第8話 〇〇の王
大陸歴一四〇七年 三月十二日
谷の闇の中で、焚火が静かに燃えていた。
川風に煽られた炎が揺れ、赤い光が草や石をゆっくりと照らしている。乾いた枝がときおり弾け、煙は低く流れながら林の向こうへ消えていく。谷は静まり返り、遠くでは川のせせらぎだけが絶え間なく響いていた。
火の前に、一人の男がしゃがみ込んでいる。
大きな背中だった。煤で黒く汚れた腕が長い枝を操り、焚火の中を慎重に探っている。やがて赤く焼けた土の塊を火の中から引き出しては地面へ並べ、今度は別の塊を火へ押し込む。同じ作業を何度も繰り返していた。
ローザが小さく言う。
「父さんです」
アルスは黙ってその背を見つめた。
三年前と何も変わっていない。
何かを始めると、それ以外が見えなくなる男だった。川で遊ぶときも、木剣を振るうときもそうだった。一つのことへ夢中になれば、周囲の声など耳へ入らなくなる。
焚火の中で、また一つ土の塊が赤く染まっていく。
ぱき、と小さな音が響いた。焼けた表面へ細いひびが走る。それでも男は気付いた様子もなく、火の中を覗き込みながら何度も頷いていた。
ローザがアルスを見上げる。
「……呼びますか」
アルスはしばらく焚火を見つめ、それから静かに首を振った。
「いや」
視線は焚火の向こうの背中へ向けたまま続ける。
「もう少し、見ていよう」
炎は静かに揺れ続け、火の中では土の塊がゆっくりと色を変えていった。
男は再び枝を火の中へ差し入れ、一つを手前へ引き寄せた。火の外へ転がされた土の塊からは、かすかな煙が立ち上っている。
男はそれをしばらく眺めると、縁を指先で軽く叩き、耳を近づける。そして一つ頷くと、今度は焚火の傍へ並べられた焼き物へ手を伸ばした。
そこには丸いものや浅い皿のようなもの、壺に近い形をしたものまで、いくつもの焼き物が並んでいる。どれも厚みがあり、まだらに焼けた表面はざらついて見えた。
男はその中から一つを持ち上げ火の光へかざし、ゆっくりと向きを変えながら眺め、ひとつ息を吐いた。
その姿を眺めながらローザが一歩前へ出る。
「父さん」
静かな声だったが、夜の谷にはよく響いた。
男の肩が止まり、ゆっくりと振り返った顔を焚火が照らす。額には汗が滲み、頬には煤がついていた。だが、その目だけは三年前と何も変わっていない。
「……ローザ?」
娘の姿を確かめると、その視線が横へ移る。
アルスと目が合うと、男は二度瞬きをした。
「……若?」
壺を抱えたまま、その場で動きを止め、やがて驚いたように顔をほころばせた。
「若じゃないですか!」
勢いよく立ち上がると、焚火の炎が大きく揺れた。
「どうしたんです、こんな夜に。山を巡ってたんですか? それとも俺の作業を見物に?」
三年前と何も変わらない調子だった。
火に向かっているときの顔も、誰かを見つけて笑う顔も、昔見ていたままだった。
ティムは壺を抱えたまま笑う。
「いやあ、若にちょうど見せたい物があったんですよ」
そう言って森の方へ向き直る。
「こっちです」
焚火を背に歩き出したティムの後を、アルスは黙って追った。ローザもその後ろへ続く。
林を抜けると、ほどなくして灯りが見えてきた。窓から漏れる橙色の光が闇の中へ滲んでいる。
ティムは戸口の前で足を止めた。
「ここです」
戸を押し開け、そのまま中へ踏み込む。
だが次の瞬間、その足が止まった。
「……ん?」
アルスも後ろから中を覗く。
壁際には兵たちが身を寄せていた。腰を下ろしている者もいれば、横になっている者もいる。包帯を巻いた足が目に入った。
ティムが何度か瞬きをする。
「……誰だ?」
そのとき、奥から声がした。
「親父」
レオンだった。
立ち上がると、苦笑を浮かべる。
「帰ってきたのか」
さらに奥には、壁際で腕を組むゼダンの姿もある。
ティムは首を傾げた。
「……ゼダン? え? なんだこれ」
レオンが肩をすくめる。
「山の中で遭遇した」
