴らしていた。
逃げろ、と喚いて肩を叩いていた。
目の前に居るのはただの、ごく普通の女生徒だというのに。
「まて、ソコで止まれ。さっきの先生の質問に答えなさい、そして学年と氏名を言いなさいっ」
「お静かに。まぁ、大声を上げたところで何処にも聞こえませんが」
ずい、と踏み込む様に押されて後退ったのだが、離れるどころか逆に距離を詰められ、そのまま腕を握り締められた。
その握力の強さたるや。
ゴキリと鈍い音。
「ぐあっ」
反射的に悲鳴が洩れた。この激痛、折れたと確信する。離れようと身じろぎした。だが逃げられなかった。と同時に、そんな莫迦なと混乱するのだ。こんな細い腕の何処にこれ程の力が。
更に引き寄せられ、もう片方の腕も同じ様に握りつぶされた。再び悲鳴が上がり、叫び声が教室の中に響いた。激痛に相応しい絶叫だった。
だが響くだけ。閉じ込められた声が反射して自身に帰って来るだけだった。
まるで、金庫の中にでも閉じ込められたかのような閉塞感。有無を言わさぬ絶対のナニかに封をされ、世界の全てから切り離された。そんな孤立を確信するのだ。
「止めないかっ」
叫ぶ。男性教師は「放せ」と身悶える。必死になって足掻き続ける。
だがただ足掻くだけ。まるで万力か油圧で動く機械に挟まれたかのように、少女はビクともしないのだ。
「いたぶるのは趣味じゃない。でもたまになら悪くないかも。両腕を引き千切られて激痛に悶え死ぬのと、喉を噛み破られて悶絶死するのと、先生はどちらがお好み?」
頭一つ小さい少女が顔の直ぐ下で囁く。
甘い声は何処か歓喜の色合いが在って。
舌舐めずりするニュアンスすら漂って。
「は、放しな、ぐが、ぁああっ」
一際大きな折れる音。
木崎の言葉は増した握力によって握りつぶされた。曲がってはならぬ箇所が折れ曲がり、掌は奇怪な角度へと向きを変えた。
「放してくれ」と喚いた。「たのむ」と叫んだ。
完全に裏返り切羽詰まった者の絶叫。
悲鳴とない交ぜになった悲痛なまでの懇願。
「聞きたいのは質問の答えよ」
少女は重ねて問う。
彼は激痛の中で無我夢中に足を蹴り上げた。蹴り飛ばして少女を突き放すつもりだった。一度だけでは無い、何度も何度も蹴った。渾身の蹴り込みだった。
この拘束から離れようと、まさに力の全てを振り絞った蹴りだった。
だが無意味だった。少女の身体は、一回りは大きな男性の蹴りを幾度受けようともビクともせず、ただ鬱陶しそうに「やめてよ」と軽く鼻先で笑うだけなのである。
「大の大人がみっともないわ」
弄び嘲るその物言い。
そして「選ぶ余裕が無いのなら選んであげる」とクスクス声で囁くと、大きく口を開き、木崎の上体を引き寄せる。一瞬、ズラリと並んだ鋭い牙が見えたのは、果たして錯覚だったのかどうか。
そして少女のようなモノは喉笛に齧り付いた。
ぶつり、と肉を噛み切る音。
今度は、叫びにならない叫びが教室に響いた。
男性教師は痙攣する。
スラックスの股間に黒い染みが拡がってゆく。
漂うのはきついアンモニア臭。
喉笛を食い千切られ、そのまま床に蹴倒された。
喉仏と声帯とを丸ごと失い、甲高い笛を吹くような音が鳴った。傷ついた頸動脈から吹きだした血潮が肺の呼気に煽られて、まるで霧吹きのような様となった。
声と為っていたのなら、これは間違いなく魂消るばかりの絶叫であったはず。
「ぎゃはは」と笑う声が在った。
「すごいすごい、噴水みたい」
木崎の喉の肉を嚥下し終え、少女のようなモノは手を叩いてはしゃぐ。
実はさほど腹は空いていない。狩りをするつもりすらなかったが、血の臭いに誘われ興を得て、ふとテリトリーを徘徊していたダケのこと。
だが暇潰しをしたかったのは間違いない。だからこそこうしてヒトのように遊戯にかまけ、面白可笑しく獲物を嬲るのだ。
随分と長い時間狩りを繰り返し、ヒトを喰い続けた。同種の中では古株と言ってもイイ。ヒトに紛れる時間が長かった故に、ヒトによく似た性情すらも身に付いてしまったヒト為らざるモノ。
或いは、そこまで巧みに擬態出来たが故に生き長らえることが出来たと、そう言い換えても良かった。
「ついでに腕も引き千切ってみようかしら。それが終わったら反対の手も。足もオマケに。両手両足が無くなったらどれだけの血を吹き出してくれるのかしらねぇ」
はしゃぐソレは調子に乗った。
この教室は自分の縄張り。邪魔するモノなど何も無いと確信していた。だから面白可笑しく獲物に歩み寄る。盛大に血を吹き出してもう長くは無いだろう。だから悶える内に楽しもうと思ったのだ。
木崎の折れた腕を千切ってやろうと掴んだ途端、教室を揺るがしたのは蹴破られたドアだった。
派手な音を立てドアが吹き飛び、向かい側の窓を突き破って外へ飛び出してゆく。
間髪置かず、闇の中から飛んできた白閃が足元に突き刺さった。
コンクリートごと分断せんが如き勢い。床の塗面が割れて飛び、コンクリートの破片が舞い散った。
掴んでいた教師の腕を離し、泡を食った少女のまがい物は慌てて飛んで避けた。
だがソレはいささか反応が鈍かろう。狙いがもっと正確であったのなら、刺さったのは床ではなくソレの背中であった筈だ。
何が飛んできた?
