第70話 ヴィヴェルシュの提案
「仕事の前に呼び出して悪かったね」
客間で待っていたヴィヴェルシュはティナが部屋に入るとソファから立ち上がり、窓から差し込む春の日差しのごとく、朗らかな笑顔で迎えてくれた。
「いえ……」
ティナはちらりと室内に目を向ける。この豪奢な装飾品で飾られた部屋に入るのはこれで三度目だ。
「さあ、座って」
屋敷の主人に言われ、ティナはローテーブルを挟んだ、彼の向かい側のソファに腰を下ろす。ちょうど日差しが当たっていたところだからか、座ったところがぽかぽかと暖かい。
「君には感謝することばかりだよ。ありがとう」
ヴィヴェルシュは、改まってティナに軽く頭を下げた。
彼女には心当たりがまるでないため、慌てて彼よりも深く頭を下げる。
「あの、そんな困ります……! 感謝されるようなことなど、私は何もしておりません……!」
「いやいや、それがあるんだよ。とにかく、顔を上げて」
「はい……」
ティナはそっと顔を上げると、いつの間にかクイーズリーがお茶を用意していたようで、彼女のほうに出してくれる。白い陶器のカップからは、良い香りが漂う。
「まずはお茶でも飲みなさいな」
すでにヴィヴェルシュのほうにはお茶が出されており、一口飲んでいた。
「……ありがとうございます。いただきます」
スイングラー家の客間に来てお茶が出されるのは三回目になるが、口を付けるのは初めてである。
ティナはゆっくりとカップを手に取ると、息で少し冷ましてお茶を飲んだ。
(おいしい……)
香りと同じくらい良い味のするお茶である。砂糖などは入っていなさそうだが、ほんのりと甘味が感じられた。
家庭教師の仕事をしている間にもメイドたちがお茶を淹れてくれるのだが、それよりも上等なものである。きっと高価な茶葉であるためクイーズリーしか扱えないのだろう。
ティナはカップをそれと同じ色のソーサーに戻しながら、ふと、半年前にコンラートと密会をしたときに出してもらったお茶のことを思い出した。二人で話をしたことを秘密にすると約束したあと、彼の世話係であるルーシャンが出してくれたのだ。
(そういえばコンラートさまのお屋敷に行ったときは、お話が終わったあとに謝られながらお茶が出て来たわね……。「出すのが遅くなってすみません」って。私のことを試すつもりがあったのでしょうから仕方がないけど……)
飲んでいるお茶がそのときの香りと味に近いように思ったので、きっと茶葉は同じところから仕入れているのかもしれないなと思う。
「おいしいかな?」
「はい、とても。私には勿体ないくらいの良いもののように思います」
感想を述べると、ヴィヴェルシュは目を細めて嬉しそうにした。
「お茶の味まで分かるとは、さすがだね」
「……いいえ」
余計なことを言っただろうかと思っていると、ヴィヴェルシュもカップをソーサーに戻す。そして足を組んでソファの背もたれに、背をあずけると、ゆったりとした口調で言った。
「本題に入ろう。実はね、ティナを呼んだのには一つお願いしたいことがあるからなんだよ」
「何でございましょうか?」
「これまでずっと、一日中ロバートにリブームを教えてくれているだろう? その時間を減らしたいと思ってね」
その瞬間、ティナの脳裏に笑ったロバートの顔が浮かんだ。
ここひと月の間に彼は以前に比べて笑うようになったのである。それが見られなくなるということだろうかと思うと、複雑な気分だった。
(しかし、何故今……?)
リブームの指導には何も問題はなかったはずである。それにもかかわらず、教える時間を減らしたいというのは、何からの非があったとしか思えない。
ティナは恐る恐る、ヴィヴェルシュに尋ねた。
「……それは、私の教え方に問題がある、ということでしょうか?」
するとヴィヴェルシュはすぐに組んでいた足も外し、背もたれからも体を起こして否定した。
「それは違う!」
「え……?」
彼は居住まいを正すと、軽く頭を下げて謝った。
「すまない、誤解するようなことを言ってしまった。君の指導は素晴らしいくらいだよ。何も問題はない。だから安心してくれ」
「では、時間を減らすというのは……?」
「ロバートに他の家庭教師を付けたいと思っているんだ」
「他の……家庭教師……」
とりあえず自分の非ではないことが判明し、理由も分かったので安堵する。
だが、すぐに「大丈夫だろうか?」という不安が過った。自分のことではない。ロバートのことである。