ローザが後ろから静かに続けた。
「館が落ちたの」
ティムの表情から笑みが消える。
「……は?」
ゼダンが短く告げた。
「三月九日、エリクセンが侵攻した。戦場に出たサエル様より命が届き、ミュラー家は散った」
部屋の中が静まり返る。
ティムはしばらく言葉を失っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「な……そうか」
そして戸口のアルスを見た瞬間、何かを思い出したように目を見開いた。
「あ」
一拍置き、今度はぱっと表情を明るくする。
「ああ、若!」
慌てたように手を打った。
「そうだそうだ、忘れてた」
奥の棚を指差す。
「若、ちょっと待っててください」
そう言い残して奥へ消えていくと、兵たちは顔を見合わせた。
「……何だ?」
誰かが小声で呟く。
ほどなくして、ティムが両手で何かを抱えて戻ってきた。
「これです」
アルスの前まで来ると、嬉しそうにそれを差し出す。
「若、見てください」
丸く膨らんだ胴に、少し歪んだ口。
ざらついた表面には、まだらな焼き色が残っていた。
ティムは胸を張る。
「三年前から作ってたやつです。最高の出来の『陶器』ですよ」
そう言って、壺をアルスへ差し出した。
アルスは差し出された壺を受け取った。
手の中でゆっくりと回すと、ずしりと重い。
表面はざらつき、焼き色にはまだらが残っていた。口縁へ指を滑らせ、胴を軽く指先で叩く。
鈍い音が室内へ響いた。
ティムは身を乗り出してくる。
「どうです。今回はかなり上手くいったと思うんです。形も崩れてないし、焼きも前よりずっと良い。三年やって、やっとここまで来ました」
その声には隠しきれない期待が滲んでいた。
兵たちも興味を引かれたのか、壺を覗き込んでくる。
「立派じゃないですか」
誰かが素直に言うと、ティムは嬉しそうに何度も頷いた。
「だろう? 最初はひどかったんだよ。乾かすと割れるし、火に入れたら弾けるし。何度作り直したか分からない。でもこれは違う。叩いても割れないし、形も残ってる」
アルスは壺を火の光へかざし、向きを変えながら焼き色を確かめる。
やはり見間違いではなかった。
視界の端では、ローザが小さく息を吐き、レオンはどこか言いづらそうに目を逸らしている。ゼダンだけは腕を組んだまま、何も言わず壺を見つめていた。
アルスは静かに壺を下ろした。
「そうか……ティム、これは自信作か?」
「はい」
迷いのない返事であり、その期待に満ちた表情を見て、アルスは一瞬だけ言葉を選ぶ。
「そうか、自信作か……あのなティム、言いにくいのだがな」
ティムの眉がわずかに動く。
アルスは静かに口を開いた。
「これは『陶器』ではない」
部屋から音が消えた。
ティムが瞬きをする。
「……え? 『陶器』ではない? こんなに上手に焼けてるのに? では、それは何だというのです」
声が少し裏返る。
アルスは壺の胴を軽く叩いた。
「これはな……『土器』だ」
沈黙が落ちる。
「え……」
兵の一人が思わず声を漏らした。
ティムは壺を見つめ、それからアルスを見る。もう一度壺へ視線を戻した。
「……『土器』?」
誰も答えなかった。
「……やはりな」
レオンがぽつりと呟く。
ローザが振り向いた。
「レオン兄、知ってたの?」
「普通、見れば分かるだろ」
ローザも小さく頷く。
「だよね。私も知ってた」
静まり返った部屋で、知らなかったのはティムだけだった。
ティムは力が抜けたようにその場へ崩れ落ちる。
「……三年」
ぽつりと呟いた。
「三年やったんだけどな」
しばらく壺を見つめ、それから大事そうに机へ置く。
その背へ、アルスは静かに声を掛けた。
「夢を見るのは悪くない。ただ、粘土を焼くだけでは『陶器』には成らないんだ」
「な、なんだってーーーー」
大きく肩を落としたティムだったが、しばらくすると何かを悟ったように息を吐き、顔を上げた。
