第60話 薔薇の封蝋
部屋には呼び鈴が付いている。
だが、それを使わず扉を叩いているということは、宿泊施設の関係者ということだ。夕食を持って来るにしてはまだ早い時間なので、きっと別の用事で来たのだろう。
そこまでは推測できたが、ティナは中々動くことができなかった。
ようやく緊張から解放されたばかりなのだ。
できることなら動きたくない。
対応もしたくない。
しかし、部屋に帰っていることは宿泊施設の受付窓口で確認されているため、睡眠をしている可能性の高い夜ならともかく、夕刻に居留守を使うわけにもいかない。
「座ったばかりだから、立ちたくないんだけど……」
ティナがソファから立ち上がらなければならない気持ちと、座っていたい気持ちで葛藤している間に、まるで急かすかのようにもう一度扉が叩かれる。
「……分かっているわよ。聞こえているわよっ」
彼女は苛立ち交じりに独り言をはき捨てると、ソファから立ち上がり、大股で扉の前に立つ。
しかし、すぐには開けなかった。
向こう側に立っているであろう人物は、自分の仕事をするためにティナの部屋に訪れたに過ぎない。それなのに、こちらの疲れの鬱憤をぶつけたら申し訳ないと思ったからである。
彼女は一度深呼吸をしてから、扉をそっと開いた。
すると目の前には背の高い青年が目の前に立っている。深緑色をした詰め襟の制服に身にまとっていたため、ここのポーターだと分かった。
「お休みのところ、失礼いたします」
「何の御用でしょうか?」
尋ねると、彼は白手袋を掛けた手で、臙脂色の蝋の印がされてある白い封筒を彼女に差し出した。封蝋の模様は「薔薇」。これは「招待します」という意味である。ティナはそれを見た瞬間、嫌な予感がした。
「こちら、受付にてお預かりいたしました」
ポーターは封筒の端をきちんと持って、ティナに向けている。受け取りたくなかったが、彼のにこやかな笑みを見たら断るわけにもいかず、渋々《しぶしぶ》と手に取った。
つるりとした肌触りの紙質である。彼女はそれを持って裏と表を見た。
だが、宛名も差出人も書かれていない。
「……あの、これはどなたからのものなのでしょうか? それに、本当に私宛なのですか?」
この封筒を受け取らなくて済む理由になるかもしれないと思って尋ねてみる。だが、青年は明るい笑顔を向けて言った。
「宛先は間違っておりません。また、差出人の方のお名前は、中を見ると分かるとのことでした」
「……はあ、そうですか」
「ええ。では、お渡しいたしましたので、私はこれにて失礼いたします」
ポーターは微笑んで挨拶をすると、丁寧にお辞儀をして去って行った。
「面倒なものが来てしまった……」
ティナは窓辺のソファに再び座り直すと、長いため息をついた。
碌なことではないことは確かである。
しかし、読まなければあとでもっと面倒になることも色々想像できてしまう。
「……とりあえず、開こう。考えるのはそれからだ」
ティナは、思い切り封蝋を破ると、中から一枚の紙を取り出した。中身はそれだけである。
開いてみると、そこには意外な人物の名前が記載されてあった。
「コンラートさま……?」
ティナに「招待する」という意味が込められた薔薇の封蝋を付けた手紙を送ったのは、コンラート・スイングラーだったのである。
中身は次のようなことが書かれていた。
『ティナ・エジンさま
突然お手紙をお送りしまして、申し訳ありません。
折り入ってお話をしたいことがございます。
明日、こちらより馬車を向かわせますので、それに乗ってください。行き先は、スイングラー家が所有する別邸です。
ですが、この件については父上にも、ロバートにも言わないでください。私が単独で行っていることで、二人には知らせていないのです。そのため、これは私たちだけの秘密にしてください。
またお話する内容は、明日お会いした際に言います。
今日お会いしたばかりにもかかわらず、このような無礼をお許しください。
すみませんが、どうかよろしくお願いいたします。
コンラート・スイングラーより』
ティナは、コンラートからの手紙から顔を上げると、難しい表情を浮かべた。走り書きされた内容である。手紙を書く時間がなかったのか、もしくは急いでティナと話をしなければならないと思ってのことことだろう。
「話したいこと、ね……」
コンラートとティナとの間にある接点と言えば、ロバートのことくらいである。
もし話す内容がロバート関連だとしても、コンラートが「ロバートの兄」として何を言ってくるのかが想像が付かなかった。
「何を言われるのかしら……」
ティナはため息をつくと、窓辺から星が見えて来た空を見るのだった。




