13-5 もう一匹居る
木崎教諭が異変に気付いたのは、ほんの少し前のこと。
試験答案の採点が長引き、外界はもう完全に夜陰の中へ沈んでいた。自分以外に人気は無く、しんと静まり返ったコンクリート製の空箱が闇の中に居並ぶだけである。だがこの状況は半ば彼が希望し選んだ状況でもあった。
一〇日ほど前に校長に頼み込んで、生徒が全て学内から出払うまで居残らせてくれと頼み込んだ。最初は渋っていたものの何とか口説き落とし、最近は校内に人気が全て失せたのを確かめてから帰宅することにしている。
あの「女生徒」とやり取りをして、落ち着かない気分が更に落ち着かなくなったからだ。
何かしらの目当てが在る訳では無い。裏付けする仮説や予測が在る訳でも無い。学内で何かが起きているのでは無いかというあやふやな予感に突き動かされてと、ただそれダケの話。
お陰で、漆黒の校舎に最後の施錠を行って帰宅するのが最近の日課と為っていた。
とは言え流石に本日は長居し過ぎだろう。もう深夜に近い。この辺りにしておこうと、片付けを始めたときである。
不意に、何処からかガラスの割れる音が聞こえた。手を止め耳を澄ませた。だがそれ以上は何も聞こえない。実習棟の辺りかと見当を付け、職員室を出、LED懐中電灯を片手に見回る内にドアの開いた教室を見つけた。そしてこの有様に出会したのである。
窓は割れて風が舞い込んでいた。なるほどコレが先ほど聞こえた音かと合点が着き、その一方で床に黒っぽい液体がぶちまけられていた。部屋の片隅に太くて歪な棒状のものが転がって居る。
よもや、腕、か?
鼻を突く鉄臭い異臭に惑い、思わず鼻と口元を覆った。しかも当の少年の首は向いてはならぬ方向に折れ曲がっている。一瞬で血の気が引き、くらりと目眩がした。
呆然と立ち尽くすそんな男性教師に少女は語る、ただ語り続ける。何の気負いもない淡々とした説明口調だった。
「喰われる前の餌を頂いてました。正確にはお肉ではなくて、彼の容姿と今まで生きてきた生活の一切合切、なんですけど」
ほらこの子、汚れてベトベトでしょう?服が汚れるのはイヤなので全部脱いでみました。ご安心を、コレは全部返り血です。わたしやこの子は傷なんてありません、キレイなままです。
そう説明したのだがどうにもお気に召さなかったらしい。「担任教師」さまの目は見開かれ、口元が戦慄いていた。泣いている様にも見え、怒っている様にも見え、実に名状しがたい表情だった。
「なにを訳の分からないコトを言っている霧林。自分がいま、何をしているのか判って居るのか」
「彼は死んでしまいました。このままでは彼の居場所が空いてしまいます。ですから、わたしがその代役を務めて差し上げましょうと、そういうお話なのです」
ふと立ち寄った教室の中で、彼は既にこの状態だったのです。ですからわたしはこの床を汚した訳ではありません。わたしの代役はご心配なく。じきにおかわりがやって来ます。クラスの席は無駄になりませんよ。
ああひょっとして、更衣室でも無いのに服を脱いでいるのがいけないのでしょうか。体育でもないのに制服を脱ぐのは校則違反、そういうコトで?
「でも生徒手帳には、教室で裸になるなとは書いてなかった」
「そういうコトを言っているんじゃない!」
たまらず爆ぜた。
そして自身の吐き出した怒声に勢いづくと、づかづかと教室に入り込むと「離れなさい」と遺骸に跨がる少女を力尽くで引き剥がした。
そのまま腰を屈め、念の為に少年の首筋で脈を取る。だがやはり反応など何も無くて、指先に伝わるのは仄かに残る体温ばかり。見開かれた眼は虚空を眺め横顔に生者の気配など微塵も無く、事切れているのは間違いないと知るだけだった。
もう、この子は逝ってしまっている。その事実にどうしようも無いやるせなさが滲み、絞り出す重い溜息が洩れた。
「先生、まだわたしの用事が終わってない」
「そんな場合か。早く服を着なさい。直ぐに警察を呼ばなければ。霧林、おまえも一緒に残ってもらうぞ。この状況を説明してもらわなきゃならん。ご両親にはわたしから連絡を入れておく。そうだ、校長にもこの事を……霧林?」
スーツのポケットからスマホを取りだそうとして、木崎は傍らの女生徒の様子に気が付いた。
素裸の彼女はボンヤリと立ち尽くしていた。あさっての方角を向いて虚空に視線を彷徨わせている。まるで、遠くから聞こえる某かに耳を澄ませているかのようで。
「先生、早くこの教室から逃げた方がイイ。先生の身代わりはまだ呼んでいないから」
「……何の話をしてる?」
「あ、遅かった」
教室の入り口を見やった少女に釣られ男性教師も振り返った。するとソコには人影が在った。いつの間に来たのだろう。気配すら感じなかった。
それは見知らぬ一人の女生徒だった。
