第13話 壊れた駒
(どうしよう……)
ティナは盤がぶつかった右腕を、左手でさりげなく押さえた。大したことはないと思っていたのだが、じんじんと腕に熱い痛みが広がってくる。
(どうすれば、いいの……?)
ティナとロバートの間には、異様な空気が留まっていた。まるで少しでも動いたら、頬が切れてしまいそうなくらいの緊迫感がある。
ざああ……と、北風が吹き木の葉を揺らす。
時折、チュチュッと鳴く小鳥——チチュナの囀りも聞こえてくるが、自分の周囲だけは別の世界に入ってしまったかのように酷く長い時間に感じた。
どれくらいそうしていただろうか。
先に動いたのはロバートだった。彼はふいとティナから視線を外すと、東屋から出て行く。髪の短いメイドが少し遅れて、彼の後を付いて行った。
そしてロバートは、一度も振り返ることなく、屋敷の中へ戻っていってしまったのである。
「……」
ロバートが屋敷の中に姿を消してから少し経つと、ようやく周囲の空気がふっと緩んだ。
ティナは、へなへなと肩の力を抜く。
(こんなの初めてだわ……)
「リブーム」の対戦をするときも、相手によっては感情のぶつかりのようなことは起こる。
だが、盤を挟んだ状態のときというのは不思議と怖くない。いや、精神的な恐怖というのはある。「勝たなければならない」とか「勝ちたい」という気持ちがあると、相手の強さに圧倒されることはしばしばあることだ。
しかし、それはロバートが盤や駒を投げてきたこととは全く別の次元の話である。
試合をしている最中は、お互いの感情を乗せるものが、駒であり、その動きであるため、それらを通しての精神的威圧というものはあっても、「リブーム」をしている間は人からの暴力の恐怖というのはあまり感じたことがないのだ。
恐らく、対戦中は真剣勝負をしているため、盤の向こう側にいる相手に対して直接妨害をしようなどということが起こらないからだろうと思われる。
本気で「リブーム」を挑んでいる相手というのは、盤上以外での戦いをしようという気など一切ない。逆に言えば、だからこそ盤上での真剣勝負が成り立つとも言える。
しかし、ロバートはその暗黙の壁を壊してしまった。
それはきっと、「リブームのルール」を全く知らなかったがゆえにできたことであろう。
分かる者には、対戦相手との間にあった盤と駒を崩すことなどできない。
ましてや、それらを相手に投げるなど言語道断。
もちろん、ルールを知らなくとも常識としてしてはならないことであろうが、彼はその常識すらも破ったのだ。もしルールを知っていたら多少違った結果になったかもしれないが、本来あるべきはずの砦が作り始めようとしていた段階だったために、容易く超えられてしまったようである。
(彼は私との間にあったはずの壁を壊して、これらを投げた。私に、怒りをぶつけてきた……)
ティナは少し落ち着いたところで、椅子から立ち上がり、周囲に散らばった駒を拾い始めた。それに気づいた三つ編みのメイドが、彼女の傍に寄る。
「エジンさま、先ほどは申し訳ございません。すぐにお助けできなくて……。それと片付けはわたくし共で行いますから、屋敷の中にお入りくださいませ。お身体が冷えます」
そう言って、メイドが駒を手に取ろうとしたのを、ティナは手を添えてそっと止めた。一瞬、右腕にびりびりとした痛みが走ったが、気づかれないように精一杯笑顔を振舞った。
「お気遣いくださり、ありがとうございます。ですが、私のことはご心配なく。それに、盤と駒の状態は、教える者としてきちんと見ておかなければなりませんので、どうか私に拾わせてください。気になるかもしれないのですが、どうかお願いします」
「しかし……」
「事情は私から当主さまか、執事のクイーズリーさまにお伝えしておきますから……」
ティナが懇願すると、メイドは少し目を泳がせてから「分かりました」と言って引き下がった。
「ありがとう」
「ですが、手伝いが必要なときはいつでもおっしゃってくださいませ」
「ええ。そうします」
メイドは一礼をすると、東屋の外に出てティナを見守る。
一人が「手伝わない」としたことで、他のメイドたちも近づかなかった。
「……」
ティナはほっと息をつくと、一つ、また一つと駒を拾った。
ロバートが強く投げたものは、東屋の大理石に当たって割れてしまっている。特に☆は角があるため、星の尖った部分がほとんど欠けていた。唯一無事だったウパロは、ティナのほうにあった黒いものだけである。
盤もティナに当たったあとに、どこかにぶつかったらしく、表面にすり傷と、三カ所ほどに小さいが抉れた跡ができてしまっていた。
また、投げられた駒の中には、おかしなところに駒が飛んでいて捜すのに一苦労した。思っていた以上に、強い力で投げたようである。
欠片まで探したため、全て拾い集めたころにはすっかりお昼の時間である。傍で様子を見ていたメイドたちには申し訳ないことをしたと思ったが、致し方ない。
ティナは盤と駒を全て拾ったあと、元あったテーブルの上に置いた。
しかし今日はきっと、ロバートは戻ってこないだろう――そう思い、駒を丁寧に箱にしまっていく。
(あとで、ヴィヴェルシュさまに説明しないと。この盤と駒、私が弁償することになるのかな……。高そうだけど、払えるかしら。無理なら家庭教師代から引いてもらうしかないわね。私に「家庭教師」の仕事が続けられたらの話だけれど……)
ティナは壊れてしまった☆を手に取ると、欠けた部分を指でそっとなぞった。
(明日はどうなるかしら)
もしかすると、「もう来なくてよい」と言われるかもしれない。
そうなったら仕方がない。
ただ、腕の痛みだけは、じんじんと続いているのだった。




