第44話 コンラート・スイングラー
(「ティナさん」?)
ロバートは、兄が家庭教師の名を呼んだことに酷く驚いた。
ティナの名前を知っていたことはもちろん、下の名前で親しげに呼んでいること自体、思いがけないものだったからだ。
「……」
「ロバート?」
何を言ったらいいか分からず固まっていると、コンラートが少し心配そうな気持を含んだ優しい声で名を呼ぶ。
「あ、えっと……」
「急に来たから驚かせてしまったみたいだね」
彼は目を細めてそう言うと、姿勢を元に戻してロバートから視線を外す。そして今度は店の中に注意を向けた。
「……?」
ロバートも同じようにして周りに目を向けると、棚の隙間から他の客たちがこちらの様子が気になっていることが分かる。どうやら注目するようなことをしていたらしい。
(まさか、レイモンドとのやり取りが見えていたわけじゃないよね……?)
レイモンドは周りに気づかれないように、声を潜めてロバートを責め立てていた。そのため、二人のやり取りは周りに知られなかったはずである。
だが、コンラートが来たことで、スイングラー家の子息と使用人の関係性が露見されたとしたらどうなるのだろうか。
ロバートが緊張で内心慌てている一方で、兄は落ち着いた様子で言った。
「大勢で一塊になっていると、お店の迷惑になってしまうね。——カイン、一旦戻ろうか」
コンラートが少し大きい声で言うと、後ろで話を聞いていた青年が答えた。兄に付いているフットマンのようである。
「はい、コンラートさま」
カインは恭しく首を垂れる。レイモンドがロバートに見せる態度とはえらい違いだ。
「うん」
うなずいた兄はくるりと踵を返し、歩き出そうとしたがすぐにまたロバートのほうを向いて言った。
「ほら、ロバートも行くよ」
「え……?」
兄の言っていることがよく分からず、ロバートは自分よりも頭二つは背の高いコンラートを見上げてきゅっと眉を寄せる。
最大級に怪訝な顔をしたつもりだったが、兄はますます意味不明なことを口にした。
「ティナさんも一緒に行くことにしたから」
「……ええ⁉」
驚いている間にもコンラートは微笑を浮かべながら、戸惑っている様子のティナの背中に手を添え、「さあ、行きましょう」という。
(は? 何? ちょっ、どういうこと?)
訳が分からず混乱する。
何にせよ、ティナが兄と一緒に行くのは解せなかった。
だが、周りの視線があるせいか問うことも、反論することもできない。
(何で、何で⁉)
心は慌て、体は上手く動かない。口が動かないなら足を動かそうと思うが、どうしてなのか足が床に張り付いたようにびくともしないのである。
(うう……、ううう!)
ティナを追いかけたい。しかし、そんなことをしてはみっともないように見えるし、彼女のことを気にかけているようにも見えてしまうのではないかという思いもある。
まるで綱を両端から引っ張っているように心が破れそうだった。
その間にも、ティナはコンラートに連れられ店の外に出てしまう。そこには兄が用意したスイングラー家の馬車があり、ティナを乗せようとしていた。
(……待って。行かないで……!)
ぎゅうっと拳を太ももの脇で握りながら、強く思う。
するとそのときだった。
ティナがコンラートに何かを言ったかと思うと、くるりと振り返り、ロバートのことをじっと見たのである。
「な、に……?」
ロバートがやっとのことで小さく呟く。ティナには絶対に聞こえていないだろうし、口の動きも外からではよく分からないため、きっと分からないと思った。
そしてこのまま、自分を置いて兄とどこかに行ってしまうのだろう。そう思ったときだった。
「行かないのですか?」
ロバートはゆっくりと目を見開いた。
大きい声ではなかった。しかし、ロバートには間違いなくそう聞こえたのである。
「え……?」
「次のお店へ――」
その瞬間、ロバートの足に絡みついていた重いものがすっと外れ、いつものように足を動かすことができるようになっていた。
「あ……」
一歩、足を踏み出す。
足が動かせるようになると、ロバートは自分の傍にずっといたレイモンドに気が付いた。
恐る恐る目を合せると、顔は嫌々そうにしながらも丁寧に頭を下げたのである。
「他のことはわたくしにお任せください。旦那さまにも報告しておきます」
「……うん」
ロバートは小さくうなずいた。
それしか今の彼にできることはない。
ロバートは歩き出すとレイモンドの横を通り過ぎる。そして、ティナとコンラートが待つ馬車の前に立った。
「ロバートたちを先に乗せてくれ」
コンラートがカインに頼むと、彼は「かしこまりました」と言って、ロバート、ティナの順番に手を貸して馬車に乗せる。
そして最後にコンラートが乗った。
「いいよ、出して」
彼が窓から馭者の隣に座るカインに命令すると、間もなく馬車が動く出す。
馬車の速度が乗ってきたころ、コンラートはロバートを見て言った。