少女はコチラを凝視する。沈黙したまま身じろぎすらしない。恐らく思いもしない場面に出会し呆然と立ち竦んで居るに違いない。無理もなかろう、今しがたの自分がそうであったのだから。
「どうした、こんな時間に。忘れ物か?ああ、この状況な。驚いたか?いや驚くよな。先生も今しがた見つけたばかりなんだ。これから警察を呼ぼうとして……」
そこまで話して気が付いたのは、その女生徒の反応だった。
最初は埒外の場面に出会して硬直しているのだと思った。
だが、何か違う。直感と云ってもいい。こんな非日常な光景、たとい悲鳴にはならずとも、眼差しなり表情なり普通はもう少し取り乱すものではないのか。
感情の波が微塵も感じられなかった。偶然この場に出会したにしては随分と落ち着いている。
なんだ、この子は。
一言で云えば不自然。誤解を恐れずに言えば異様。
まるで事前にこの惨状を知っていたかのような。
「おい、笑っていい場面じゃないんだぞ。それよりも、もう遅い。ここもこんな有様だ、早く帰りな……あ、いや、一人では物騒だな。警察の方や学校職員の方々が来たら家まで送ろう、ちょっと待っていなさい」
だがその言葉が届いているのか居ないのか。少女はジワリと顔を歪め、その笑みを更に深くするのである。
「ああ」
うっとりと内緒話をするように少女は囁く。「思わぬ収穫」という台詞は確かに聞こえた。
「でも、一晩に二体は流石に多い。保存しても良いけれど、基本腐肉は口に合わないし、食堂に食い残しを積む趣味もないし」
「?何の話をしている」
「でもまぁ、たまにはそんな贅沢もいいかな」
少女は教室に踏み込み、後ろ手で引き戸をばしゃんと閉めた。
途端、ぱちんと切り落とされたような感触。唐突に外とのつながりが失せ、この暗い教室に取り残された様な違和感が在った。
「なにっ」
邑﨑キコカは反射的に足を止め、振り返った。
瞬間的な遮断を感じ取ったからだ。
いや気付くというよりも、むしろ、脳髄へ直に打ち込まれるヴィジョンという方が正しかろう。
獲物を追うことを中断、直ぐさま感触の在った方角へ集中。さすれば、己の既知の世界、自分の視野が一気に拡大する感覚があった。
環境空間把握能力、そんな名前が付けられている。
意識すれば、「その場に存在する全てを知覚する」ことが出来た。距離と範囲の制限こそ在れど、遮蔽物は問題にしない。どれだけ巨大で密度が高く分厚い物質であっても、コレが阻害されるコトなど無かった。
レーダーやソナーにも似るが、根本的に異なる。それらの科学技術で知り得るのは物体の表面だけで、その内部の意図や蠢きまでをも覗くことは出来ないからだ。
次に何が起きるのか。どの様な反応をし、どの様な動きをするのか、これから何をしようとしているのか。それら全てを瞬時に察知出来た。
ひいて言うなら極めて正確な直感である。ほんの数秒後、これから起きることの全てを「過去に体験したこと」のように対処出来る。
その精緻さ故に、意図してない偶発性の予見すら容易かった。
淵から意図して引き上げられた自分だけが持つ、比類なき特殊技能。
だがそんな御託などどうでもいい。持って居るから使う。使えば助けられる者の数を増やすことが出来る。
ただソレだけだった。
睨んだ対象に意識を集中。
途端、校舎内における生物と非生物、現時点における目標の全てを走査。その「すべて」が流れ込んでくる。
建物の大きさから始まり柱の本数、間取り、部屋の寸法、面積体積、窓の場所と数、壁の厚みや中を走る鉄骨や電線、コンクリートの密度に、床に塗られたエナメル塗料の厚み。そしてその中で蠢くネズミ、蚊、ハエ、ダニ、全ての生き物の数、種類、形状、飛んでいる虫の羽音まで。
ヒトの把握ならもっと容易い。
性別、身長、体重、体温、体調、大人か未成年か。何処に何人居るのか、歩いているのか、止まっているのか、着ている服に呼吸や足音の種類。更に集中すれば瞬きの回数や心音、脈拍、消化器官の蠕動、手足を動かす筋肉の音や瞳孔の収縮、脳内の電気パルスすら判別可能。
子細漏らさず、その空間とその場に在るもの全てを掌握するのだ。
それは机の上に置かれた精密な箱庭、立体的なボードゲームを上から覗き込むにも似て。
くそっ!
舌打ちを一つ。歯噛みする。
間違いない。事前に確認した校舎内に不明瞭な箇所が増えている。たった今、この学内にもう一つ閉ざされた場所が出来上ったのだ。
スマホを取り出して相棒を呼び出した。
「デコピン、いま何処に居る。一匹に手傷を負わせた。あたしの原位置からそいつを追跡してくれ。急用が出来た。学内にもう一匹居るらしい。被害者が増える前にソイツを先に仕留める!」
伝達事項だけを伝えると返事も待たずに、いま来た方角へ向けて全力で駆け出した。




