第16話 臆測
クイーズリーに促され、ティナは「はい」とうなずくと、自分の傘は片付けて、彼の差す傘の中に入って歩き出した。
しかし、そこからは何の会話もない。二人の間には冷たい雨音が響いているだけだった。
「……」
もう少し天気の話とか世間話をしても良さそうなものだが、彼は口を閉ざして雨に当たることも厭わず、ティナの半歩前をゆっくりと歩くだけである。
彼女は、クイーズリーのきれいに磨かれた革靴が雨に濡れるさまを見ながら「このだんまりは昨日のことが影響している」と判断した。「当主さまがお会いになる」と言っているのだから、間違いないだろう。
(きっと、「昨日何があったのか」と聞かれるのでしょうね。別に隠し立てするようなことは何もないから、正直に話すのはいい。でも、当主さまが今回の件についてどう考えているのかは、少し分かっていたほうがいいかもしれないわね……)
ティナは心を決めると、玄関に辿り着く前にクイーズリーに尋ねた。
「あの……、昨日のことはお聞きになりましたか?」
無視されるかもしれないと思ったが、彼はティナのほうに顔を向けると、「盤と駒のことでしょうか?」と質問の意味を確認する。
「はい」
うなずくと、クイーズリーは少し表情を曇らせた。
「メイドたちから、話は聞いております……」
「全て話してくださいましたか?」
「……はい。メイド長が経緯を聞きました。しかし彼女が、珍しく『傍で見ていたメイドたちからも話を聞いたほうがいいかもしれません』と提案してきたので、私も彼女たちから細かく話を聞いて、詳細を当主さまに報告しております」
「それならよかったです。きっと、当主さまはお怒りのことでしょう」
「……」
「クイーズリーさま?」
クイーズリーが黙っているので、聞こえていないのかと思い名を呼ぶと、彼は困っているような、悲しんでいるような、何とも言えないような表情を向ける。
「エジンさまのお気持ちはお察しいたします。ですが、私からは何も申し上げることはできません。当主さま直々《じきじき》にご対応なさるとのことでしたから……」
「……そうですか。分かりました」
ティナは俯くと、小さくため息をついた。
(何て言われるのかしらね。「失望した」とかかしら? それとも「頼まなければよかった」かもしれないわね。まあ、別にどちらでも構わないか……)
そして「自分はもしかすると罰を受けることになるかもしれない」と思った。
譬えヴィヴェルシュが、「盤上の王」であるティナに対してその地位だからこその価値を見出しているのだとしても、彼女は一介の家庭教師でしかない。スイングラー家の子息という地位を持った生徒に不適切な態度を取ったのであれば、それ罰が与えられるのは当然のことである。
(まあ、仕方がないわよね)
ティナはすぐに、このあと起こるであろう「自分にとって悪いこと」を受け入れた。
こうなりたかったわけではない。なりたくなかったからこそ、ロバートに「泥棒」扱いされないように「お互い服を脱いでやりましょう」などという提案をしたのである。
しかし、ロバートがほんの少し見せた本心に気づけなかった。
きっと、彼は自分が相手が騙されるかどうかを試していたのだろう。騙されなかったら、次の段階に進むことができる――。だから、ティナは「リブーム」を教え始めることができた。
彼女は、それでほっとしたのである。「リブーム」のことを語り始めれば、ロバートも他の子どもたちと同じように興味を持ってくれるだろうと高を括ったのだ。その仕返しがすぐに返って来ただけのことである。
(それに、家庭教師ならよくあるだもの。悲観することはないわ)
貴族や都市地主などの地位の高い家の子どもに、勉強を教える家庭教師は多い。セルディア王国の首都ロルディには名門学校がいくつかあるが、家庭で質のいい教育を受けさせたいと思っている当主たちが多いからである。
一方の家庭教師たちは、上流階級の者たちの要望に応えることで、できるだけ多くの収入を得たいと思っていた。良い家に雇われれば、その分、質の良い生活をすることができる。
しかし、悪い家に雇われればそれどころではない。あらぬ噂を立てられ、二度と家庭教師としての仕事を得ることができなくもなってしまうのだ。
そういう話を以前から聞いているし、実際に雇い主から「家庭教師が気に喰わない」という理由だけで辞めさせられた人も知っている。
「段差にお気をつけて」
クイーズリーは執事らしく礼儀正しい笑顔を向けて、ティナに玄関の足元に注意を促す。
彼女は彼の指示に従いながら、応接間へと向かった。
*
中へ入ると、一昨日入ったときと相も変わらず、豪奢な装飾の施された部屋の中に、灰色のスーツを着た人物がソファに座っていた。
「おはよう、ティナ。待っていたよ」
彼は顔だけ上げて、ティナに挨拶をした。
「おはようございます。当主さま」
「まずは座りなさい。クイーズリー、温かいお茶を入れてくれ」
「かしこまりました」
クイーズリーが部屋を出て行くときに、ティナはヴィヴェルシュの向かい側のソファに腰を下ろした。
何を言われるかは想像がつくが、言われるまでの時間は嫌なものである。
身を硬くして待っていると、ヴィヴェルシュがおもむろに口を開いた。




