第73話 ロバートの涙
「だったら先生は……、俺に教える授業が減ってもいいのかよ……!」
ロバートの瞳はあっという間に潤み、次から次へと大粒の雫が零れてくる。張り詰めた気持ちでここまで来て、ティナに会って言いたいことが言えたためか緊張の糸が切れたようだった。
「……」
一方、ティナは、彼の様子を見て息を呑んだ。
(ヴィヴェルシュさまが、ロバートさまに家庭教師のことを伝えたのは分かる。でも、まさか押しかけてくるなんて……)
ロバートが、徐々に信頼を置いてくれているのは感じていた。それもほどよい距離感だと思っていたのだ。
しかし蓋を開けて見たら予想とはまるで違っていた。ここまで無茶なことをするとは思わなかったのである。
「何とか言ったらどうなんだよ……」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、ロバートは言った。どうやら彼は、ティナがこの件についてどう思っているのかを聞きたかったようだ。
しかし、授業数が増えようが減ろうが、ティナは「ヴィヴェルシュさまの言われた通り」にしかできない。
「……私から申し上げることは何もありません」
「それは、先生が雇われている身だから?」
ロバートはごしごしと袖で、頬に流れた涙を拭って言った。
「そうです」
「だったら本心は? 雇われているかどうかは考えないで、俺との授業をどう思っているのかって聞いているんだ」
「申し訳ありませんが、雇われている身のことを踏まえないで答えることはできません」
ティナは淡々と感情の籠らぬ声で答える。「家庭教師の授業数が減ることは、大したことではないのですよ」と伝えるためだ。
「そっか……。分かった」
納得したような返事をする。
だが、そこで話は終わらなかった。彼はすっと右手を伸ばすと、ティナの左手の人差し指を掴んで弱々しく握ったのである。
「……」
ロバートの手は温かくて、しっとりとした滑らかな肌をしている。その手が、彼女の乾燥してざらついた指を何とか掴んでいた。
「先生、俺……、どうやって先生を繋ぎ止めていたらいいか分からないよ……」
「ロバートさま……」
踏み込みたいけど、踏み込めない――。そういう感情がロバートから伝わってくる。
ただの家庭教師ではあるがティナに対して、彼は特別な感情を抱いていた。その感情に言葉を与えるのであれば「母親」というのが近いだろうか。
七歳に母親と死別して、スイングラー家に来たロバートには兄の乳母が傍にいたはずであるが、きっと良い関係を作れなかったのだろう。急に環境が変わり、甘えていい相手を用意されても心を開くのは難しいのは容易に想像できる。
それがティナが現れたことで変わったのかもしれない。
感情をぶつけても、ちゃんと受けとめてくれる。
スイングラー家の養子だからと言って、簡単に引き下がらない。彼にとって、そういう人物は初めてだったのだろう。
「……」
ティナは覚悟を決めると、ロバートの右手を取って両手で包み込むように握った。
「……先生?」
ロバートは驚いたような顔をする。
教える者として、教え子のこの態度は嬉しい。しかし、ティナの腹の辺りには正と負の感情が入り混じって、ぐるぐると円を描いていた。
「お辛いかもしれませんが、他の家庭教師からよく学びくださいませ。それがこれからあなたさまの道を切り開く力となってくれるはずです。私からロバートさまに申せるのはこれだけでございます」
「切り開く……?」
「そうです」
ロバートは空いていた左手をティナの手に重ねると、きゅうっと握って苦しそうに呟いた。
「でも、俺の将来はスイングラー家の養子として生きることだけだ……」
「そうだとしてもです」
迷いなくはっきりと言ったからだろうか。ロバートは明るいほうに解釈したようで
「……いいことがあるってこと?」と尋ねた。
「それは何とも言えません。ロバートさま次第です」
「先生は違ったのか?」
「……」
彼の問いに、ティナはすぐに答えられなかった。彼女は学び続けたことで、リブームが強くなった。家族を助けもしたが、自分を苦しめることにもなってしまったからである。
しかし、過去に戻ってどうするかを選択できる時に戻れたとしても、きっと自分は同じ選択をするだろうと思った。それが、当時の自分にとって最良の選択だったからである。
「先生……?」
ティナは一つ息をはくと言った。
「ロバートさま、この際ですから私の過去をお話いたしましょう。養父母に育てられ、どうしてこうやってロバートさまの家庭教師となったのかを……」
もしかすると、ロバートに嫌われるだけでなく、明日にでもスイングラー家の家庭教師としての仕事を失うことになるかもしれない。
それでも、今の彼には必要なことだと思った。
大きな流れに翻弄され身を任せるしかなかったとしても、踏ん張ることに意味があることを伝えるために――。




