第20話 駒を進める
ティナは数歩彼に近づくと、遠慮した声で「おはようございます」と挨拶をする。
ロバートはゆっくりと振り向くと、「おはよう」と短く返したあとにすぐに質問をしてきた。
「あんた、昨日俺にあんなことをされて、気まずくなるってことはなかったんだ?」
気まずくないわけがない。
だが、そういう感情は隠したほうがいいと思い、素っ気なく「……仕事ですので」と答える。
「あっそ」
つまらなそうな応じ方を見るに、ティナを困らせる取っ掛かりを得られず、面白くないと思ったのかもしれない。
「新しい盤と駒はそこ」
ロバートは丸いテーブルの上を指さした。
「昨日は大変だったなぁ。事の一部始終をメイドから聞いたはずなのに、クイーズリーってば俺からも聞くんだもん。面倒だったなぁ。しかも俺に気を使って話を聞こうとするんだ。執事って大変だよね。しかも、クイーズリーからの質問にようやく答えて『あー、終わった。やっと解放された』って思ったら、今度は父上が『話を聞かせてくれないか』なんて至極真面目な顔で言うんだもん。まいっちゃうよ」
「……」
「それで、あんたが悪かったわけじゃないって父上が納得して、ようやく話が終わったんだ。窓から外を見たらもう真っ暗。それなのに、ここに盤と駒があるってことは誰かが買いに行ったってこと。買いに行ったのは誰だと思う?」
「……分かりません」
「クイーズリーに決まってるじゃん。店も閉まっているっていうのに、今日あんたがきて授業をするから、無理に開けてもらって買ってきたんだって。どれだけ心付けを渡したんだろうね。それを思うと笑っちゃって。お金持ちって馬鹿なことをすると思わない?」
ティナは何とも言えず「……そうでしたか」とだけ答える。
しかし、彼女もロバートと同じことを思っていた。
金持ち皆が馬鹿なことをするわけではないが、彼女の過去の雇い主も同じような行動をしていたのである。彼はお金さえ払えば人は無理を聞いてくれると思っていたし、何をしても許されるとさえも思っていた。
「そのせいでクイーズリーは目の下に隈ができてる。気が付いた?」
ティナはクイーズリーの顔を思い出す。
隈があったようには見えなかったが、威圧的な笑顔を向けられた理由は分かった気がした。
「いえ……、そこまでは……」
「そう? 今日一日は屋敷にいるみたいだから、すれ違ったときにでも見てみればいいよ」
ロバートはそう言ってけらけらと笑う。
ティナは彼の様子を見て、何だか寂しく感じた。昨日はあれほど「自分を馬鹿にしている子」だと思っていたのに、今日は強がっているように見えたのである。
「あの……」
「何?」
「壊れた盤と駒はどうなったのでしょうか……?」
ロバートは少し目を見開いてから、くすくすとおかしそうに笑う。
「気になるの? まさか、あれが欲しいっていうんじゃないよね?」
「……気に障ったことを申したならすみません。私は貧しいところの生まれですから、遊び道具がああいうふうに壊れてしまったのが痛ましいのです」
するとロバートは笑いを引っ込め、明るい空色の瞳を大きく見開いた。
「貧しい生まれ? そんな立派なドレスを着て、家庭教師をしているのに?」
彼の問いにティナは苦笑する。
「ドレスのことは昨日申したではありませんか。これは、ロバートさまのお父上にいただいたものだと」
「それは……そうだが……、着慣れているような気がしたんだ」
盲点だった。
言われてみれば、自分は貧しい生まれでありながら、ドレスを着こなしてしまっている。「家庭教師だ」とか「主婦だ」とかティナが言っても、彼が信じられないと思うのも無理はない。
「当主さまには大変申し訳ないですが、私には身分不相応の代物でございます。それでも着ることができてしまうのは、身の丈に合っていないものを過去にも身につけていたからです」
「……どういうこと?」
ティナは目を伏せて答えた。
「私は他人様に何かを教えられるような立派な身分ではないのですよ。お父上は、私のことを何と言っていましたか?」
「『リブームの家庭教師』とだけしか聞いていない」
「そうですか」
静かに答えると、ロバートが窓辺からテーブルのほうに近づいて来た。
「何? どういうこと? ちゃんと話をしてくれよ」
「すみません、座らせていただいてもよろしいですか?」
ティナはテーブルとセットになっている椅子を手で示す。ロバートはすぐに「構わない。座れ」と言って許可をくれた。
椅子にきちんと座ってから、ティナは再びロバートに尋ねる。
「これを使わせていただいても?」
「いちいち聞かなくていい。あんたは『リブーム』の先生なんだから、それを使わないと何にもならないだろう」
「ありがとうございます」
お礼を言うと、彼女は箱から駒を出した。
つるりと表面を磨き上げられた白い石と黒い石でできた駒を、木目がきれいな盤に置く。昨日よりも若干淡く赤い色が入っている木でできていたので、木材の種類が違うのかなと、ティナは思った。
しかし表面はきれいにやすりが掛けられ、するりとした肌触りである。周りの角もさりげなく落とされ、使う者のこともよく考えられているなと思った。
「何をするんだ?」
「『リブーム』をいたします」
マスに合わせて駒を置きながら答える。
「俺はできないぞ。聞いただろう、父上から俺が『リブームはできない』ってことを……」
「ええ、聞きました。でも、事情があるのではないかと思っていました」
「……え?」
ティナは盤から顔を上げると、ロバートは驚いた表情を浮かべていた。それも、繕ったものではない。十五歳の少年が、心から驚いているような顔だった。