「そうか、俺は『土器』の王だったのか」
一拍置いて、ローザが小さく口を開く。
「……王ではないと思うの」
レオンも頷いた。
「そうだな」
ティムはおもむろに立ち上がると、壁へ立て掛けられていた弓を手に取ると、弦を指で弾く。
ぴん、と乾いた音が響く。
そして姿勢を正し、アルスへ向き直った。
「若、私ティム=ワーラーは、今この時を待っていました! 離れたとは言え元主家の一大事。我が弓の力、如何様にもお使いくだされ」
まるで今が再会の場であるかのように、綺麗な礼まで添える。
兵たちは呆気に取られていた。
三年を費やした焼き物が土器だと知った直後とは思えない切り替えだった。
アルスも思わず瞬きをする。
やはり、この男は変わっていない。
そんなアルスの横で、ゼダンだけが小さく息を吐いた。
「変わらんな」
ティムは胸を張ったまま、さらに言葉を重ねた。
「陶器で王になれぬなら、弓で王になります。館が焼けた今こそ、私の出番でしょう。土を焼くのはうまくいきませんでしたが、矢を放つ方はまだ錆びていないはずです」
ローザが額へ手を当てる。
「父さん……」
レオンが低い声で言った。
「親父」
「何だ」
「順番がおかしい」
「何がだ」
「土器王から弓王に転身するまでの理屈が飛んでる」
「飛んでない。人間には向き不向きがある。俺は土より弓の方に向いていただけだ」
ゼダンが静かに口を挟んだ。
「腕は鈍っておらぬか」
「当たり前だ」
迷いのない返事だった。
そのやり取りを見ながら、アルスは小さく息を吐く。
三年前と変わらない。
この男は、いつも勢いよく高く跳び、そのまま勢いよく地面へ落ちる。
だが落ちても折れない。落ちた場所で立ち上がり、何事もなかったかのように次を始める。
本人が言うのだから、力は落ちていないのだろう。その辺りは信用しても良い男である。
そして今、自分たちは一人でも多くの力を必要としているのは事実だ。だが、この場で軽々しく答えを出すことはできない。
三年前、ティムは自らの意思で主家を離れた。
夢を追って生きる道を選んだ男だ。
その男が今、戻ると言っている。
義理からなのか、夢を諦めたからなのか、それとも館が焼け落ちたことを知り、自分の居場所はそこだと改めて思ったのか。
理由はまだ分からない。
だが、どんな理由であれ、一度家を離れた者を迎え入れる以上、曖昧なままにはできなかった。
これから家を興すなら、なおさら規律は必要になる。
そして、もう一つ。
このことはゼダンの考えも聞かなければならない。
アルスは顔を上げた。
「ティム」
「はい」
「答えは明日だ」
弓を握る手が止まる。
「……明日?」
「今日は泊まる」
それだけを告げた。
ティムは数秒黙っていたが、やがて大きく息を吐く。
「わかりました」
静かに弓を下ろした。
ローザが父を見る。
「父さん、本当に行くの」
「行くに決まってるだろう」
レオンがぼそりと呟く。
「確かに親父が土器王のまま終わるのは、さすがに嫌だ」
「うるさい」
怒鳴り声は大きかったが、その表情はどこか照れくさそうだった。
その拍子に壺が床へ転がるが、乾いた音を立てながら転がった壺は、それでも割れなかった。
館は焼けたが、それでも土器は割れない。
アルスは転がった壺を見下ろす。
未熟な焼き物。
焼ききれていない土。
それでも形だけは残り続けている。夜が明ければ、自分も答えを出さなければならない。
焼け落ちたミュラー家を、自らもう一度築き上げるのか。
それとも、生き延びた兄弟の誰かが家を興したら、そこへ身を寄せるのか。
川の音は変わらず流れ続けていた。
そのせせらぎを聞きながら、アルスは静かに目を閉じた。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、ページ下部の☆を押して評価をお願い致します!
作者の励みになります!




