第72話 冷たい日
(昨日までは特に変わった様子はなかったけれど……)
もし、分かっていて平静を装っていたのだとしたら、彼も覚悟を決めたと捉えられる。ティナは確認のためにヴィヴェルシュに聞いてみることにした。
「あの、ロバートさまにはこの件についていつお話しはなさったんですか?」
ヴィヴェルシュは、にこやかな笑みを浮かべて言った。
「いや、君に話をしてからにするつもりだったから、まだ言っていないよ。授業時間の変更があることを事前に話しておきたかったからね」
ティナは出かかった驚きを押し込めて、「……そうでございましたか」とだけ返事する。
複雑な気分だった。
ロバートは、都市地主の息子としてスイングラー家に入った時点で、父親が作った道の上を歩かせられることになってしまった。
彼はそれが苦しかった。
だから家庭教師を拒否し続けてきたのだ。
そうすれば、自分は都市地主として相応しくない子になる。父が求めているような子にならなければ、外に出ることもない。ロバートはそうやって、ぎりぎりのところで自分を守ってきたのだ。
(……)
ティナは冷えてしまったお茶を飲みきると、ヴィヴェルシュとクイーズリーに礼を言ってソファから立ち上がった。
「ごちそうさまでございました。そろそろ、授業をするため退室させていただいてもよろしいでしょうか?」
「うん、仕事前に悪かったね。今日もよろしく頼むよ」
「はい」
彼女は客間から出ると、憂いをため息と共にはき出し、いつも通りロバートの部屋へと向かい、自分の仕事をするのだった。
★
その日、ティナは仕事を終えて部屋に戻ると、あえてロバートのことを考えないように過ごした。ヴィヴェルシュの話を聞く限り、ロバートには今日の今頃話がされているはずである。
ロバートは、父親の考えを聞いて何を思うのか。ティナが想像しても仕方がないが、どうしても心配してしまうため、気をそらすために窓の外を見ることにした。
(雨……)
ティナは宿泊施設にあてがわれた部屋の窓から、外を眺めた。街灯が道を照らしている中、春の雨が街を濡らしている。
窓を少し開けると、ひんやりとした風に乗ってきた春の土の匂いを鼻に感じた。外にはほとんど人の気配はないが、時折宿泊施設の前にある道を馬車が通り過ぎていく。
「……」
ティナは何気なく、空を見上げた。厚い雲が覆っているせいか、星はもちろん、月も見えない。
(昨日の晴れたときに見たときは半月だった。これからだんだん月が太くなっていって、そしてまた新月になる……)
彼女はそこまで考えて首を横に振った。ロバートのことを考えないようにしていたら、もっと余計なことを考えてしまった。
(今日はもう寝よう)
窓とカーテンを閉め、ソファからベッドに移動しようとしたときである。部屋の呼び鈴が鳴った。急いでいるのか、何度もチリン、チリンと忙しない。
(誰……?)
夜に人が訪ねてくることはほとんどない。いや、もう来ることはないと思っていた。
家庭教師になりたてのころは、クイーズリーやメイド長が主人に言いつけられて、偶にティナのところにお使いをしに来ることがあったのである。その用事というのが、ヴィヴェルシュが勝手に発注していたティナ用のドレスを届けにくるというものだった。
ヴィヴェルシュは彼女に気を使って、買い足してくれたのだが、ティナには無用の長物である。
今はスイングラー家の家庭教師として働いているため仕事着として着ていっているが、この仕事が終われば着ることもなくなる。
ドレスは手入れが大変で、布がかさばるため仕舞う場所を作るのも庶民には容易ではない。持っていても着る場所もない。
どうせ手放さざるを得なくなるのだ。スイングラー家の仕事以外で着ることがない、高価なドレスをもらい続けるのは遠慮したかったので、丁重にお断りした――はずである。
(まさか、『春用のドレスを作りました』とか言わないわよね……)
ヴィヴェルシュならやりかねない。
ティナは最悪の事態を想定しながらソファから立ち上がり、扉に近づくと慎重に開けた。
「……え?」
しかし、扉の前に立っていたのは、クイーズリーでもメイド長でもなかった。
彼女はゆっくりと目を見開く。帽子を被り俯いてはいるが、背格好からして目の前にいるのは間違いなくロバートだった。
「どうして――」
最後まで言う前に、ロバートはぱっと動き出すと半ば強引に扉を開けて、ティナの部屋に入ってしまった。後ろ手にぱたりと扉を閉じ、ご丁寧に鍵まで掛ける。
しかし、顔は全く上げなかった。
クイーズリーやフットマンのレイモンドも傍にいないのを見る限り、誰の断りもなく外に出てきたに違いない。
そして、ティナはどうしてロバートがここに来たのかも、ある程度予想がついてしまった。
だが、予想のままに話すことはできない。
「ロバートさま……、いくらなんでも勝手に部屋にはいるのはどうかと思いますよ……? 時間も時間ですし……」
あえて部屋に入ってきたことをやんわりと注意したが、ロバートはぱっと顔を上げると、涙で濡れた空色の瞳で彼女を睨みつけて言った。