見れば、突き刺さった大振りなモノが夜光を跳ねて光っている。
それは巨大な鉈だった。
「ふざけたヤローだ」
声が聞こえた。
壊れた教室の入り口には女生徒と思しきシルエットがあった。
蔦を思わせる髪がたなびき、某かを押し殺した呟きだった。だがその言の葉の裏側にあるモノは判る。
間違いなく憤怒だ。
踏み込んだ人影はチラリと男性教師に視線を落とした。両腕があらぬ方向に曲がっていて、喉が噛み破られていた。その出血と傷の有り様に歯噛みする。
彼は不自由に床の上で藻掻いていた。尋常為らざる激痛に、ただ藻掻く。恐らくこの場でいま何が起きているのかも理解出来てはいまい。
確かにまだ生きてはいる。生きてはいるが……
ギリリと奥歯が音を立てた。
ただ狩るだけならば、即死させる方が都合が良い。
だがコレは明らかに違う。
「腹を満たす為じゃ無く、弄んで楽しむ為に殺すのか」
藻掻く様を眺めて、それを囃し立てて嗤うのか。
「なんだ、なんだ。驚かすじゃないか。ただの生徒じゃないか。よくココが判ったもんだ。それともただの当てずっぽう、迷子に為ったかい?あるいは気まぐれか」
落ち着きを取り戻した少女的なモノは得意げだった。再びケラケラと笑い始めて居た。この自分の餌場、テリトリーの中でナニをふんぞり返って居るのかと見下す様が在った。
「でもまぁいいや。ソコの壊れかかった玩具よりも生きが良さそうだ。今宵は一晩掛けてオマエで遊んでやろう」
「なるほど確かに、オマエは他のアレとはひと味違う。大した化けっぷりだね。そっくりだ、本当にヒトそっくりだよ」
擬態の完成度から言えばむしろ、「極めて高度」と評するに相応しい。
「まさに下衆そのものだ」
「さえずりが五月蠅いね、流石は現役のお子様。じゃあ先ず手始めに、その舌を引っこ抜いてやろ……」
ソレは最後まで台詞を口にすることが出来なかった。何故ならば、その少女もどきが知覚できぬ程の速度で踏み込まれ、気付けば自分の喉に小娘の指が五本、その半ば程まで喰い込んでいたからだ。
「がっ!」
尋常為らざる握力。
反応すら出来ずに口元から体液を拭きこぼす。
「さえずりが五月蠅いのはキサマだ。耳が腐る」
赤い手術痕を浮かび上がらせた顔が見上げていた。ギリギリと自身の首を問答無用に締め上げている。
馬鹿な、と足掻いた。そんな筈はあるまいと藻掻いた。このわたしが、長年にわたって潜み続け餌を狩り続けた自分が、こんな小娘に不覚を取るなど。
指が更に喰い込み、ブチブチと首の中でナニかが引き千切られる音がする。喉笛を握りつぶされて、声どころか悲鳴をあげることすらままならない。
止めろと暴れた。
喉仏ごと声帯がつぶれて声は出なかったが、とにかく暴れた。蹴り飛ばしてコイツから離れようと足掻いた。全力を込めて足を奮い、何とかこの拘束から離れようと暴れ続けた。
暴れる、暴れる、ただ必死になって暴れる。
一撃で成年男子の大腿骨をもへし折る足蹴り、容易く両腕の骨まで砕く握力、片腕で瞬時に首をねじ切る膂力、その全てを奮って暴れ続ける。死力を尽くすという言葉がまさに相応しい、全身全霊をもっての抵抗。
だのに、どうにもならない。
突き放すどころか揺らぎもしない。蹴り飛ばそうにもまるでコンクリートの柱でも蹴るかのよう。喰い込んだ指先は猛獣の足に噛み込む鋼鉄製のかぎ爪の様に、更に強く喰い込んでビクともしないのだ。
その有様は紛うこと無く、数分前の男性教師のソレだった。
捉えられねじ伏せられて、術無く身悶えるだけの無力な獲物だった。
そんな馬鹿な、と喘ぐ。
ヒトにこんなコトが出来る訳が無い。小娘如きにねじ伏せられる筈が無い。このわたしがこんな目に会うはずが無い。間違いだ、こんなのはゼッタイに間違って居る。餌は餌らしく大人しく狩られるのが役目だろう。
足掻く、足掻く、必死に為って足掻く。
それはまるで丘に上がった若鮎が術無く全力で跳ね回るにも似る。
だが、首に食い込んだ指は微塵も揺るがない。
オマエは、わたしに喰われなきゃならないんだ。
声なき声でソレは叫ぶ。
オマエは、わたしに殺される側なんだ。
その正当性を叫ぶ
オマエは、わたしの餌なんだ。
この不条理を叫ぶ。
ソレがオマエの役割なんだよっ。
悲痛な絶叫、だが世界は何も応えはしない。
ソレを吊上げる少女は「失せろ」と短く呟やいた。
直後、瞬間的な握力の爆発。
鼻腔や眼窩からも体液が噴き出し、ヒトによく似た思惑がその脳髄を駆け巡ったのは刹那。
力任せに頸椎をへし折る。
そしてそのまま膂力の全てを込め、文字通り力任せに脳天から床に叩き付けるのだ。
轟音。
水で膨らんだ風船が爆ぜるような音が付帯し、頭蓋は一瞬で消えて失せる。
訪れるのは唐突な沈黙。少女だったモノはもう、首から下しか残って居なかった。
邑﨑キコカがココに踏み込んで、九〇秒にも満たぬ間の出来事だった。




