第78話 ロバート、走る
盤には罅が入り、駒は傷がついて所々《ところどころ》欠けている。特に☆の損傷が激しく、きちんと形が残っているのは黒の★でそれもたった一個だけだ。
ロバートは損傷した駒に優しく触れながら、心の中でそれらの名前を呟いた。
(■、◆、●、★……。先生が来るまでは一つも知らなかった名前。それがもうすらすらと言えるようになったんだ……)
見栄を張って「リブームのことなら少しは知っている」と言った初日。
ティナに教えてもらってからは、自分がいかに無知であったかを思い知らされた。それと同時にリブームがいかに奥が深く、面白いものであるのかも知った。
(これ直して使えないかな……。父上もクイーズリーもすぐ新しいものを買ってくるけど、壊れた盤と駒を捨てて、あの日をなかったことにしたくない……)
思い出すと、辛いし、痛みもある。
けれど、あのとき本気でティナにぶつかったからこそ、今のロバートがいる。
そのため、できたら大切にしたいと思っていた。
「……」
ロバートは暫く壊れた駒をいじっていたが、ふと我に返り、先ほど注いだお茶のことを思い出した。
カップに触れると冷たい。温かいものを用意してもらったのに、すっかり冷えてしまっている。
「……」
気づくと空も雲も、ほんのり橙色に染まってきていた。日が傾き、夕方に近づいているのだろう。
(明日は先生の授業がある。午前中だ……。そうだ、もしかした先生なら壊れた駒の直し方を知っているかもしれない。尋ねてみよう)
ロバートが冷たくなったお茶を、くっと一気にお茶を飲み干したときだった。部屋の扉が少し激しく叩かれたのである。
訝しく思いながらも「はい?」と返事をして扉を開けると、メイとアレイが困り顔に目を潤ませ、今にも弾けそうな感情を押し殺して、彼の前に立っていたのである。
その瞬間、嫌な予感がした。それも、ティナに関することだ。
「ロバートさまに申し上げます。その……、明日のエジンさまの授業ですが、なくなりました。そして――」
メイが言ったことを引き継ぐように、アレイが震える声で続けた。
「エジンさまの授業は、以後組まれることはないそうです……」
「授業がなくなっただけじゃなくて、組まれることもないって……?」
ロバートは目を見張りながら聞き返した。アレイは短く「はい……」とうなずく。
「その話、誰から聞いたの?」
「クイーズリーさまです。先ほど、当主さまとお出掛けになる前に言伝としてお預かりしました。当主さまからは、『すぐに言えずに悪かった』と伝えてほしいと言われました」
「出掛ける前に……?」
「はい」
ロバートは呆然と立ち尽くした。そして徐々《じょじょ》に怒りが腹の奥から沸き上がるのを感じた。
(悪いなんて……これっぽっちも思っていないくせに……)
メイドに伝言をさせたということは、父は自分の口からも言いたくないし、クイーズリーに言わせることでもないということである。
また授業が組まれないのなら、ティナの家庭教師の仕事は終わったも同然。本来ならば、この話をする際に彼女と「さようなら」という挨拶をするのが筋だろうが、恐らくそれすらも父はロバートにさせたくないのだろう。
「先生は……、どうしているって言っていた?」
「すみません、それについてはお聞きしていなくて――ロバートさま⁉」
ロバートはアレイの言葉を聞くや否や、部屋を飛び出していた。
階段を駆け下り、玄関に置いてある春用のコートと帽子を手に取って身につける。後ろで「ロバートさま!」と呼ばれる声が聞こえたが、無視して屋敷の外へ走り出した。
「はあ、はあ、はあ……!」
ロバートは全力疾走で、スイングラー家が運営する宿泊施設へ向かっていた。もちろん、ティナに会うためだ。
(走るのが久しぶりで……キツイ!)
春の暖かい風が頬を撫でていく。息苦しさの中、まるで「頑張れ」と応援してくれているかのような風にロバートは泣きそうになった。
(会えなくなっちゃうのかな……、もう二度と会えなくなってしまうのかな……!)
スイングラー家に連れてこられてから、初めて心を開けた人。
先生と言うにはあまり真面目ではないし、優しいけれど母でもないし、友だちというには年が離れすぎている。
ましてや恋人になってほしいというような相手でもない。
だが、特別なのだ。ロバートにとっての心の拠り所。
せめて、もう少しだけ傍にいてほしい。自分がしっかり一人で立てるまで傍にいてほしかったのに、何故か大きな流れはロバートの小さな願いを叶えてはくれない。
彼が求めるものを、抗うことのできない強い力でどこかに流して行ってしまう。
(どうか、どうか……! 少しでいいから会わせて!)
彼は人目も気にせずに懸命に走り、目的地に着くとすぐに受付に向かった。
「すみません! ここに泊っている人のことで聞きたいことが……」
ロバートは、ぜいぜいと息を整えながら、受付の女性に言う。彼女は少し驚いた様子だったが、それ以外には態度に出さずに「泊っている方ですね。何番のお部屋にお泊りの方でしょうか?」と尋ねた。
「『302』の部屋の人です。まだ、いますか?」
「少々お待ちください。今、お調べいたします」
女性は立ち上がり、後ろに置いてある資料を確認する。ぺらぺらと紙を捲り、何枚か目で手が止まる。
(部屋にいてほしい……。でも、もし、出て行ってしまっていても少し前なら捜したら間に合うかもしれない)
受付の女性は確認をし終えると、ロバートのところに戻って来た。
彼は胸の高鳴りを感じながら、女性の回答をじっと待つ。
「『302』のお部屋の方のお名前は分かりますか?」
「え、名前?……えっと、ティナ・エジン……さんですけど……」
思ってもみない質問だったので、ロバートは面食らった顔をしてしまう。女性は「そうですか」と答えると、言葉を続けた。
「その方でしたら、三日前にお部屋をお出になられていますね」




