第61話 踏み越えた境界
大陸歴一四〇七年八月十五日
アルスは一度息を吸い込み力を籠めると、男の首へ当てていた刃がゆっくりと前へ進む。
皮膚を裂き肉へ沈み込む感触が、柄を握る掌へと伝わってきた。
護衛の身体は大きく震え、喉の奥から短い声が漏れる。
抵抗しようとしていた腕から力が抜け、身体はぐったりと地面へ沈んでいった。
もう動かない。
アルスは剣を握ったまま、その場に立ち尽くしていた。
人が死ぬ姿は、前回の襲撃でも今日の戦いでも見てきた。
ウォルフの木槌で潰される護衛も、ティムの矢に射抜かれる男も、この目で見ている。
だから覚悟は出来ていると思っていたのだが、どうやらそれは違ったようだった。
ただ見たというのと、自分の手で命を奪うのとでは、まるで違う。
剣を放そうとしても指が開かず、柄を握る手には自分でも驚くほど力が入っていた。
息を吸おうとしても胸が動かず、足を動かそうとしても身体が命令を聞いてくれない。
視線だけが地面へ横たわる男に縫い付けられたままだった。
頭では終わったと理解している。だから、振り向けばいいし剣を納めればいい。
それなのに、身体だけが動かなかった。
どれほどの時間が流れたのだろう……。
本当に一瞬だったのかもしれないし、随分長く立ち尽くしていたのかもしれない。だが自分の中にある時間の感覚が曖昧で、それすらも分からない。
「お見事」
ゼダンの静かな声が耳へ届く。
その声に引かれるように、固まっていた首が少しだけ動き、ゆっくりとゼダンの方を見ることが出来た。
「よくやりました」
今度はクラウスだった。
「これで十分です」
ヴァルターも穏やかな声を掛ける。
「誰でも最初はそんなもんだ」
リッキーが笑う。
「立派だったぜ」
ウォルフも短く頷いた。
皆が口々に声を掛けてくれ、一つ声を聞くたびに、少しずつ身体へ感覚が戻ってきた。
握り締めた指が動き、肩から力が抜け足先へ重みが戻る。
皆の声掛けが一段落したころには、ようやく自分の身体が自分に返ってきたように感じることができたのだった。
アルスはゆっくりと、肺いっぱいに溜まっていた空気を吐き出した。
そこで初めて、自分がずっと息を止めていたことへ気付く。
剣を見下ろすと、刃にはまだ赤黒い血が付いていた。
アルスは静かに呟く。
「……気持ちの良いものではないね」
飾りの無い、本心だった。
ゼダンは穏やかな笑みを浮かべた。
「それで宜しいのです」
「……え?」
アルスが顔を上げる。
「気持ちの良いものではない、と感じられたのでしょう?」
アルスは小さく頷く。
「うん」
「なら安心しました」
その言葉は意外だった。
「人の命を奪うことへ何も感じなくなれば、それはそれで危うい」
ゼダンは静かに続ける。
「ですが、必要な時に躊躇して仲間を失うようでも困ります」
そこで一度言葉を切った。
「砦主は今日、その境を一つ越えられました。少なくとも気持ち良いや、楽しいという感情を持たれなかったのは僥倖です」
アルスは黙って聞いていた。
胸の奥には、まだ何とも言えない重さが残っている。
決して慣れた訳ではなく、次も同じように出来るかと聞かれれば、自信など無かった。
それでも先ほどまで身体を縛っていた震えは、もう消えていた。
「俺は……」
言葉を探す。
「強くなれたのかな」
その問いに答えたのはゼダンではなかった。
「それは違うだろ」
リッキーが笑う。
「人を斬ったからって、強くなんかなれねえよ」
その隣でウォルフも腕を組み、大きく頷いた。
「そういうもんだ」
短い一言だったが、それだけで十分だった。
クラウスも静かに口を開く。
「砦主は一人で戦っている訳ではありません」
「そうです」
ヴァルターも続ける。
「先ほども皆で支えました。これから先も同じです」
アルスは周囲を見回した。
ウォルフがいて、リッキーがいる。ヘルガが腕を組みながらこちらを見ている。
クラウスとヴァルターが並び、ティムは木の上から笑っていた。
そして、その中心にはゼダンが立っている。
誰も責めていなかったし、誰も失望していなかった。
むしろ当然のことのように、アルスが立ち直るのを待っていてくれた。
その事実が胸へ静かに染み込んでいく。
アルスは小さく笑った。
「ありがとう」
その一言だけだったが、それで十分だった。
ゼダンもまた、静かに頷く。
「今日、確認したかったことは、ほぼ終わりました」
その言葉に、アルスは小さく息を吐く。
ゼダンが何を目的にこの襲撃に賛成したのか、実は今に成っても完全には把握できていない。少なくとも人を斬るという体験と、敵の前面に出て傍観者ではなく当事者になるという辺りは想定していたのだろう。
もしかすると、新参の元ナユリ兵と共に厳しい戦いを経験させることで、連帯感を持たせるとかいう事まで考えていたのかもしれない。ゼダンは平気でそういうことを一度で纏めてやってしまおうとする男だ。ひょっとすると他にも幾つかやっていたのかもしれない。
当のゼダンは視線だけを後方へ向けた。
「残るは一つだけです」
アルスは、やっぱりなと思いつつ、その先を見る。
後方では、まだ一人だけ護衛が生きていて、元ナユリ兵たちの包囲を抜けたのだろうか、必死に街道を走った末、その先で騎馬を降りたレオンの前へ倒れ込んでいた。
男は剣を落とし、何かを叫んでいる。
恐らくは命乞いだろう。
アルスには、距離もあり聞き取ることまではできないが、その男の動きを見る限り間違いないだろう。
レオンは何も答えず、静かに歩み寄ると迷うことなく剣を振り下ろした。
短い音が一つ響く。
男の身体が震え、そのまま動かなくなった。
前回の襲撃の際レオンは、剣を振るう前に一瞬だけ足を止めていた。それは人を殺すという意味を知っていたからこその躊躇だったのだろうと、今ならばアルスにも理解できる。
だが今回は違い、剣を抜き、振るい、終わるという一連の動きに、一切の迷いが見えなかった。
アルスは黙ってその姿を見つめる。
自分は、たった今ようやく一人を斬っただけで、身体の自由すら失った。
それなのにレオンは、何事もなかったかのように剣を払い、静かに鞘へ納めている。
俺も、次はあのくらい動じずにいられるのだろうか。
いやそう成らなければ、この先は歩いていけないのかもしれない。であるならば、成るしかないのか。
そんなことを考えていると、レオンがこちらへ歩いてきた。
「砦主」
短く頭を下げる。
「終わりました」
アルスもゆっくり頷いた。
「うん。皆、お疲れさま」
戦場を見回すと、もう剣を向けてくる者はいない。
「前回と同じだ。痕跡を残さないよう片付けて、撤収しよう」
「了解です」
ゼダンが応じると、仲間たちはそれぞれの持ち場へ散っていった。
アルスはもう一度だけ倒れた護衛たちへ視線を向け、それから静かに背を向けた。
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